・・・まさか「フジヤマ」を描くことになるなんて、自分でも驚いています。もとより様式化というか定番になりすぎている「フジヤマ」ですから、今さら自分がと思っています。30歳頃だと思いますが、詩吟にあわせて描いてほしいと依頼があり、しぶしぶ引き受けたのが最初で3分ほどの間に畳2枚の大きさに水墨するのです。何度も練習し藤井寺市民会館ステージで披露、懐かしくて恥ずかしい思い出です。
《参考》墨絵吟「富士山 」
https://www.youtube.com/watch?v=wQ4J9b9_FXA
https://sanmateonippongakuyen.membershiptoolkit.com/home
・・・今回は、まさしく形態に触発され、さらに器の「金継」そして「北斎」へと結びついたこともあり「フジヤマ」に凝縮(結晶化)したわけです。3度目の正直は「富士登山」だろうと思っていますが、体力次第です。さてこの機会にいろいろ調べますと、興味深い資料を発見しました。
《「フジヤマ」の呼称の発生から定着に至る過程について》大阪観光大学紀要2012
富士山はなぜ「フジヤマ」と呼ばれるようになったか/文:上田卓爾(ホリスティックライフ研究所)
https://ueda-tourisme.jimdofree.com/profile-1/
https://irdb.nii.ac.jp/01052/0002758071
「フジヤマ・ゲイシヤ(あるいはゲイシヤガール)」といえば、かつては日本の観光を代表した、そしてもはや時代遅れの言葉のように思われる。ところで、ゲイシヤはさておき、なぜ富士山か「フジサン」でなく「フジヤマ」なのか。いつごろから[フジヤマ]と呼ばれていたのか。本研究では「フジヤマ」の呼称の初出から定着に至る過程について内外の文献をもとに解明することを心がけた。さらに、日本における「フジヤマ」の用例についても新聞記事を用いて検証を行ってみた。
●《ロングフェロー日本滞在記》に次のような記述がある。
「私たちは富士山の話で大喜び、だって『フジヤマ』というのは私たちが日本について唯一知っていることだし、聞き慣れない発音の難しい多くの日本語の言葉の中では親しみを覚えますもの。」この記述のとおりであれば、明治5(1872)年にすでに米国人に「フジヤマ」がよく知られていたことになる。
●《オールコック「大君の都」》
外国人として初めて富士に登頂したオールコック(在日1859.6~1865.12)によるものであるが、日本語訳では上巻に1箇所、中巻に21箇所富士山が現れる。翻訳はかなり原文に忠実で、富士山がフジヤマと記述されている部分にはほとんどすべてルビが付されている。
Fusiが1簡所、Fusiyamaが18箇所、訳語にあるが原文にないもの3簡所となっており、オールコックはほとんど「Fusiyama」と書いている。
整理すると、富士山を「フジヤマ」として世界に紹介したのは★ケンペルが最初であり、その「日本誌」を参考にしたペリー、ハリス、オールコックらがシーボルトの地図の記述と同様に「フジヤマ」を主として用い、米国の新聞では不統一ながら「フジヤマ」「フシヤマ」と表記され、時代が下がるにつれてパンペリーやC.A.ロングフェローのように「フジヤマ」と表記することが定着するようになったものと推定される。あくまでも米国の資料を主にした推論であるが、こうした18世紀から19世紀にかけての欧米諸国への伝播の状況から判断すると、「フジヤマ」があながち訛りであるとか、誤用であるとは言い切れないものがある。
●まとめと今後の課題:「富士山」は英語圏、ドイツ語圏、ラテン語圏の百科事典では大部分が「フジヤマ」として扱われており、その原点はケンペルの「日本誌」にあるということができる。今回は英語版の不完全な索引のため、原文表記を4箇所しか探し出せなかったが、さらに研究を続けて、より完全な原文表記を集めることとしたい。何故に原文表記にこだわるかといえば、日本語を含めた翻訳は読みやすさの点では有用ではあるがあくまでも二次資料として扱うべきものであると考えるからである。さらに戦前の日本における「フジヤマ」の用例は極めて少なく、限られた条件下でしか使用されていないことも判明した。研究を進めていくうえで、当時の観光行政が「フジヤマ・ゲイシヤガールを押し付け」たものではなかったことを証明するいくつかの資料も入手済みではあるが、今回は割愛せざるを得なかった。稿を改めて発表することとしたい。
《常陸国風土記》Wikiより
http://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/index_fudoki.html
富士山についての最も古い記録は★『常陸国風土記』(編纂713~成立721)における「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼称が存在し、不二山もしくは不尽山[注釈 5]と表記する古文献もある。また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称されたという説もある。近代以降の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説、マオリ語説、原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山」と表記される過程においては駿河国に由来するとするものがあり、記録としては都良香(834~879)★『富士山記』に「山を富士と名づくるは、郡の名に取れるなり」とある。
http://toki.moo.jp/gate/701-750/gate743/gate743.html
《富士郡》Wikiより
https://www.pref.shizuoka.jp/bunka/bk-120/
静岡県(駿河国)にあった郡。富士郡は歴史的には富士上方と富士下方とに分けられていた。富士郡の、特に富士上方と称された地域を富士氏が長きにわたって支配し続けていた。また、室町時代後期に今川氏親を後見した伊勢盛時(北条早雲)は富士下方を与えられたが、後に盛時が伊豆国を得て子孫が今川氏より自立して北条氏と称すると、この地域の支配権を巡って今川氏と北条氏の争いの一因となった。富士氏(ふじし、ふじうじ)は、駿河国富士郡富士上方(現在の静岡県富士宮市一帯)の領主。富士山本宮浅間大社の大宮司を継承する社家であり、また戦国期には富士城城主を務める武家であった。
《富士山本宮浅間大社》
418-0067静岡県富士宮市宮町1-1/0544-27-2002
http://fuji-hongu.or.jp/sengen/
●余談ですが、いわゆる『フジヤマのトビウオ』は昭和24(1949)年の流行語でした。