・・・「花は、いいよなあ~」家の近くを散歩してると、「レンゲ」が正式だと思っていました。
《ゲンゲ》(紫雲英、翹揺、Astragalus sinicus)
マメ科ゲンゲ属に分類される越年草である。中国原産。正式な名称は「紫雲英 / 翹揺(ともにゲンゲ)」。別名の「蓮華草(レンゲソウ)」は、この花がハス(蓮)の花に似ていることに由来します。また、「蓮華(レンゲ)」とも呼ばれます。英名の「Chinese milk vetch(中国のミルクのスズメノエンドウ)」は、この草をヒツジが食べると乳が増えるという意味であるといわれます。和文通話表で、「れ」を送る際に「レンゲのレ」という。湿ったところに生える。全体に柔らかな草である。茎の高さ10-25 cm。根本で枝分かれし、暖かい地方では水平方向に匍匐して60-150 cmまで伸びる場合もある。茎の先端は上を向く。また、根本から一回り細い匍匐茎を伸ばすこともある。葉は1回羽状複葉、小葉は円形に近い楕円形、先端は丸いか、少しくぼむ。1枚の葉では基部から先端まで小葉の大きさがあまり変わらない。花茎は葉腋から出てまっすぐに立ち、葉より突き出して花をつける。花は先端に輪生状にひとまとまりにつく。花色は紅紫色だが、まれに白色(クリーム色)の株もある。
ゲンゲの花は、良い★「みつ源」になる。蜂蜜の源となる蜜源植物として利用されている。ギリシア神話では、祭壇に捧げる花を摘みに野に出た仲良し姉妹の話が知られている。ニンフが変身した蓮華草を誤って摘んでしまった姉のドリュオペが、代わりに蓮華草に変わってしまう。「花はみな女神が姿を変えたもの。もう花は摘まないで」、と言い残したという。
春の季語。ゆでた若芽は食用にもなる(おひたし、汁の実、油いため他)。民間薬として利用されることがある(利尿や解熱など)。ゲンゲの花を歌ったわらべ歌もある。「春の小川」などが知られている。★「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」は、江戸時代に滝野瓢水が詠んだ俳句。遊女を身請しようとした友人を止めるために詠んだ句で、蓮華(遊女)は野に咲いている(自分のものではない)から美しいので、自分のものにしてはその美しさは失われてしまうという意味。転じて、ある人物を表舞台に立つべきではなかったと評する意味合いでも使われる。
乳牛を飼っているところでは、飼料とした。休耕田の雑草防止策にもなった。ゲンゲの生える中に不耕起直播して乾田期除草剤を使わないですむ方法、ゲンゲの枯れぬうちに入水、強力な有機酸を出させて雑草を枯死させる方法がある。ただしゲンゲは湿害に弱く、不耕起では連作障害が起きかねない。21世紀に入ってからは、外来種のアルファルファタコゾウムシによる被害がめだつ。
化学肥料が自由に使われるようになるまでは、緑肥(草肥)および牛の飼料とするため、8-9月頃、稲刈り前の水田の水を抜いて種を蒔き翌春に花を咲かせていた。これはゲンゲ畑と呼ばれ★「春の風物詩」であった。化学肥料は、20世紀に入ると生産が本格化したが、原材料が軍事物資という側面があり農業分野で大量に使用することがはばかられていた。このためゲンゲを水田や畑に緑肥として栽培することで化学肥料の使用を抑える手法が取られていた。戦後は、化学肥料の大量生産や使用が自由になったこと、また、保温折衷苗代の普及によりイネの早植えが可能になり、緑肥の生産スケジュールと被るようになったことも、ゲンゲ畑が急速に姿を消す原因の一つとなった。窒素固定は、植物が大気中の窒素を取り込んで窒素肥料のようなかたちで蓄えることによる。ゲンゲは、根に球形の根粒がつく。ゲンゲの窒素固定力は強大で10 cmの生育でおおよそ10 アール 1 t の生草重、4-5 kg の窒素を供給し得る。普通15ないし20 cmに成長するからもっと多くなるはずである。
【滝野瓢水】貞享元2年(1684)~宝暦12年(1762)
江戸時代中期の俳人。滝瓢水とも。播磨国加古郡別府村に生まれる。通称は叶屋新之丞のち新右衛門。生家は千石船七艘を有する富裕な廻船問屋だったが、瓢水の遊蕩乱費のため没落する。別号に富春斎・野橋斎・一鷹舎など。播磨別府の富裕な船問屋。大坂の来山に俳諧を学び、のち淡々に師事。雑俳の点者としても活躍した。俳諧に没頭してほとんど実家に帰らず遊蕩。家業をおろそかにしたので家の財産を食いつぶし、家屋を手放したという。奇行の人として『続近世畸人傳』に逸話が紹介されている。よく知られている「手にとるなやはり野におけ蓮花草」は後年の伝説による句で、★実の作ではない。宝暦12年(1762)05月17日(現在暦では07月08日) 旅先の大坂にて没。享年78歳、天王寺に葬られた。別府の宝蔵寺に瓢水の筆塚がある。
「手に取るな やはり野に置け ★蓮華草」大阪の知人が、遊女を身請けしようとしていたのを、諫めて詠んだ句。
「蔵売つて 日当たりのよき牡丹哉」放蕩を尽して余りあるはずの財産を使い果たし、次々と土地家財を売り払い、立ち並んでいた蔵の最後の一つを手放すこととなったその日に詠んだ句。
「さればとて 石にふとんも 着せられず」母親を亡くした際に落胆し、墓に詣でて詠んだ句。
「本尊は 釈迦か阿弥陀か 紅葉かな」神戸市須磨区~句碑・歌碑より
https://www.city.kobe.lg.jp/i73375/kuyakusho/sumaku/shokai/midokoro/kahi.html
《禅昌寺》神戸市須磨区禅昌寺町2-5-1
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/gnavi/index.php?lid=37&cid=3
後光厳天皇の勅令により建立された西摂有数の寺院で、延文年間(1356年 - 1361年)月菴宗光の開山により創建された寺で、足利幕府は寺領36石を寄進し、織田信長・荒木村重より諸役免除の沙汰を受けた。天正3年(1580年)豊臣秀吉の三木城・別所長治攻めの兵火で焼失し、後に桃山御殿から豊国亭を移して方丈として再興。慶長十九年に家康の後で金地院崇伝が、この寺ににった大蔵経を南禅寺に移した。これが今も南禅寺に現存し版重要文化財に指定されている。宋版のほか、麗大蔵経の初彫版が多く含まれることで知られる印1879年(明治12年)堂宇を焼失したが、運び出された板絵戸二枚が現存。本堂は、1915年(大正4年)に再建し、内陣正面に奉安されている御本尊は、約650年前に阿弥が作った★十二面観音で、お顔が十二面ある、たいへん珍しい形式の仏像です。1983年の山門解体修理中に銘板が見つかっている。寺の傍にある墓地には、“はしかの神様”として知られる戸沢平九郎光盛、地震研究の草分け、関谷清景の墓がある 。境内の開山堂にぶらさがるひょうたんは「スズメのお宿」として知られています。紅葉寺とも呼ばれるとおり、広い参道わきの紅葉はすばらしく、周辺の景観等の調和は古来より有名です。境内には、江戸時代の俳人芭蕉や★滝瓢水、伊藤博文等の文学碑があり、山門は江戸時代の彫刻職人、左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝えられています。
・・・「十二面観音」観てみたいなあ。いろいろ調べてみました。
《紙本白描応現観音図》蔵★五島美術館
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/177077
本図は、10世紀後半、呉越国王銭弘俶(929~988)により開版された版画に基づき、我が国平安時代末に玄証(1146~1222頃)周辺で描かれた白描図像であり、高山寺に伝来した。図中の額字及び下段の偈文により、本図が観音の二四種の応現の様を描いていることがわかるが、典拠は明らかではない。原本となった版画については、銭弘俶が「天下大元帥」と称した建隆元年(960)から太平興国三年(978)の間に開版されており、開宝七年(974)杭州浄慈寺の延寿(904~975)が銭弘俶の援助を受け「二十四応観音像」を開版していること(中国国家図書館・元照『永明智覚禅師方丈実録』)にかかわるとする説がある。このことは様式的にも首肯され、本図は、北宋・雍煕二年(985)に清凉寺・釈迦如来像に納入された版画「弥勒菩薩像」(高文進画、雍煕元年・984年開版)や版画「普賢菩薩像」・「文殊菩薩像」の形態に近似し、北宋初期の様式に連なる。また下段に記された真言の多くは延寿が日課として称えていたものであり(『慧日永明寺智覚禅師自行録』)、相互に関連のあることがわかる。本図の端裏には「応現観音 玄証(花押)本」「臺廿四箱」の墨書および「高山寺」朱文長方印があり、本図が平安時代末から鎌倉時代初期にかけて密教図像の書写、収集に努めた玄証所縁の画像であり、高山寺法鼓台経蔵に伝来したことが知られる。玄証の署名や花押を有する図像の多くは彼が住した高野山月上院から高山寺に移入された。これらの「玄証本」には玄証収集本と自筆本の二種のあることが知られる。
★文化財の新指定・登録(美術工芸品)/文化庁
https://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2011_11/news/news_01.html
平成23年度は、新たに43件が重要文化財に指定され、2件が登録有形文化財として登録されました。新たに指定・登録された45件の文化財について、絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書、考古資料、歴史資料の分野毎にご紹介します。
[4]紙本白描応現観音図/外題下に玄証の花押がある一枚/財団法人五島美術館
10世紀後半に呉越国王銭弘俶(929~988)が開版した版画に基づき、我が国平安時代に描かれた図像です。裏面に玄証(1146~1222?)の花押を据えています。★十二面六臂の観音が踏割蓮華座に立ち、その周囲には二十四種の観音の応現図があらわされます。〔平安時代〕
《応現観音図と五台山図》文:増記隆介/神戸大学「美術史」論集
先に私は、「紙本白描応現観音図についてIその原本の絵画史上の位置-」(『かがみ』第四十二号、大東急記念文庫、平成二十四年三月)と題して、大東急記念文庫(現・五島美術館)所蔵の玄証本「紙本白描応現観音図」の主尊である★十二面観音像の背後にあらわされた「二十四応現」の各モティーフ成立の様相について考察した。そこでは、仏教絵両、経典の記述等からの受容を基本としながらも、十二面観音と神異僧・宝誌との結びつきから、北宋王朝の成立を予言したとされる「宝誌銅牌記」の内容との関わりを指摘することで、北宋王朝の成立を嘉するような瑞祥の図像をも取り込みつつその図様か形成されたことを指摘した。
《普陀山》(Pǔtúo Shān)
中華人民共和国浙江省・舟山群島にある島。中国四大仏教名山(仏教の聖地。五台山、九華山、峨眉山、普陀山)の一つで、観音菩薩が祀られている。年間360万人を超える観光客が訪れる。普陀山の観音が★十二面観音であるということは知られていない。()当地が観音霊場となった由来は、916年、中国への渡来僧である慧萼(えがく)が、中国留学を終えて日本に帰国しようとした際、日本に招来しようとした観音菩薩が当地で日本に渡ること拒んだ(=不肯去)、という故事にちなんでいる。よって、その観音菩薩は「不肯去観音」と称されており、そのお堂は「不肯去観音院」と呼ばれる。以後、この舟山群島中の普陀山は、観音菩薩の浄土である補陀落に擬せられ、人々の信仰を集める中国有数の霊場となった。「普陀山」という名称の由来も、「補陀落」である。
《参考》
●慶應義塾大学「アジア基層文化研究会」普陀山/文:野村伸一
http://web.flet.keio.ac.jp/~shnomura/Putuoshan/putuoshan.html
不肯去観音院の観音。十一面観音である。しかし、これは慧萼が五台山から将来した観音ではない。★原像は失われた。
●『五台山文殊菩薩化現図』蔵:ギメ東洋美術館/文:張南南/京都美学美術史学 (5)2006京都大学
http://www.nk.rim.or.jp/~hyshk/aesthetics/journal/index.html
http://www.mmm-ginza.org/museum/special/backnumber/0711/special01.html
・・・迷宮に入り込んでしまいました。「十一面観音」が普通だと思っていましたが、そもそも「十一面」って何?
★「十一面観音の秘密」丹生山・近長谷寺HPより
519-2176三重県多気郡多気町長谷202/
http://www.ma.mctv.ne.jp/~jr2uat/temple/smenu4.html
・・・じっくり、お寺にも行きたいなあ。