・・・「風」を追いかけて久しい。「風の色」「風の薫り(香り、匂い)」などは、もとより多くありそうなので、あえて「風のかたち」に取り組んできた。
《参考》
●城倉吉野句集『風の形』/序:大木あまり/装丁:君嶋真理子/ふらんす堂2010
https://furansudo.ocnk.net/product/1591
◆第一句集
雨傘をやはらかく閉ぢ雛の日
集中、白眉の一句。雨の雛を詠みながら、香り立つような内裏雛の顔が目に浮かぶから不思議。美しい一日を作者と共に過ごしているような心地がする。しなやかでしたたかなこの句は、これからの吉野俳句を暗示しているようだ。(序より:大木あまり)
◆自選十句
春寒しギャラリーくぼたに入るひと/じやんけんや関八州に春の雪/雨傘をやはらかく閉ぢ雛の日/ギンガムの少年の脛愛鳥日/茶柱や植田広がりゆく真昼/サミシイカラヂイチャンヰテネ未草/桑の実のしきりに熟るる無沙汰かな/秋風やお帰りなさいといふ鏡/天の川ひとは小さな息をして/裸木に力ある日やままを炊く
●《Ever Blue~風のかたち》歌:Maya /アルファレコード1994
●《風のかたち》歌:篠原美也子/アルバム:満たされた月/作詞:篠原美也子/作曲:篠原美也子、萩田光男/テイチク1993
●《打楽器シリーズ:風のかたち》ビブラフォン独奏・作曲:新実徳英
★「風姿花伝」Wikiより
世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年(1909年)に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは能楽流派の奈良金春宗家の相伝の「秘伝書」の形で、その存在すらほとんど知られていなかった。『花伝書』の通称が用いられていた頃もあったが、後の研究の結果現在では誤称とされる。能の芸道論としても読める一方、日本の美学の古典ともいう。Kadensho、Flowering Spiritなどの題名で何度か外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。
●《打楽器シリーズ:風のかたち》ビブラフォン独奏・作曲:新実徳英
★「風姿花伝」Wikiより
世阿弥が記した能の理論書。世阿弥の残した21種の伝書のうち最初の作品。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・演出論・歴史・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。成立は15世紀の初め頃。全七編あり、最初の三つが応永7年(1400年)に、残りがその後20年くらいかけて執筆・改訂されたと考えられている。「幽玄」「物真似」「花」といった芸の神髄を語る表現はここにその典拠がある。最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論とも言える。多くの人に読まれ始めたのは20世紀に入った明治42年(1909年)に吉田東伍が学会に発表してからで、それまでは能楽流派の奈良金春宗家の相伝の「秘伝書」の形で、その存在すらほとんど知られていなかった。『花伝書』の通称が用いられていた頃もあったが、後の研究の結果現在では誤称とされる。能の芸道論としても読める一方、日本の美学の古典ともいう。Kadensho、Flowering Spiritなどの題名で何度か外国語訳もされ、日本国外でも評価されている。
●『ル・コルビュジエの住宅と風のかたち』(新建築社)
https://shinkenchiku.online/shop/special-issues/book-111304/
本書では、ル・コルビュジエが設計した9作品について「どんな風が流れるか?」「より快適域を拡げるには?」 「その改善案は東京で応用できるか?」などをシミュレーションで検証しています。 自然環境との付き合い方を熱・気流シミュレーションで模索した、建築設計の新しい可能性を感じられる1冊です。
●「ヨットのテクノロジー──冒険と風のかたち」/LIXIL出版1994
人間が知恵と体力をたよりに風を操りながら進むヨットには、常に時代の最先端技術が駆使されている。セイル、マスト、キール......、テクノロジーの実験室・ヨットを科学する。
●「近江~風のかたち-高島扇骨と近江扇子-」
http://www.seian.ac.jp/public/24187
●「風のかたちー小児がんと仲間たちの10年ー」/いせフィルム
https://isefilm-movie.jimdofree.com/
病気を体験した子どもたちが、弱さを強さに変えていく姿。医師やボランティアたちが、病気の子どもとかかわることで力を得ていく姿。にんげんの生きる力、希望のようなもの・・・。10年の歳月が、命の尊さ、生きる意味をやわらかに問いかける。悲劇の物語でなく★「再生」という希望を語りかけるドキュメンタリー。★「子どもは死んじゃいけない人たちだからね」カメラに語りかけたこの言葉こそが、映画『風のかたち』の立ち位置です。10年間の歳月が語りかける、小児がんと闘う仲間たちの生きる力・・・。それは不断に蘇る命そのものの力ではないでしょうか。時間をかけて、ひとりひとりの命を見続けることで見えてきた「再生」という希望が描かれます。小児がん患者や体験者を、悲劇の主人公ではなく、「再生」のシンボルとして描いたこの物語は、命の尊さ、生きる意味を問いかけ、心が病んだ時代としばしば言われる私たちの社会に、希望をメッセージするに違いありません。今、この作品は私にとって、社会にとって、必然であると確信します。
《再生》Wikiより
基本的には文字通り、「再び生きること」や「再び生かすこと」を広くさしており、"死んでいる"とされる状態(仮死状態)から、"生きている"とされる状態に戻ること。→回生、蘇生。
・・・様々な情報を参考にしつつ、なぜ「風」を描こうとしているのかと自問自答。先に逝ってしまった友人へのレクイエム(requiem)として「風奏(風葬)」を描いて以来、身体にまとわりつく風。大好きな福岡伸一さんが、「ナウシカ考」の書評を書かれていました。
★宮崎駿の苦悩や逡巡、透徹を追体験。名作を深く精緻に読み抜く論考/レビュアー:福岡伸一(青山学院大学教授)/週刊新潮2020年3月19日号
https://www.bookbang.jp/review/article/614394
赤坂憲雄の最近の著作には何かに取り憑かれたような殺気がある。近著『性食考』、そして今回の大作『ナウシカ考』。ふたつの「考」は一見互いに独立しているように見えるが、実は通底している。人類史における、★ロゴス(論理)とピュシス(自然)の相克を考え抜いているのだ。宮崎駿の★『風の谷のナウシカ』にはアニメ版とマンガ版がある。高度に文明化した社会が最終戦争によって破壊された後の千年。アニメ版が、少女ナウシカをシャーマン的な地球環境の救世主として描き、物語を小綺麗にまとめたのに対し、その後、長期にわたって書き継がれたマンガ版では、この結末が否定され、複雑に絡まり合った難解なものとなる。千年といえば『ヨハネの黙示録』である。赤坂は同じ構造を見てとる。キリストの死とサタンの封印、千年王国、そして最終戦争を経て永遠の時が訪れる。ところがナウシカの物語は一筋縄には進まない。特に結末、★人類再生のために密かに準備されていた約束の場所を破壊してしまうナウシカの行動は最大の謎だ。赤坂は宮崎駿の苦悩、逡巡、そして透徹を追体験し、それを宮崎自身の内部に谺(こだま)するポリフォニー(多声)だと見てとる。赤坂の結論はこうだ。ナウシカの物語は、黙示録ではなく、黙示録的なプログラムを最終的に拒絶する反-黙示録なのだと。宮崎駿の思想を、ここまで精緻に読み抜いた論考はかつてなかった。『トトロ』も、『もののけ姫』も、『千と千尋』も、この哲学とつながっている。本書を読みながら終始、私の脳裏に(まさにポリフォニーとして)谺していたのはSF作家ラッセル・ホーバンの奇書『リドリー・ウオーカー』だった。舞台は最終戦争後、数千年が経過した英国。文明はすべて失われ、人々は遺跡から鉄骨などを発掘し再利用している。奇書と書いたのは、文字さえもいちど消失し、この本自体が不完全な英語で書かれているからだ。そんな中、一部の人間が武力と権力の復興をめざし始める。主人公の少年リドリー・ウオーカー(謎を歩く人、の意)も残虐な闘争に飛び込む。しかし最終章で、リドリーはすべてに背を向けて旅芸人の一座に加わって姿を消す。この奇妙な終わり方を、私は、★パワーを求めないことこそが真のパワーだ、というメッセージとして読んだ。永遠の時を拒否して森に去ったとされるナウシカ。その後ろ姿とリドリーが重なった。二人はロゴスを拒み、ピュシスに従ったのだ。
・・・すごい発想というか、「ピュシス(自然)」を体現するということなのか?とにかく「ナウシカ」を再考してみよう。
《ジブリ》
《新作歌舞伎「風の谷のナウシカ」》
https://www.nausicaa-kabuki.com/
★「岡田斗司夫ニコ生ゼミ」より/2019.1.15
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51553213.html
この映画には海が2つ出てくるわけですよ。まずは、風の谷の近くにあって、“塩の海”と呼ばれている風が吹いてくる安全な海。まあ、「安全な海」と言っても、ナウシカ達はそこで漁業とかは一切やっていないから、実はこの海も死んでいるわけですけど。それとは逆に、ナウシカたちからすれば、谷をどんどん上がっていって、1000m近く登った末にある砂漠の中の酸の海。その向こうに腐海があるという、2つの海に挟まれているわけですね。そういう狭い狭いところで暮らしているという、風の谷の全体構造というのを軽く掴んでおいてください。
ナウシカみたいにメーヴェに乗ってないので、ユパは歩いて降りるしかない。なので“トリウマ”と呼ばれる馬のような生物に乗って、谷の側道を下って行きます。すると、足元から砂塵が崖の上の方に流れて行きます。ここで吹いている風は、ただの風ではなくて、砂混じりです。これは、酸の海や腐海からの胞子を吹き飛ばすための砂なんです。ただの風ではなくて、酸の海や、山の上の方から降りてくる★瘴気、毒とか胞子とかを吹き飛ばすために、風の中に砂を含ませて、それで吹き飛ばしているわけですね。谷をどんどん降りて行くと、ユパの前に、巨大な“砂退けの棚”というのが現れます。
《瘴気》Wikiより
古代から19世紀まで、ある種の病気(現在は感染症に分類されるもの)を引き起こすと考えられた「悪い空気」。気体または霧のようなエアロゾル状物質と考えられた。瘴気で起こると考えられた代表的な病気はマラリアで、この名は古いイタリア語で「悪い空気」という意味の mal aria から来ている。 マイアズマ、ミアスマ、ミアズマ (μίασμα, miasma) ともいい、これはギリシア語で「不純物」「汚染」「穢れ」を意味する。漢字の「瘴」は、マラリアなど熱帯性の熱病とそれを生む★風土を意味する。
《参考》「風立ちぬ」(宮崎駿)ジブリ/「おやじのつぶやき」より
https://blog.goo.ne.jp/12240106/e/367452f9dff16af84e69cd620e14fc44
実は宮崎駿さんの作品を劇場で観たことはなく、すべて我が家のTV(ビデオ)で。それも途切れ、途切れで。今、映画館で観るアニメは孫にせがまれてみる「ドラえもん」「ポケモン」くらい。今回の作品。今のご時世の中、ちょっと気になるテーマでもあったので観に行きました。さまざまな批評、感想が多く語られているので、あえて触れず。一点だけ。「風」。「風立ちぬ。いざ生きめやも」。ここでの「風」は肌に心地よい風のイメージ。風に吹かれる、その中での息づかいがこうした表現につながっていくような印象。しかし、今、政治でも経済でも教育でも、あらゆる分野で、風向きがおかしい。ふわっとした風によって(そういうふうにみせかけながら意図的に吹かせる「風」によって)、ふわっとした気分での行いが、静かに静かに進んでいき、いつしか実体化し、その現実の中で、気がつけば、右往左往する・・・。しかし、映画で吹く「風」はいつも激しい。さわやかな「風」では、けっしてない。二郎と奈緒子の初めて会う場面でも、再会の場面でも吹く風は激しい。大震災の地鳴りとともに激しい火災によって巻き起こされる旋風。飛行機のエンジンから出る風も激しい。蒸気機関車から吹き出す黒煙も穏やかではない。しかし、そうした「風」が立ってしまった(立ち始めてしまった、巻き込まれてしまった)としても、その中から(その中にあってこそ)生きなければならない。そんなメッセージ性を強く感じました。時代の中で、激しい風に対抗する毅然とした姿勢と、そして、静かに心地よさそうに吹く風の本質を見抜くという大事な感性を失わないこと、こんな「生」き様を、今こそ必要としているようです。どんな風にも乗って悠々と、時には風をうまくつかんで、時には逆らって飛ぶ「美しい」機能美の飛行機になぞらえて。戦時下の飛行機は、あくまでも機能的な「残酷な兵器」。海軍零式艦上戦闘機いわゆるゼロ戦。1940年から三年間、ゼロ戦は世界に傑出した戦闘機であったのですが。
・・・私達の主人公が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気もはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憧れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少なくない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能において最も抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は、”風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公”二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会いと別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を越えた彩りをそえて、完全なフィクションとして1930年の青春を描く、異色の作品である。描かねばならないのは個人である。リアルに 幻想的に 時にマンガに 全体には美しい映画をつくろうと思う・・・(2011.1.10 宮崎駿)
ラストシーンは、印象的でした。荒涼とした野の、吹きすさぶ風の中に立つ主人公。
《風の帰る場所》著:宮崎駿/ロッキングオン2002
http://www.rockinon.co.jp/product/book/25732
「どんな状態になっても世界を肯定したいっていう気持ちが自分の中にあるから、映画を作ろうっていうふうになるんじゃないかと思うんです」(本書より)――『千と千尋の神隠し』でついに第75回アカデミー賞を受賞し、名実ともに世界のトップ・アニメーション映画監督となった宮崎駿。決して大人に向けてではなく、ある10歳の子どもたちを観客として想定して作られた作品であり、しかも湯屋を舞台に何から何まで非常に日本的なるもので作られた作品であるにもかかわらず、『千と千尋』が年齢も国境も超えたグローバルな普遍性を獲得することができたのは何故なのでしょうか。本書は12年の歳月をかけて行われたインタヴューのすべてをノーカットで収録した、宮崎駿の決定版インタヴュー集です。華やかなサクセスストーリーを歩んでいると誤解されがちですが、宮崎駿のアニメーター人生は決して平坦な道のりではありませんでした。実は苦渋の決断だった『ナウシカ』のアニメ化、『となりのトトロ』の興行的な失敗、表現者としてぶつかった壁……のどかな世間のイメージとはかけ離れた、一人の表現者・宮崎駿、そして人間・宮崎駿の真実。本書ではそのすべてが、宮崎自身の肉声によって語られています。様々な苦悩と困難を乗り越えて、宮崎駿はなぜ世界を肯定できたのか。12年間かけてじっくり積み重ねられた、あまりに重く、そしてあまりに眩しい言葉の数々。本当の宮崎駿を知ってください。
目次
○ 1990年11月「風が吹き始めた場所」映画/拠り所/現代/風/娯楽/ブランド/黄金律/自己嫌悪/日本人/動態/左翼思想/本音と建前/手塚治虫/ディズニー
○1992年7月「豚が人間に戻るまで」豚の由縁/崖っぷち/東西の崩壊/嘘/豚でしかない人間/「仕方のないもの」/根拠/出発点/創作意欲/終わっていない映画/メガヒット/本質/突き抜けたニヒリズム/ジャパニメーション/時代劇/奇跡/種を蒔く人
○1997年7月「タタラ場で生きることを決意したとき」引退/職工頭/業の深さ/日の当たらない日本史/コダマ/『もののけ姫』の世界観の裏側/新しい歴史観/不条理な生/暴力性/自信の喪失/愛憎/ジブリというタタラ場/庵野秀明/押井守/高畑勲/無意識
○2001年7月「ナウシカと千尋をつなぐもの」静かな山場/千尋と海/急遽の変更劇/油屋=ジブリ/顔の見える観客/銀河鉄道の夜/大事なもの/予感/鉄砲オタク/物語
○2001年11月「風の谷から油屋まで」失業者/漫画家/持ち込み/制約/職場/橋/「ライフワーク」/映画版『ナウシカ』のエンディング/世界観の造形/『ナウシカ』の成功/少年モノとしての『ラピュタ』/脇役/戦前・戦後/キスシーン/女性観/『トトロ』への積年の想い/日本/日常/草原/台風/『トトロ』の失敗/ヒモつき/思春期/佳境に入ったコミック版『ナウシカ』/社員/経営者/冷戦の終結とバブルの崩壊/後悔/真っ向勝負/シンプルでストロングなストーリー/「タタラ場」という現実/祝福/メロドラマ/答え
《続・風の帰る場所 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか》/著:宮崎駿/2013
今年9月、長編アニメーション映画製作からの引退を発表した宮崎駿。1990年の創刊時から彼に幾度もロング・インタビューを重ねてきたロッキング・オンは、その貴重な言葉をまとめた単行本の第2弾を刊行します!2008年の『崖の上のポニョ』から、最後の長編監督作品となった『風立ちぬ』までの5年間に雑誌CUTで行った4本のロング・インタビュー、そして徳間書店『出発点』にも収録されている、初演出作品『未来少年コナン』と長編監督デビュー以前のキャリアを語った2本を加えた計6本、12万字を一挙に掲載。映画監督・宮崎駿の本質に迫る決定版インタビュー集です!
〇2008年9月「初めて人間に憧れる主人公を描く」
〇2010年9月「もう少年が主人公の映画しか作らない」
〇2011年9月「震災、そしてファンタジーの終わり」
〇2013年9月「初めて自らの映画に泣く」
〇1983年10月「演出家・宮崎駿の誕生」
〇1984年3月「宮崎駿はいかにしてできあがったのか」
・・・明日から、5月です。