《料理と酒と雑談で楽しむ茶会『利休の懐石』》著:筒井紘一/KADOKAWA学芸ノンフィクション編集部・泉実紀子2019
懐石料理というと、料亭で出される豪華な食事のイメージが強いかもしれません。元々は懐石も「会席」と記されていました。禅宗の厳しい修行の際、空腹や寒さを一時的にしのぐための★「温石(おんじゃく)」、懐(ふところ)に石を入れる行為から、この字を使うようになったといわれていますが、その説にも本書では鋭く切り込みます。そもそも、茶の湯の基本は茶会です。茶会とは、大きく2つのパートに分かれ、前半で食事、休憩時間をはさんで後半でお茶をいただくもの。本書ではこの前半に焦点をあて、草庵茶の始まりのころから、大成者である千利休、そして古田織部以降、近代の数寄者まで、どんなものが食べられてきたか、どんな人が、どんな趣向を凝らしてきたかを数々の歴史的資料から読み解いていきます。後半では近代の数寄者たちのもてなし、こだわりがわかるエピソードも紹介。益田鈍翁(どんのう)の茶会に招かれた客の中にも、茶会で料理がふるまわれることを知らず単に茶を飲む会と思い込んで、事前にたらふく料理を食べてから参加した人もいたというくらいおおらかな話もあります。小林逸翁(阪急東宝グループ創業者、小林一三)は丼会と称した茶会を151回も続けました。向付を出した後に親子丼などで食事、席を替えてお茶を飲むというやり方です。食事をし、酒を飲み、雑談に花を咲かせて茶を楽しむ。形式ばらない楽しみ方。これが★茶の湯の基本なのだと改めて認識させられます。
・・・「茶の湯」は奥が深いというか「懐が深い」なあと感服。個人的には、呈茶(立礼席)で和菓子をいただく程度が分相応です。
※「お茶会」には大きく分けて3種類あります。「大寄せの茶会」と呼ばれる20~30人が一度に同席するもの。「(少人数の)茶会」正客、次客、三客(お詰め)のように2~3人程度をもてなすもの。★「茶事」と呼ばれる途中食事(懐石)が出る正式なもの。
※呈茶(ていちゃ)とは、客人にお茶を差し上げること。厳密な茶道のお茶会ではありませんので、抹茶を気軽に楽しむことができます。立礼式は、「畳に正座スタイル」ではなく「椅子に腰掛けるスタイル」で、テーブルがある場合もあります。
《懐石》Wikiより
日本料理の一種で、本来茶の湯において正式の茶事の際、会の主催者である亭主が来客をもてなす料理をいい、禅寺の古い習慣である懐石にその名を由来する。懐石料理とも呼ばれる。懐石を弁当にしたものを「点心」という。
※「点心」という名前は禅語『空心(すきばら)に小食を点ずる』からきたという説や、心に点をつけることから心に触れるものと言う説がある。明確な定義はないが、食事の間に少量の食物を食べることなので、菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれる。中国の朝食は点心ですまされる事が多い。日本には室町時代に伝来し、朝食と夕食の間に食べる箸休めの品とされた(当時は1日2食が普通だった)。茶を飲みながら点心を食べることを飲茶(ヤムチャ)という。また、点心を専門に作る料理人は点心師と呼ばれる。
茶の湯の食事であり、正式の茶事において、「薄茶」「濃茶」を喫する前に提供される料理のことである。利休時代の茶会記では、茶会の食事について「会席」「ふるまい」と記されており、本来は会席料理と同じ起源であったことが分かる。江戸時代になって茶道が理論化されるに伴い、禅宗の温石に通じる「懐石」の文字が当てられるようになった。懐石とは寒期に蛇紋岩・軽石などを火で加熱したもの、温めたコンニャクなどを布に包み懐に入れる暖房具(温石)を意味する。「懐石」が料理に結び付く経緯は諸説ある。一に修行中の禅僧が寒さや空腹をしのぐ目的で温石を懐中に入れたことから、客人をもてなしたいが食べるものがなく、せめてもの空腹しのぎにと温めた石を渡し、客の懐に入れてもらったとする説。また老子の『徳経』(『老子道徳経』 下篇)にある被褐懐玉の玉を石に置き換えたとする説などである。天正年間には堺の町衆を中心としてわび茶が形成されており、その食事の形式として一汁三菜(或いは一汁二菜)が定着した。これは★『南方録』でも強調され、「懐石」=「一汁三菜」という公式が成立する。また江戸時代には、三菜を刺身(向付)、煮物椀、焼き物とする形式が確立する。さらに料理技術の発達と共に、「もてなし」が「手間をかける」ことに繋がり、現在の茶道や料亭文化に見られる様式を重視した「懐石」料理が完成した。なお、『南方録』以前に「懐石」という言葉は確認されておらず、★同書を初出とする考えがある。
現代では茶道においても共通する客をもてなす本来の懐石の意味が廃れ、茶事の席上で空腹のまま刺激の強い茶を飲むことを避け、茶をおいしく味わう上で差し支えのない程度の軽食や類似の和食コース料理をさすといった実利的な意味に変化している。懐石料理は茶事以外の場、例えば料亭や割烹などの日本食を扱う料理店を初めとして様々な飲食店で提供される饗応料理である会席料理と同じ「カイセキ」の発音の混同を防ぐため、茶事を目的とする本来の懐石を特に「茶懐石」と表して区別することもある。懐石と会席料理は音が共通するため、しばしば混同されるが、両者は全く別のものであり、料理を提供する目的も異なっている。懐石は茶事の一環であり、茶を喫する前に出される軽い食事で、酒も提供されるが、目的は茶をおいしく飲むための料理である。一方、会席料理は本膳料理や懐石をアレンジして発達したもので、酒を楽しむことに主眼がある。料理の提供手順も異なっているが、顕著に異なるのは飯の出る順番である。懐石では飯と汁は最初に提供されるが、会席料理では飯と汁はコースの最後に提供される。また一人一人に料理が盛って持ち出され、茶席におけるように、取り回し時に特別の作法を言われぬことなど、総じて料理屋で食べる会席料理は打ち解けたものであることが多い。また料理店によっては料理のみを提供し、料理の後に薄茶の提供がないこともままある。加えて、懐石料理は本来量が少なかったことから、量の少ないコース料理全般を懐石と呼ぶ傾向があり洋風懐石や欧風懐石といった名称の料理が存在する。尚、「懐石」には「料理」の意味も含まれているため、「懐石料理」とするのは重言となるとの向きもある。
《お茶の菓子(茶菓子)》
お茶の美味しさを引き立てること、さりげなく四季折々の自然の趣を思い起こさせるものが、味わいもあり相応しいものとされています。四季の移ろいを、先駆けて告げるのが茶菓子と言われます。もてなす側の亭主が手作りにしたものを勧めるのが本来の姿。一番食べ頃を考えて作り、形は少々悪くても、その心が客に伝われば良い訳です。実際に作ることが難しい場合は、菓子屋で入手する訳です。茶菓子は★風味に重点を置いたものとも言われます。鎌倉時代には禅僧の生活に喫茶の習慣が定着し、中でも「点心」と呼ばれる簡単な小食は後の「おやつ」の原型になったようです。室町時代に入ると武士の精神と禅宗が結びつき、武家社会を中心に「茶の湯」が発達しました。茶道の確立とともに、茶席でも菓子が発達していきました。その頃の菓子は木の実、アワビ、松茸の煮物味噌を付けた餅、焼き栗などが用いられました。長い間、料理の一つとして「茶の肴」とも呼ばれてきたようです。安土桃山時代以降に砂糖が多く使われるようになりました。いわゆる南蛮貿易によりポルトガルやスペインから金平糖、有平糖、ぼうろ、カステラなど卵と砂糖をふんだんに使うものが輸入されたのです。ただ、まだ特殊階級のもので一般的ではありませんでした。江戸時代に入り和菓子も完成されていき、天保10年(1839)には「古今新製菓子大全」が刊行されました。ここには、200種の蒸し菓子、干菓子、飴今の菓子の図示と製法が記され今日の和菓子の基本はほとんど完成されました。御所のある京都では、献上菓子(略して上菓子)「御用菓子」が盛んになり、上菓子屋、饅頭屋、餅屋が区別されて商いをしていたらしいです。しかし、砂糖はまだまだ貴重品で、薬屋でも売られていたとのことです。
茶の湯では懐石の後のデザートとして発達してきたものが、生菓子(蒸し菓子)となりました。茶菓子に主題と季節を織り込み、亭主が趣向をこらす過程で洗練されていきました。五味(甘、酸、渋、苦、辛)五感(視、触、味、嗅、聴)を大切に長い茶道の歴史の中で、季節の移ろいにつれて彩りを変え、姿を変える自然を色と形に映した和菓子が成長したのです。正式な茶会では、「主菓子」は★濃茶の前の前座の料理の後で、菓子そのものの味を賞味するものに対して、「干菓子」は★薄茶の時にお茶と菓子の両者の味が調和したものを賞味するものという違いがあります。
※濃茶と薄茶(おうす)
https://fushikaden.net/archives/2464
・・・ああ、羊羹かキンツバを食べたくなってきました。
《羊羹》Wikiより
もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類であった。南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が「羊羹」を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えるが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われる。冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となる。日本の文献における「羊羹」の初出は室町時代に書かれた『庭訓往来』の「点心」の記事と言われている。初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生している。「煉羊羹」が日本の歴史に登場するのは1589年(天正17年)で、山城国伏見九郷の★鶴屋の5代目岡本善右衛門が、テングサ(寒天の原料)・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発し豊臣秀吉に献上した。鶴屋は徳川頼宣に従って紀伊国和歌山に移り★駿河屋と改名したが、その後も改良を重ね1658年(明暦4年)には完成品として市販されている。
《NEWS》2018.12.29産経新聞より
紀州徳川家400年記念菓子「五色羊羹」展示/総本家駿河屋が製作
http://www.souhonke-surugaya.co.jp/
550年以上の歴史を誇る老舗和菓子メーカー「駿河屋」ののれんを受け継ぐ「総本家駿河屋」の駿河町本舗(和歌山市駿河町)は28日、来年の紀州徳川家400年にちなみ、記念菓子の展示を始めた。餅などを高く積み上げる神事の菓子「神饌(しんせん)」に見立て、羊羹(ようかん)を積み上げた「五色羊羹」。「煉(ねり)羊羹発祥の店らしく、五色の羊羹を美しく高盛りして調製した」としている。紀州徳川家は元和5(1619)年に初代藩主・徳川頼宣(よりのぶ)が和歌山入りしてから来年、400年の節目を迎える。総本家駿河屋の前身は、室町時代の寛正2(1461)年に創業。江戸時代、頼宣に随伴して和歌山入りし、紀州藩の「御用菓子司」として栄えた。
のれんを継ぐ総本家駿河屋では今回、来年の紀州徳川家400年の記念菓子として五色羊羹を製作。1個約7・5センチの立方体の羊羹計19個(5色)を4段に積み上げた。販売はせず、店頭で来年1月7日まで展示する予定。一方、来年1月の「歌会始の儀」のお題「光」にちなんだみかん羊羹や、来年の干支(えと)「亥(い)」をデザインしたせんべい、迎春生菓子などの商品を来年1月中旬まで販売する。岡本良太社長は「駿河屋も和歌山の地で400年を迎える。引き続き地域の方に愛されるよう、安心安全なお菓子をお届けしたい」とコメントした。
《参考》堺★駿河屋/大阪府堺市(和泉国堺州甲斐町)
「大阪・駿河屋」に勤めた初代鳳惣助が主人に認められて暖簾分けをされて大阪・心斎橋で開業した。後に堺・甲斐町(現在の堺市)の開口神社の近くにも出店した。惣助の長男宗七が心斎橋、次男善六が堺の店を継いだが、善六が店をやめることになったため、宗七が心斎橋店を閉店して堺店を継承した。1879年(明治11年)12月7日に★与謝野晶子は当店の主人であった鳳宗七とつねの三女として誕生し、子ども時代には店と手伝っていたといわれている。他店との無用な競合を避けるため、「夜の梅」などを作り始めたのは当店であるとされている。2015年(平成27年)3月24日に開館した堺市堺区宿院町西2丁にある「さかい利晶の杜」の2階に開設された晶子記念館に与謝野晶子の生家として店の一部が復元・展示された。
現在は廃業。(跡地は大道筋になっており、「与謝野晶子生家跡」の碑が建っている。)
《きんつば》
現在よく見られるのは、寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる「角きんつば」であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである。サツマイモでつくった芋餡を包んだもの、もしくは、四角く切った芋ようかんの各面に生地を付けて焼いたものは「薩摩きんつば」「芋きんつば」と呼ばれるものになる。元々★大阪で考案された菓子であり、上新粉(米粉)で作った生地で餡を包んで同様に焼いたものであった。当時は、その形状と色から「ぎんつば(銀鍔)」と呼ばれていた。1600年代後半に製法が大阪から江戸に伝わると「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由から、名前が「きんつば」に変わったとされている。現在の「角きんつば」は、神戸元町の紅花堂(現在★本高砂屋)の創業者である杉田太吉により明治時代に考案されたものである。富山県高岡市戸出地区などでは現在も円型でつばの文様を付けたきんつばが残っている。
・・・疲れた時は「あまいもの」がいいですね。