★曲尺割(かねわり)/調和良く、茶道具を置き合わせる時の寸法。
・・・茶道の「かね(曲尺)」の前に、
《矩、指金、差金、曲尺》(さしがね)
工具の一種。ステンレスや鋼、真鍮などの金属製で目盛りがついており、材木などの長さや直角を測ったり、勾配を出したりするのに使われる。L字型をしており、両方の辺(長手と短手(妻手))に目盛りがある。また、内側にも目盛りがある。指金、差金、曲尺(かねじゃく)とも呼ばれ、日本工業規格では★曲尺の表記が使われている。
日本の計量法では、メートル法以外の基準を用いる計量器の販売が禁じられているため、現在製造されているものの多くは尺貫法の1寸の長さに等しい尺目盛りでありながら、目盛りは33分の1メートル単位で振ってあり、「1/33m」などと表示されている。メートル法の単位で表記されたメートル目盛りのものもあるが、裏目を用いた規矩術は、尺目盛りよりも誤差が大きくなる。裏面にも目盛りが振ってあり、裏の目盛りは角目(かくめ)と丸目(まるめ)がある。計算尺のような使い方が出来る。角目は表の目盛りの1.414倍単位で振ってある。つまり、表の目盛りに2の平方根を掛けたものに等しい。これは、正確な45°を作成するために使われる。また、角目で丸材の直径を測れば丸材からとれる角材(断面が正方形)の最大幅を求められる。丸目は、その長さを3.142倍すると表の目盛りになるよう振ってある。つまり、表目は丸目の目盛りに円周率を掛けたものに等しい。丸目で丸材の直径を読めば、その丸材の円周の寸法が求められる。ほかにも幾何学的な応用によって三角関数を計算できるため、直角で無い角度をもつ柱や屋根の傾斜などの組み合う長さを求めることも出来る。長さは長手が1尺6寸(48 cm)、短手が8寸(24 cm)、幅は5分(15.1 mm)だが、1尺5寸7分×7寸5分のものも市販されている。かつては幅4分や3分で長さの短いものもあった。メートル目盛では長手が50cmのものが多い。 指矩は別名曲尺(かねじゃく)とも言い、そこから、指矩で用いられている主として建築などで使われていた尺や寸の長さのことも「曲尺」と呼ぶようになった。「曲尺」という字を宛てるのは直角に曲がった尺(物差し)だからであり、金属製であることから「かねじゃく」という。表に出ずに他人をそそのかして何かをさせることを「さしがね」という。これは大工道具の指矩のことではなく、芝居で使う小道具の一種で、竿の先に針金をつけ、蝶や鼠、ひとだまなどを舞台の裏から動かすもののことであり、そこから転じた用法である。ただし、大工の親方が指示を出すのに指矩を使って人や物を差していたからという説もある。
★さしがねの正しい使い方!テクニックと知識を身につけよう/makit! by DIY FACTORYより
★曲尺(かねじゃく)利用に潜む数学/楽々数学より
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kokufu/math/kanejaku.html
・・・父親が器用に使っていたことを思い出します。教えてもらっていたら今でも使っていたかもしれませんが、もはや大工仕事をする機会もありません。残念です。
《参考》「江戸の職人その『技』と『粋』な暮らし」/著:鈴木章生より
職人たちは、古くからそれぞれの業種ごとに、特有の職業神を信仰してきた。多くの場合、とある神が現れてその仕事を手伝ったとか、技術を開発したといった言い伝えにしたがって、職業神が決められていたようである。物を作り出すという仕事に従事する上で、宗教的な支えがあったことは想像に難くない。特に、古代から伝統的な技術を持つ職種にその傾向は強い。それぞれの職人たちは、その信仰に則って毎年独自の祭礼などを行っており、それは彼らの大事な年中行事になっていた。また、その信仰は仕事の現場に限らず、それぞれの家庭においても守護神的役割を果たし、職人たちの精神的なよりどころとなっていた。たとえば大工、屋根葺(ふき)、石工、左官などの建築関係者たちは、★聖徳太子を祀り、毎年二月二十二日に太子講を行っていた。その信仰は、聖徳太子が寺院建立の祖であるとされていたところからきている。昭和の初期頃までは、建築関係の職人の家や店には、必ず太子の掛け軸などが祀られていたという。一方、鍛冶、鋳物師、錺職人など金属加工関係者たちは、稲荷を信仰していた。これは、10世紀末、京の三条にいたという鍛冶が刀を打つときに、稲荷神が現れて共に槌を打ったという言い伝えからきている。彼らは十一月八日に稲荷祭を行っており、これを別名、鞴(ふいご)祭といった。ただし、これは職人たちが一同に集まって行うものではなく、各自の家で内々に祀ったものだった。また、金属加工関係者の中には、天目一筒命(あめのまひとつのみこと)を信仰する者たちもいた。こちらは、天照大神が天の岩戸に隠れていた間、刀や斧を作っていたという伝承からきている。他にも、紺屋は愛染明王(あいぜんみょうおう)を、挽物師(焼き物職人)は水上祖神を信仰したことが知られている。
・・・面白い掛け軸です。さて、お茶の話にもどりましょう。
茶室は中国の陰陽五行説により厳格な曲尺割(かねわり)で成り立っています。畳・道具などを分割し、陰陽に分けて五分割し、五陽六陰十一の曲尺を想定してその線上に道具類を配置し、点前中の移動もこれによってなされます。点前座は、自然を構成する天地(陰陽)の二気と五行とで、均衡の保たれた大宇宙であり、亭主は宇宙に座して点前をすることになります。棚の上板は天を、下板は地を、棗は木、炉の火、灰の土、釜や五徳の金、水指の水、というように道具類にも巧みに陰陽説が取り入れられています。茶室は暦張りにしてあり、一年間の予想される自然現象などを記入してあります。床の間は北側に、客人は南面(陽)にI座し、亭主は北面(陰)にして点前をします。明かりは東南にとります。
・・・むむむ、このような講釈(理屈)を先に語られると、入りにくいなあ。「お点前」についても調べますと、
《点前》
茶の湯の用語の一つで、茶を点ずるための順序、手続をいう。抹茶を点ずる、または点(た)てるしかたには濃茶と薄茶の区別がある。濃茶は練る、薄茶を点てるといい、その手続を濃茶点前、薄茶点前という。これは飲料としての抹茶の点前であるが、茶の湯には別に炉中(夏季は風炉)に炭を置くための手順、炭手前がある。この場合は〈点ずる〉の文字を用いず、〈手前〉と書くが、〈てまえ〉の意味内容はまったく同じといってよい。中国宋代の茶書『茶録』に「点茶」とあって、点前の語の初見となっている。。『南方録』によると、茶の湯の点前が初めて行われたのは、将軍足利義教(あしかがよしのり)が後花園天皇を招いて饗応したあと、寵臣赤松貞村が水干・折烏帽子姿で披露した台子点前が最初であったということになっている。それは、天皇拝領の唐物(からもの)道具を使った台子による3種極真荘の点前であった。現存する『室町殿行幸御餝記』(徳川美術館蔵)によると、永享9年(1437)10月21日のことであって、二か所に茶湯所がしつらえられており、そこで点前が披露されたことになる。『海人藻屑』(1420)に「建盞ニ茶一服入テ、湯ヲ半計入テ、茶筅ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるので、貞村の点前とはこうした点て方であったと考えることができる。このように台子から始まった茶の点前は、草庵(そうあん)茶の成立とともに炉(ろ)の点前が考案されていった。興福寺別当光明院の実堯による『習見聴諺集』に記載された「古伝書」(1604、05写)には、「いるり(囲炉)の立様之事」「薄茶之立様之事」があって、台子を使った風炉と炉の濃茶と薄茶の両様の点前が記述されている。その後、わび茶の大成するにつれて茶席の極小化が行われ、千利休による★「一畳半の伝」といわれるような運び点前が成立し、点前の基本がすべて整ったのである。江戸時代になると、茶道の展開とともに点前手続も多様化していき、家元制度が確立するにつれて、現在みるような点前が定着したのであった。
※「一畳半の伝」、茶室は一畳台目、紙表具の墨蹟、白高麗か赤楽のわれを継いだ茶碗、一汁二葉の懐石をよしとする徹底した「わぴ」茶法の追求します。
《利休道歌(利休百首)》/茶道本舗「和伝」.comより
https://sadou-waden.com/user_data/senke_1_sennorikyuu/rikyuudouka_rikyuuhyakusyu.php
『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』の「茶の湯の精神」や「点前作法」の心得などを初心の人にもわかりやすく覚えやすいように三十一文字の和歌の形でまとめた百首をいう。昔より茶匠の教えを説いたものは多数存在し【利休道歌(利休百首)】は実際に『千家開祖/抛筌斎千宗易(利休)(1522-1591)』が書き残したという資料はなく詳細は不明である。しかしその一つに『裏千家/今日庵』内の茶室「咄々斎」と「大炉の間」にある【反古襖】には『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』の直筆にて【利休道歌(利休百首)】が書かれており、江戸中期の頃、昔よりあった『利休五十首』や『紹鴎茶湯百首』『遠州茶湯百首』などの茶の教えを『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』が百首にまとめ【利休】の名を冠したと考えられる。(※諸説あり)
【反古襖】『裏千家/今日庵』内の茶室「咄々斎」と「大炉の間」にある襖で【法護普須磨】ともいう。半間襖四枚に十二段にわたり「茶道具の扱い」や「点前作法」が書かれており、その終わりに『裏千家十一代/玄々斎精中宗室(1810-1877)』の直筆にて【利休居士教諭百首歌】の題が記している。また同時に「以心伝心教外別伝不立文字 拍は鳴る敲は響く鉦の躰」の自作の句と共に「安政三辰年夏」の日付と「於抛筌斎 不忘宗室」の署名が記されている。この襖は茶室『咄々斎』の茶道口にあり、点前をはじめる前などに自然と目につくように考えこの襖に記したのではないかと推測できる。
(96)『茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合にせよ』
茶の湯は華麗でなく、贅沢にならず質素に。★誠心からもてなせば道具は身分相応のものでよい。
◆後世に追加◆
『釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな』
釜があれば茶の湯はできる、数多くの道具を持つことよりも身分相応を忘れないことが重要である。
◆後世に追加◆
『数を多くの道具を持っている者はそれを隠すことよりも、それを十分活用すればよい』
数を多くの道具を持っている者はそれを隠すことよりも、それを十分活用すればよい
(97)『茶の湯には梅寒菊に黄葉み落ち 青竹枯木あかつきの霜』
茶の湯においては★陰と陽の調和が必要である。
(98)『茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなる事と知るべし』
茶の湯は難しいことは何もない。湯を沸かして、茶を点て飲むだけのことです。しかし、★この当たり前のことを当たり前にやるということの難しさを知りなさい。
(99)『もとよりもなき古の法なれど 今ぞ極る本来の法』
茶禅一味を説き、茶の湯とはただの遊びではなく、★心を養うものであり、それが茶道本来の法である。
(100)『規矩作法守りつくして★破るとも 離るるとても本を忘るな』
規則は守らなければならないが、例えその規則を破ろうとも離れようとも★「本(本質)」を忘れてはならない。
・・・「身分相応」のお茶を楽しみたいと思います。佐川美術館を訪問した際、「茶室」に向かう途中「守破離」と書かれた額がかけられていたことを、ふと思い出しました。
http://www.sagawa-artmuseum.or.jp/plan/raku/profile.html
※岩崎建築研究室より
http://blog.livedoor.jp/iwasakiyasushi/archives/52241601.html
まず「守破離」の額。案内の女性は「守破離」を千利休の言葉として紹介していた。世阿弥の風姿花伝は「序破急」。利休百首に「規矩作法守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」とありますが、百首をまとめたのはおそらく玄々斎(咄々斎と大炉の間との境の襖「法護普須磨」に利休百首が書かれている)。一説によると川上不白の「不白筆記」あるいは「茶和抄」(横井淡所著に不白が補注)が「守破離」の出典か。
《参考》
▲「序破急」
三部構成のことをさし、全体を「序」「破」「急」の3つに分けて展開する概念です。「序」には「いとぐち」「物事の始まり」で、「破」は「序」の★静かさを破り、内容が急展開していきます。続く「急」ではクライマックスへと一気に盛り上がり、速やかに締めくくるという様子を表します。「序破急」は、もともと雅楽のひとつである舞楽から生まれた様式です。無拍子・低速で始まる「序」に続き、拍子が加わる「破」を経て速度が最も早くなる「急」で構成されます。この概念は能楽や歌舞伎、浄瑠璃などの芸能だけでなく、武道や茶道・香道などの芸道全般において広く用いられ、映画やアニメなどの脚本や、舞台の三幕構成としても応用されるものです。「序破急」という言葉は、能を大成した世阿弥が著した能楽の秘伝書★『風姿花伝』で語られています。そのため、能が起源と受け取られることが多いのですが、もともとは雅楽の構成を表したものです。しかし、世阿弥は「序破急」を音楽や舞を超えて芸道の哲学にまで広げて解釈しました。道を極めるための極意書でもある『風姿花伝』は、ビジネス書にも取り上げられています。
▲「守破離」
「序破急」は全体を「序」「破」「急」の3つで構成するという概念ですが、「守破離」は物事を習得するときの段階を3つに分けて示しています。第1段階の「守」では、師の教えを型どおりに身につけます。型を完全にマスターできたら「破」に移り、★師の教えに自分独自のものを加えていきます。最後の「離」で師を離れて独立するというステップをまとめて「守破離」という言葉で表しているのです。
■「起承転結」
「序破急」は三部構ですが、「起承転結」では四部構成となっている点が異なっています。「起」で状況や設定を説明し、「承」で出来事や問題が発生します。続く「転」では意外な展開や解決に向けての行動を表し、「結」で解決に至るという筋道です。「起承転結」を「序破急」に変換するなら、「起承転結」の「起・承」に当たる部分が「序破急」の「序」、「転」が「破」、「結」が「急」となります。
・・・この「破」や「転」が、重要なポイントだと考えています。