・・・茶祖・栄西禅師(1141~1215) の降誕会(お誕生日4月20日)★「四頭茶会」中止その話題から、
https://www.kenninji.jp/yousai/chaso.html
★2020年「四頭茶会」は中止となりました/於:建仁寺
https://www.kenninji.jp/yotsugashirachakai/
この度、新型コロナウィルスの感染拡大の状況を鑑み、大変残念ではありますが、2020年の四頭茶会は中止とさせていただきます。四頭茶会には閉鎖的な空間で行われるものもあり、ご高齢の方の参加も見込まれる茶会となっております。また、京都市内でも感染者が確認され、感染終息の見通しも立っておりません。こうした中、参拝者の健康管理に配慮し、多くの方が集まる今回の茶会については中止せざるをえないという結論に至りました。ご参加を予定されていました皆様、ならびに関係各所の皆様方には多大なご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます。何卒ご理解を賜りたく宜しくお願い申し上げます。
■建仁寺「四頭茶礼」とは、起源は中国の南宋・元の時代、大きな寺院にて行われていた茶礼で、日本には鎌倉時代に★栄西禅師が禅と共に伝えられたとされています。室町・桃山時代以降流行し盛んに用いられた作法です。当時は、特別にお招きした客のためのお茶であるから特為茶といわれ、一般大衆に呈茶する普茶とは趣がちがいます。天目台、天目茶碗を使用し貴人扱いはそのためです。この作法は、禅宗寺院内の修道行事・法式・作法等を規定した清規に従うものです。 江戸時代には建仁寺開山忌(ご命日6月5日)の食事儀礼の一部として行われていましたが、その後、栄西禅師の降誕会(お誕生日4月20日)四頭茶会となり、より広く一般的に知られるようになりました。現在、繁栄を極めるほどとなり、平成24年3月には京都市登録無形民俗文化財に認定されました。
《茶礼(されい)》Wikiより
禅宗における飲茶の礼法のこと。茶の湯の原型と言われ、茶道における礼式のこともさす。禅寺では1日に数回茶礼が行われており、朝の座禅のあと、食事のあと、作務の休憩時、就寝の前などに皆で湯や茶を飲む。茶菓子が付く場合もあるが、朝晩の茶礼は点呼の意味合いであるため、飲茶の分量はごくわずかである。一つのやかんの茶を皆で分け合って飲むもので、★心を一つにするという和合の意味合いを持ち、僧堂修行では度々行われる儀式である。作法として特別なものがあるわけではない。また、行事の節目には全員一堂に会して茶を飲む総茶礼が必ず行われる。日本に茶の礼法を伝えたとされるのは、1191年に禅とともに茶の実を持ち帰った★栄西とされる。建仁寺では、開祖・栄西の降誕会(毎年4月20日)の際に四頭茶礼と呼ばれる古式な喫茶儀礼が行われる。
https://www.kenninji.jp/yotsugashirachakai/
建仁寺では法会などの際の喫茶儀礼のほかに、朝夕2回の茶礼があるが、これらの茶礼の多くは番茶茶礼で、番茶が入った茶碗が運ばれてきて、僧侶が一斉に喫する。一方、四頭茶礼は4名の正客とそれに随伴する相伴客をもてなすために定められた作法で給仕をするという特別な喫茶儀礼である。宋代の中国で編まれた、現存する最古の清規(禅宗寺院での生活について定めた規則)である★『禅苑清規』に茶礼についての定めも記されており、日本へは円爾が1241年に持ち帰ったとされる。1265年には宋より渡来した蘭渓道隆により建仁寺は禅宗専一の道場となり、清規がより厳格に守られるようになったと伝えられる。
http://www.kaburagien.co.jp/museum/museum/museum2.php
《手の中に宇宙を・・・利休★「引き算」の美学》/吉田喜貴「日本の美意識」より
https://pixy10.org/archives/9263472.html
世界観を極限まで広げようとしたのがルネサンスの特徴だとするなら、同時代の日本文化を代表する千利休は真逆を行く。足利義政の慈照寺東求堂の一室「同仁斎」以降、茶室の基本は四畳半だったけど、利休は二畳にまで縮めた。手に届く範囲に全宇宙があるのだ、と言わんばかりの気迫。宗教を背景とした時間論の差も背景にあるかもしれない。キリスト教の時間は過去の清算から未来への希望へと前進し、仏教の時間は回帰したり、不連続だったりする。利休の世界観「手の中に宇宙を」という考えは、日本文化史にたびたび登場する「引き算の美学」の真髄といえる。余分を削り、不足の中に満足を見出すことを大切にしてきた日本。枯山水は、あえて水をなくすことで、水を感じさせる逆転の模写が特徴。それは禅の★「無」じゃなくて「負」、すなわち「引き算の美学」というおもしろい視点が、★松岡正剛「山水思想」P407~408にある。
http://pixy10.org/archives/545532.html
まず、枯山水と水墨山水の系譜を次のように説明し、日本の山水は縮小されている。「縮みの文化」。山水は浄土を表す「彼岸の景色」。道元「而今の山水は、古仏の道、現成なり」。「山水一如」の精神。想像力としての山水に日本の実景があてはめられた。禅林に芽ばえた水墨山水が、庭園化して「負の庭」としての枯山水。枯山水を水墨画にもう一度もどして、日本の水墨山水が確立。『一見、枯山水は、あたかも山水の実在を否定するかのような「無化」をおこしているかに見える。けれども、そうではなかったのだ。「無化」をおこしていそうなのだが、それとともに、その石ばかりの石組みに日本人は峨々たる遠山と滔々たる水流を見た。それを見る心の中には水しぶきがあがっていた。「無化」はなかったのだ。』日本は極東のたまり場としての立ち位置で、世界の文化を受け止めてきた。それを日本独自の文化に編集する際に、背後で「想像の負」が介在?仏教思想と自然災害の多さから、日本に生まれた無常の「無」が、室町時代のあたりで、「無」から「負」に変わっているとしたらおもしろい。あえて省くことで、限りあるこの世界に無限の美を演出する、闇色の宇宙を閉じ込めたかのような黒樂茶碗「大黒(おおぐろ)」や、森羅万象のあらゆるかたちを体現しているであろう赤樂茶碗「無一物(むいちぶつ)」、利休が愛して常にそばに置いたという黒樂茶碗「禿」(かぶろ)などだ。「無一物」とは禅語で、すべてを削ぎ落として自然や宇宙と一体になることを意味する。「禿」は太夫につき従う少女を指すが、いつも利休の手元にあったためにその名がついたのだと推測されている。ちなみに「禿」は、50年ごとに行われる利休の年忌の時にしか使われない、表千家の至宝である。茶碗の持つ個々の名前は銘といい、作者や持ち主の想いがこもった大切なものだ。名品にはふさわしい銘がついており、語の意味や響きが対象を体現している。銘とそれをとりまくエピソードの深さは、茶碗に更なる魅力を与えているといえよう。
《参考》正法眼蔵「山水経」/「禅と悟り」より
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/sansuikyou1.html
道元が説いた正法眼蔵九十五巻の中で経のつく巻はこの山水経だけである。道元はこの巻を仁治元年十月十八日、興聖宝林寺において修行僧達に説いた。季節は十一月、晩秋の頃である。辺りの山々は紅葉し、渓川の流れはあくまで清く澄み、まさに一幅の山水画の風情であったと思われる。このような情景を見ながら、道元は四十一歳の時この「山水経」を説いた。「山水経」の姉妹篇ともいうべき巻に「渓声山色」の巻がある。この中で道元は「峯の色 谷のひびきもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」と山水の功徳を詠っている。峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、真理の表現であり、自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であるという意味である。これは宋の蘇東坡(そとうば、1037~1101)居士の詩を思い浮かべて詠まれた歌と考えられる。蘇東披居士の詩に渓声便是広長舌 山色無非清浄身 夜来八萬四千偈 他日如何挙似人(渓声便(すなわ)ち是れ広長舌(こうちょうぜつ)、山色、清浄身に非ざる無し、夜来八萬四千の偈、他日、如何(いかん)が人に挙似(こじ)せん)がある。この詩は「渓声{谷川のせせらぎ}は仏の説法、山色(山の姿と色)は仏の清浄身である。夜来(夜通し)八万四千の偈を唱えている、他日(いつの日か)これをどのように人に説明したら良いのだろうか。」という意味である。蘇東披の詩や道元の「山水経」は★無情(無生物)である自然が仏法の真理を説いていると詠っている。
※曹洞宗(東海管区)教化センターより
http://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=42&bl=0
《参考》道元の「有時(うじ)」の巻を読む/文:法政大学名誉教授・村上恭一
在俗の衆徒に示す(講述)にはそぐわないと判断され、もっぱら『正法眼蔵」中の一巻として著述されたにとどまったと推定されるのである。また道元は、「有時」の巻を起草した直後に、★「山水経」の巻を講述している。時間は飛去するものとのみ世間では理解されているが、しかるに他面、★「つらなりながら時時なり」とも解され、言わば非連続の連続でもあるような時間の妙味を「有時」の巻に説いた道元は、ひき続き禅の立場から天地自然をどう見るかを説こうとして「山水経」の巻を講述したのである。この場合、風流を玩ぶ意味の山水は度外視され、もっぱら仏道の立場から見た山水、つまり天地自然のことが論点となっている。道元は古仏の言を拠りどころにしながら、しかも「而今の山水」つまり絶対現在の山水を、「今日自己」の問題にひき寄せて語ろうとする。そこで「山水経」の巻に見られる道元の語りは、著しく逆説的表現に終始する。それゆえ、禅師の流暢な説法も、★「川は流れて水は流れず」とか、★「橋流れて水流れず」のごとき語句を連発することにより、總明な出家・在俗の信徒をしばし狼狽させたに迎いない。禅において言われる不立文字の心境は、いわゆる形式論理の世界を超え出て、思弁的論理を徹底的につきつめていった処に見えてくる★境地であろうが、「山水経」の巻では、そうした境地が説かれている。ここでは、「山水」は動静の二面を具備していると「思量」(思惟)されるから、1つに「水は流れて山は動かず」とのみ思いなし、人慮の測度により山水を見てはならない。むしろ、「山が動いて水は流れず」といった★逆説的表現によって、「山水」の動的な面に大家の注意を喚起させようというのが、禅師のねらいではなかったかと推考される。
《参考》「不立文字(ふりゅうもんじ)」
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/zengokui.htm
「文字を立てない」と読むことができるが、字義からすれば「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」と読むことができるだろう。ただ、そう言ってしまうと文字の軽視と受け取られるかもしれないが、全面的に文字を否定しているわけでは決してない。不立文字とは★「言葉にとらわれるな」「経典のなかに悟りの答えがあると思うな」と解釈すべきもので、要するにブッダの坐禅を自らも行うことを求める、★実体験を重視せよという言葉である。そんな不立文字を標榜する禅・曹洞宗の開祖である道元禅師は、『正法眼蔵』という一大書物を★文字で書き著している。
・・・逆説的表現、禅問答のような「負の想像力」「引き算の美学」。アートに通じるというか、そのものの価値観のような気がする。さらに、考えていきたい。