タタミ | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・まずは、「スタンプ」活用の作品づくり続きです。

 

 

・・・色数を増やし、重ねたりしていくと楽しいですね。

 

 

・・・「四畳半」について調べてきましたが、「畳」そのものについても調べなければと思います。

 

 

《畳の歴史》全国畳産業振興会より

http://www.tatami.in/history/index.html

中国伝来のものが多いなかで、畳は★世界に類がない日本固有の文化である。畳の原点は古代から存在する。古代の畳は、莚(むしろ)・茣蓙(ござ)・菰(こも)などの薄い敷物の総称であり、使用しないときは畳んで部屋の隅に置いたことから、動詞である★「タタム」が名詞化して「タタミ」になったのが語源とされる。その歴史は「菅畳八重」「皮畳八重」などの記述がある★古事記にまでさかのぼります。まだ畳床などはなく、コモなどの敷物を重ねたものと推測されます。

 

【古事記】倭建命(やまとたけるのみこと)「弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」

倭建命(やまとたけるのみこと)は相武の国造(みやつこ)を征伐し、そこからさらに東へと進みました。走水海(はしりみずのうみ:浦賀水道、東京湾入り口)を渡ろうとしたところ、その海峡の神が波をおこし、船をぐるぐるとまわし、一行を渡れなくしてしまいました。そこで、倭建命(やまとたけるのみこと)の后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が、

「私が御子の代わりに海の中に入りましょう。皇子は遣わされた任務を成し遂げて、天皇にご報告なさらねばなりません」

と申し上げ、海に入る時、★菅畳八重(さがたたみやえ:何重にも重ねたすげで編んだ敷物が)、★皮畳八重(かわたたみやえ:何重にも重ねた毛皮の敷物)、絹畳八重(きぬたたみやえ:何重にも重ねた絹の敷物)を、波の上に敷しいて、その上に降り乗りました。すると、荒波は自然と収まり船を進めることが出来ました。またこの時、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は歌を詠みました。

「さねさし 相武(さがむ)の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」

訳:「相模の野に燃える火の、その火中に立って私の実を案じ呼んでくださったあなたよ」

そしてそれから七日後、弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)の身に着けていた櫛が海辺で見つかりました。倭建命(やまとたけるのみこと)は、その櫛を取、御陵を作って治め置いたのです。倭建命はそこからさらに進み、荒ぶる蝦夷(えみし:野蛮な者)たちをことごとく説得し、また山河の荒ぶる神々を平定しました。そして、大和へ引き返す途中、足柄(あしがら:神奈川県の足柄山)の坂の麓(ふもと)で、乾飯(かれい:弁当のようなもの)を食べていると、その坂の神が、白い鹿に化け現れました。

 

■「現在の形に近い畳」として、飛鳥時代の法隆寺に伝わる畳ベッドの★御床(おんしょう)が最古のものとして現存していますが、平安時代には既に今使われているような畳が布団ベッドのように使われていました。当時これらは大変な高級品で、高貴な方々に愛用されたようです。この頃の畳の縁は、絹や麻などの布地を藍染め等の食物染にしたもので、身分を表す文様や彩りが定められていました。植物染めは色飛びがしやすく、踏んでしまうとせっかくの色が落ちてしまいますし、麻の耐久性も低かったので、踏んでしまうとすぐにすり切れてしまいます。高価な物が傷んでしまうのを嫌って、出来るだけ縁を踏まないようにしていました。さらに畳縁には、格式を重んじて家紋を入れる「紋縁」というものもあります。これは格式の高い仏間や客間、床の間等で使われてきました。お寺や神社、宗派によって紋様は違いますし、皇室関係や、宮家、武家、商家の流れ等をくんだ家紋を入れることによって、ある種のステータスとして使われてきました。家紋の入った畳縁を踏む事は、ご先祖や親の顔を踏むのと同じ事とされ、畳の縁を踏まない事が武家のたしなみ、商家の心得であった訳です。紋縁以外にも動植物の柄など、生き物をテーマとした柄も多く使われていますので、生き物や草花を踏みつける事は極力避け、「心優しく静かに歩くべし」と言う躾もありました。現在ではこのような背景も薄れてきましたが、「相手の心を思いやる」という礼儀の表れとして、★「畳の縁は踏まない」というマナーが残っているのです。

 

 

《参考》「御床」

●「飛鳥から平城への道~法隆寺の至宝展」小学館1990

No.103法量:縦210.0横132.5㎝/毯代は現状で縦224.0横112.5㎝であることから、大きさとして御床の褥(じょく)として用いられたであろう。なお、正倉院には檜材製の御床(北倉49)と錦を用いた御床褥残欠(南倉150)、さらに御床畳残欠(中倉202)が残っている。(平成11年「正倉院展目録」奈良国立博物館1999)

●平成11年第51回「正倉院展」目録/TTMクラブより

http://ttmclub.atumari.net/hnote_yusok2.html

奈良時代、聖武天皇が寝具として使用されたとする(ベッド)になるものが残されている。御床(ごしょう)という桧材で作られた長方形四脚付きの台、2張(2台)の上に畳を2枚敷かれ、その上に褥(じょく)と呼ばれる敷布団を敷いて寝具としていたようである。この現存する御床の上に敷かれた畳は、殆どが崩壊寸前の状態ながら2床分あり、その構造は、幅約120㎝で、マコモ2本を1組とし、樹皮様繊維の経糸で棯り編みされたマコモ製の筵3枚を2つに折って6重にして、いったん綴じ、この表面を1枚の藺筵(むしろ)で包み裏面には白い麻布をあてている。横側には濃い茶紫地の花鳥文を表した錦(にしき)を重ねて覆っていたようである。この畳の上に敷かれていた褥(じょく)ですが、訓読みで「しとね」とも読むが、平安時代の頃から、構造は同じであっても、長方形の敷布団的用途のものを褥(じょく)、正方形の座布団的用途のものを茵(しとね)という。

●「御床」/正倉院展より

長さ237.5cm、幅118.5cm、高さ38.5cmのヒノキ製のベッドで、聖武天皇が使ったものと言われています。装飾はなくシンプルですが、外枠の中はすのこ状に8本の部材を組み入れた丈夫なつくりで、その上に敷物と畳を置いて利用したようです。宝物のリスト「国家珍宝帳」に記されている通り、正倉院には同じ形の寝台がもう一つあって、正方形となるように二つ並べて配置し、上には帳(とばり)を下ろしていたようだということです。

●出品リストより/倉番号 名称  略称 員数 初出陳 前回出陳年

北倉49 御床 ごしょう 寝台 1基 1989年/中倉202 御床畳 残欠 寝台用の畳 1括 1999年/南倉150 白橡地亀甲錦褥 残欠 寝台の敷物 1張 1999年

 

・・・要するにベッドと畳性のマットと敷布です。「敦煌」の壁画に、「御床」のようなものが描かれていました。

 

 

■畳敷き方のタブーは、

①4枚の畳の角が1か所に集まらないようにする。⇒4つの角が集まった点が「シニメ」という言葉を連想させる。

②部屋を上下または左右に二等分する線が入らないようにする。⇒2等分すると「キレル」「ワカレル」に通じ縁起が悪い。

 

■現在の畳に似た構造になったのは平安時代。板敷に座具や寝具として置くという使い方で、使う人の身分によって畳の厚さやへりの柄・色が異なりました。鎌倉時代から室町時代にかけ★書院造が生まれて、部屋全体に畳を敷きつめる使い方に発展しました。それまでは高貴な人や客人のもてなしのためのものでしたが、建物の床材として利用されるようになったのです。しかしそうした使い方も貴族や武士の富の象徴。桃山時代さらに江戸時代に至るなかで、数奇屋造や★茶道が発展して普及し、徐々に町人の家にも畳が敷かれるようになりました。それでも身分による畳の制限の風習は残り、庶民が使用できるようになったのは江戸時代中期以降。畳師・畳屋と呼ばれる人々が活躍し、畳干しする家々の光景があちこちで見られるようにいなりました。

 

■どうして畳の大きさに違いが生まれたのかには諸説様々ですが、有力な説としては、畳を基準として部屋の大きさを考えるのか、それとも部屋の大きさを基準として畳を敷いたかの違いだそうです。以前、関西では家の大きさは畳の大きさをもとに作られていました。それに対し関東では先に家を作り、作られた家の柱から柱の間を1 間として畳を作っていました。こうして畳の大きさに差が出たといわれています。さらにこの後、山陰地方では京の文化の影響を受けて六一間が生まれ、中部方面では三六間、そして、寸法の規格を統一した五六間など、次々と細分化しました。

●京間・本間/大きさ:6 尺3 寸×3 尺1 寸5 分(191cm×95.5cm)主な地域:京都をはじめ関西方面

●六一間/大きさ:6 尺1 寸×3 尺5 分(185cm×92.5cm)主な地域:岡山、広島、山口などの山陰地方

●中京間(三六間)/大きさ:6 尺×3 尺(182cm×91cm)主な地域:岐阜、名古屋をはじめ中京地方。岩手、山形、福島、北陸、沖縄の一部の地方。

●江戸間(五八間)/大きさ:5 尺8 寸×2 尺9 寸(176cm×88cm)主な地域:東京をはじめ関東地方と全国各地。関東間、田舎間とも呼ばれます。

●団地間(五六間)/大きさ:5 尺6 寸×2 尺8 寸(170cm×85cm)主な地域:アパートやマンションなどの集合住宅

畳のサイズ(長さ)は今でこそメートル表示があるものの、職人たちの世界では尺貫法が今でも用いられています。尺は、長さの単位、貫は重さの単位で、両者は日本古来の単位系です。尺と言う文字は象形文字で、★掌を広げて長さを測ろうとしている動作を形に表したものです。指で長さを測るときの、あの「尺取り虫」の動きですね。もともと尺は掌を広げて親指から人差し指や中指の先までの長さを基準とした単位でした。そう言われると、 何となくその動作から尺の字が出来たことが納得出来るのではないでしょうか。様々なサイズのある畳ですが、どの規格にも言える共通点があります。それは畳の縦横比が、どの規格も★2対1になっているということです。実はここにこそ、畳の形の利便性があるのです。例えば4畳半、そして6畳、8畳。こうしたそれぞれの部屋がしっかりと方形になるのは、畳がこの形をしているからです。この、2対1の比率でないと、少ない数枚でどう組み合わせても方形にはなりません。効率的な部屋割りを可能にする。これも日本人の知恵ですね。また、畳一枚は、★大人ひとりが寝ることができる大きさを基準としていると言われます。畳2枚分の大きさが土地の面積や建物の敷地を表す基本単位の★「坪」と呼ばれています。この坪に関しては、土地の取引や資産価値を決める上で、重要な役割を果たしています。何平米と言われるより、何坪と説明された方が、★その広さがピンとくるのは、日本人特有の感覚だと言えます。

 

《参考》山水思想―「負」の想像力 /著:松岡正剛/五月書房2003

雪舟・等伯が発見した「日本」とは何だったのか? 中国山水から近代日本画まで、水墨山水画の流れにのせて、日本の来し方行く末にある方法を導く画期的な試み。

 

・・・次回、「負」の想像力とやらを紐解いてみたい。