赤色エレジー | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・今、朝ドラで古関裕而さんの物語をやっていますので、

 

《朝ドラ「エール」》

https://www.nhk.or.jp/yell/index.html

続テレビ小説『エール』(NHK総合)が、3月30日にスタートした。主演は古山裕一を演じる窪田正孝、ヒロインは裕一の妻・関内音役を務める二階堂ふみ。裕一は★福島県、そして音は愛知県に生まれ、遠い距離を乗り超えて愛を育んでいく物語だ。裕一のモデルとなったのは、福島県福島市に生まれ、後に昭和を代表する作曲家となる古関裕而。昭和54年に福島市名誉市民第一号となり、その功績と栄誉を称えられている、福島を代表する人物だ。福島市には、古関裕而記念館をはじめとした、彼に所縁のある地が多く点在している。筆者は、オンエアを前に街全体で盛り上がりを見せている福島市を訪れ、古関のルーツを探った。新幹線から福島駅ホームに降り、まず聞こえてくるのは、夏の全国高校野球選手権大会でもお馴染みの「栄冠は君に輝く」だ。1948年に古関が作曲したこの曲は、福島市民アンケートの結果を受け、2009年より新幹線ホームの発車メロディーに採用、在来線には「高原列車は行く」が流れている。ほかにも古関による作品は「長崎の鐘」「君の名は」など5000曲以上にもおよび、日本の音楽文化の普及、向上に広く貢献してきた人物である。

 

 

・・・前回、アイヌ関連のニュースを紹介した時に、ふと気になったのが「モスラ」?

 

《「モスラ」の主題歌》/古関裕而記念館より

http://www7.plala.or.jp/edih/melody/mothra.html

「モスラの歌」は、1961(昭和36)年に制作された東宝映画「モスラ」の主題歌で、インドネシアの架空のインファント島の石碑にかかれていた★呪文を歌にしたものである。この歌は当時のアイドル、ザ・ピーナッツが歌って大ヒットし、今なお歌われ続けている。「モスラ」は怪獣映画ではあったが、原作者が純文学の人気作家の中村真一郎、福永武彦、堀田善衛であり、作詞:由起こうじ、作曲:古関裕而、特撮は★福島県出身の円谷英二らが担当した。超一流の人々が大まじめに作りあげたこの映画は、女性の好みにも合い、大ヒットしないわけがなかった。「モスラの歌」は呪文であるといったが、その歌詞は摩訶不思議なものである。

モスラヤ モスラ ドゥンガン カサクヤン インドゥムゥ ルスト ウィラードア ハンバ ハンバムヤン ランダ バンウンラダン トゥンジュカンラー カサクヤーンム

これを日本語に訳せば、「モスラよ/永遠の生命 モスラよ/悲しき下僕の祈りに応えて/今こそ 蘇れ/モスラよ/力強き生命を得て 我らを守れ 平和を守れ/平和こそは/永遠に続く/繁栄の道である」という意味とのこと。古関裕而記念館の収蔵資料によると、この歌の原案には、インドネシア語のほかに、中国語あり、英語ありで、最終的に今の歌詞に決定している。ちなみに中国語訳では「モスラ/ニースユンエントスンミン/カンインペイプトチイワネン/シェンツアイスニースウシントスーホウ(略)」で、英語では「Mothra oh Mothra with thy everlasting mistic life respond to prayers of thy humble servants(略) 」となる。「モスラの歌」は読売新聞日曜版(平成13年7月8・15日)でも取り上げられ、大きな反響があった。私も担当の浅見記者にインタビューされ、古関さんの音楽で同系統の曲を探すとしたら、★アイヌを舞台にした「イヨマンテの夜」と「黒百合の歌」であろうと意見が一致した。★伊藤久男の歌った「イヨマンテ」や、織井茂子の「黒百合」はいずれも大ヒット曲となった。そして妖精に扮するザ・ピーナッツが「モスラ」を歌って子どもたちや若者の人気を博したのは、まさに古関さんの音楽の大衆性とその質の高さ、子どもたちに対するきめ細やかな愛情があるからではないだろうか。

 

 

【古関裕而】(1909~1989)

http://www7.plala.or.jp/edih/syuppan.html#nenpu

福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に長男として誕生。旧制福島商業学校(現福島商業高等学校)に通いながら仙台に通い、金須嘉之進に師事して、1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家である。

【円谷英二】(1901~1970)

https://s-tette.jp/museum/index.html

福島県須賀川市生まれ。株式会社円谷特技プロダクション(現:円谷プロダクション)の初代社長。

https://m-78.jp/

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様と呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史とそのまま重なっている。

【伊藤久男】(1910~1983)

福島県本宮市出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来する。元妻は戦前にコロムビアレコード等で活躍した元芸者歌手赤坂百太郎(大西ふさ子)。

 

★『モスラの精神史』/著:小野俊太郎/講談社現代新書2007/ツカサネット新聞より

モスラとは、蛾の姿をしたあの怪獣のことである。ザ・ピーナッツが唄った主題歌を思い出す人も多いであろう。ところで、この本の第一章におそらくは知らない人の方が多いのではと思われる話が書かれている。モスラの原作小説を執筆したのは、その当時、1961年頃には、すでに純文学作家として名を成していた中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の3人であった。「モスラ」のモデルとなったのはカイコ蛾であるが、その理由を、当時、曲がり角にあった養蚕業とも関連があるという。さらに、モスラの故郷、インファント島と日本人が持っていた南方幻想、ザ・ピーナッツの主題歌の歌詞が実はインドネシア語であったこと、なぜモスラは小河内ダムから出現したのか、そして、モスラが発する平和主義へのメッセージなど、これらの謎を解いていくことによって太古から60年安保問題直後までの日本の様々な社会、文化状況が織り込まれていることがわかる。著者:小野俊太郎氏はこの本の208ページで「怪獣映画とは、人間と怪物のあいだのつながりをめぐるテーマを示すだけではなく、映画の成り立ちとして、怪獣パートが暴走したり、人間中心の本編が独自の意味づけをして物語に矛盾や対立を抱えがちなジャンルなのだ」 と述べている。原作と映画の違いもさることながら、それだけ様々な問題が投影されているからなのであろう。怪獣映画とは決して子どもたちのためだけではない、大人も色々と考えさせられる一つの文化である。この本によって、怪獣映画の位置づけも大きく変わる。

 

・・・この本、なかなか手に入らないのです。むむむ

 

 

《NEWS》2020.4.2福島民友新聞より

歌手・伊藤久男の功績紹介!古関裕而の親友、蛇の鼻で写真展

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)「エール」の放送に合わせ、本宮市の花と歴史の郷「蛇の鼻」は1日、作曲家古関裕而の親友で、同市出身の歌手伊藤久男の功績を紹介する写真展を園内で始めた。古関のピアノ演奏に合わせて伊藤が歌う写真など、貴重な資料が並んでいる。11月30日まで。伊藤は、園内にある「蛇の鼻御殿」のあるじだった伊藤弥(わたる)の四男として生まれた。1932(昭和7)年、コロムビア歌手に応募し合格。デビューを果たすと古関作曲の「イヨマンテの夜」などを大ヒットさせた。ドラマでは、伊藤をモデルにした役「佐藤久志」が登場する。

 会場には、古関の指揮に合わせて伊藤が歌う写真や「イヨマンテの夜」の楽譜など約30点を展示している。会期中、写真を入れ替えながら展示する。

 

《イオマンテ (iomante)》

アイヌの儀礼のひとつで、ヒグマなどの動物を殺してその魂であるカムイを神々の世界 (kamuy mosir) に送り帰す祭りのことである。言葉としてはi「それを」+oman「行く」+te「何々させる(使役動詞語尾)」という意味。「それ」とは恐れ多いカムイの名を直接呼ぶ事を避けた婉曲表現であり、従ってイオマンテとは「カムイを行かせる」儀式の意である。また、語頭のiとoの間に渡り音のyが挿入されてiyomante=イヨマンテという発音になることも多い。単にイオマンテという場合、ヒグマのイオマンテを指すことが多い。本来はカムイであればどんなカムイでも構わず、一部の地域ではシマフクロウのイオマンテを重視する。またシャチを対象とするイオマンテもある。飼育したヒグマを対象とする儀式はイオマンテ、狩猟によって捕殺した野生のヒグマを対象とする儀式はカムイ・ホプニレ (kamuy hopunire) と呼んで区別することがある。「ホプニレ」とはho「尻」+puni「何々を持ち上げる」+re「使役動詞語尾」で「(カムイを)発たせる」の意味。狩猟で殺した直後の獣のカムイは、魂 (ramat) の形で両耳の間に留まっているという。そこでカムイ・ホプニレの儀式では祭壇を設えてヒグマの頭部を祀り、酒食やイナウを捧げてそのカムイに神々の世界にお帰り頂くのである。

 

 

《黒百合の歌》昭和28年(1953)作詞:菊田一夫/作曲:古関裕而(松竹映画「君の名は」主題歌)

(1)黒百合は 恋の花 愛する人に 捧げれば 二人はいつかは 結びつく
あ~あ~ あ- - - - -あ~~ あ~あ~ あ- - - - -あ~~

この花ニシパに あげようか あたしはニシパが 大好きさ

(2)黒百合は 魔物だよ 花の香りが しみついて 結んだ二人は はなれない
あ~あ~ あ- - - - -あ~~ あ~あ~ あ- - - - -あ~~

あたしが死んだら ニシパもね あたしはニシパが 大好きさ

黒百合は 毒の花 アイヌの神の タブーだよ やがてはあたしも 死ぬんだよ
あ~あ~ あ- - - - -あ~~ あ~あ~ あ- - - - -あ~~

 

※この「黒百合の歌」の<ニシパ>は、劇中の後宮春樹のことです。

傷心を抱いて佐渡から帰京した春樹は、じっと思い出の数寄屋橋に佇んだ。真知子に逢えた喜びと真知子と別れた悲しみが、思い出となって甦り、ただせつなかった。数日後彼は北海道で牧場を経営している友人末永の許へ旅立った。一方、真知子も佐渡から浜口家へ帰ってきたが相変らず姑の徳枝は意地悪く、遂に過労から彼女は流産した。その頃鳥羽から上京した悠起枝は街のゴロツキ横山にひっかかるが、偶然会った綾の世話で修造老人や梢達の果物屋を手伝うことになり、店の後援者仁科と結婚することになった。姉の結婚式に久々に東京へ帰ってきた春樹とは入れ違いに、真知子は遥々北海道を訪ねた。アイヌの若者サムロと許婚の間柄であるにも拘らず、春樹を熱愛する末永牧場のアイヌの娘ユミは、真知子の来島に心が騒いだ。やがて春樹は東京から帰って来たが、眼前の真知子に喜びの眼を輝したので、ユミは失望してコタン祭りの晩、摩周湖に身を投げた。サムロもまた彼女を助けようとして死んだ。しかし、春樹と真知子も別れなければならぬ運命にあった。勝則が同居請求手続きをとったため、裁判所の出頭命令が北海道まで真知子を掴まえにきたのである。雪模様の荒涼たる美幌駅で、真知子は春樹に別れを告げた。凝然と向き合った二人、その尽きぬ名残を断ち切るかのように、ゴトリと鈍い音を立てて動き出した汽車は、徐々に速力を増して行った。

脚本家・菊田一夫の代表作。1952年にラジオドラマで放送され、多大な人気を獲得した。ただし、最初の半年間は菊田が「人々の戦争体験を主題に」シリアスタッチで描いていたため、あまり人気はなかった。真知子と春樹との恋愛にドラマが集中し始め、初めて人気番組となった。「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」といわれるほどであったという(ただし、この銭湯でのエピソードは、「アメリカでの事実を基に、松竹の宣伝部が作った虚構である」という説も根強い)。ラジオドラマの人気を受けて松竹で映画化されると大ヒットを記録し、氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれて女性の間で流行した。これは、主演の岸惠子が北海道でロケの合間に現地の寒さをしのごうと、神奈川県横浜市中区の馬車道界隈の店で購入して持参していた私物のストールを肩から一周させ、耳や頭をくるんでいたことによるとされる。この姿はカメラが回っている時にも使われることになり、「真知子巻き」が誕生した。真知子と春樹が出会い、再会した数寄屋橋のシーンでしていたというのは間違いである。ただし、第一部の冒頭、佐渡に渡る船上でも真知子は「真知子巻き」に類したストールの巻き方をしている。真知子と春樹が再会しそうになる(半年ごとの数寄屋橋での待ち合わせなど)が、不都合が起きてなかなか会うことができない。この「会えそうで会えない」という事態が何度も繰り返された。これは後の恋愛ドラマでもよく見られる描写(演出)であり、本作はこのパターンの典型にして古典となっている。

 

・・・この歌にも「ニシパ」が登場しています。「モスラ」が気になって調べてみたら、このようにつながってくるのですから、本当に不思議です。さらに、

 

★1951年「あざみの歌」作詞:横井弘/作曲:八洲秀章/歌★伊藤久男

山には山の 愁(うれ)いあり 海には海の 悲しみや ましてこころの 花ぞのに 咲しあざみの 花ならば

高嶺(たかね)の百合の それよりも 秘めたる夢を ひとすじに くれない燃ゆる その姿 あざみに深き わが想い

 

 

【八洲秀章】(1915~1985)

本名:鈴木義光。次男はミュージカル俳優の沢木順。北海道虻田郡真狩村出身。農家の生まれであったが、17歳のときに馬車の事故で重傷を負い、農業や兵役への道を断たれるほどの後遺症が脚に残った。しかし、この病床でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生涯についての書籍を読み、新たに音楽家の道を志すきっかけとなった。21歳で上京し、YMCAのオラトリオに参加。その後、山田耕筰に師事。1937年(昭和12年)、「詩と歌謡」に投稿した「漂泊の歌」が同年ポリドールで東海林太郎の歌声でレコード化され作曲家デビュー。作曲家として活動を始めるが、2年後肺結核に侵され、長期療養を余儀なくされる。1940年(昭和15年)6月、★伊藤久男の「高原の旅愁」で復帰。「さくら貝の歌」、「あざみの歌」、「毬藻の唄」を作曲したことで知られる。「あざみの歌」は、自身の歌唱で1949年(昭和24年)8月8日からラジオ歌謡で1週間放送し、その後、のど自慢等で歌われるようになり、★1951年(昭和26年)伊藤久男の歌唱でレコード化された。

 

・・・この歌が「赤色エレジー」へとつながるのだから、人生って?本当におもしろい。

 

★「赤色エレジー」/作詞:あがた森魚/作曲:八洲秀章/歌:あがた森魚

愛は愛とて 何になる 男(おとこ)一郎 まこととて 幸子の幸(さち)は どこにある

男一郎 ままよとて 昭和余年は 春も宵 桜(さくら)吹雪(ふぶ)けば 蝶も舞う

寂(さみ)しかったわ どうしたの ああ 母さまの 夢見たね

おふとん もひとつ ほしいよね いえいえこうして いられたら

 

【あがた森魚】(1948~)

父は運輸省海運局に勤務し、父の転勤で北海道留萌市で生まれ、生後間もなく小樽に移り、小学3年から青森で、中学からは函館で育った。小樽の入船小学校に通っていたころ、担任だった教諭の佐藤敬子に薦められて観たディズニー映画「海底二万哩」(1955年日本公開)主人公のネモ船長が人生初のヒーローとなる。1965年、函館ラ・サール高校2年の夏、ラジオで聴いたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」に衝撃を受け、作詞作曲を始める。退職した父が家族で横浜に住みたいと言いだしたため、家族と共に上京し、一年浪人後、明治大学に進学。1969年12月 URCレコード事務所へ赴き、早川義夫らの前で歌い、早川に薦められ、1970年1月「IFC前夜祭」で初ステージに立つ。キングレコードのディレクター・三浦光紀にスカウトされ、三浦が1972年、キングレコード内に設立したベルウッド第一弾アーティストとしてメジャーデビュー。1972年4月25日、林静一の同名漫画を題材としたシングル「赤色エレジー」で50万枚[6]を売り上げるヒットになり広く知られるようになる。

★代表作である「赤色エレジー」の作曲者は八洲秀章とされているが、実際の作曲者はあがた森魚である。この曲が八洲秀章が作曲した「あざみの歌」と似ているということで、キングレコードの判断によって八洲秀章の作曲とされた。しかし両曲を聞き比べると似ているのは冒頭部分のみであり、実際には全く別の曲である。

 

・・・実は大学時代、あがた森魚さんのご兄弟(山縣くん)と同じクラスだったことがあり、とても親近感があるのです。もちろん、この曲みんなでよく歌いました。青春時代の思い出です。