遺構保存 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・先般開催した★「氣になる玉手箱展」において、ギャラリー内防空壕で★「記憶の玉手箱」と題したピース・アクションを実施しました。オーナー北野さんがギャラリーをオープンするにあたり、平和運動に取り組まれている方々から聞いた★「Out of sight ,out of mind」「去る者日々に疎し」という思いから、この防空壕を残されたという話を受け止め企画したものです。そして今、震災9年目にあたり、「玉手箱プロジェクト」としてぜひ読んでいただきたい記事がありますので、掲載します。

 

《NEWS》時事ドットコムより

遺構保存はなぜ難しいのか/それでも残す東西震災の先駆者たち~高野会館、野島断層、神戸の壁~

https://www.jiji.com/jc/v4?id=20190311shinsai8years0001

大地震や大津波に耐えて残った建物や被災物などを「震災遺構」として残すのは難しい。被災者にとっては「悲しくて、こわくてもう見たくない」「復興が先だ」という現実と、「大切な人を失った悔しさと、防災・減災の教訓を未来に伝えたい」という思いが交錯し、時に地域を二分することもあるからだ。それでも粘り強く運動し、阪神大震災の遺構を残した神戸・淡路の先駆者たちが、東日本大震災後に同じテーマに直面する宮城県の「南三陸ホテル観洋」を支援し、自分たちの経験と思いを伝えようとしている。遺構はどうやって残されたのか、これからどうすれば残せるのか。後世に「モノの語り部」を引き継ごうとする東西の取り組みと交流を報告する。

「生きたければ、ここにいなさい」-。宮城県南三陸町にある冠婚葬祭場「高野会館」で、責任者だった営業部長(当時)の佐藤由成は2011年3月11日午後3時前、強く長い揺れの後、3階宴会場の出口付近でこう声を張り上げた。網元の家に生まれ、チリ地震津波を経験し、かつて漁師でもあった佐藤は、津波の到来を予想した。芸能発表会に集まり、地震の後、急いで帰ろうとした約250人のお年寄りたちは、仁王立ちした3人の従業員に行く手を阻まれた。

(中略)東日本大震災で多くの命を守った高野会館は震災遺構として現在も当時の姿のまま保存されている。管理しているのは、会館から2キロ弱南下した海沿いに立ち、1300人を収容できる三陸沿岸で最大級の宿泊施設「南三陸ホテル観洋」だ。水産と観光が2大柱の「阿部長商店」(本社・気仙沼市)が経営するこのホテルも震災時に多くの人命と生活を守った。2011年3月11日午後、女将の阿部憲子はホテル5階のロビーで震度6弱の長く強い地震に遭遇した。夫で同商店副社長の隆二郎は本社に出掛け不在。責任を一身に背負いながら女将は宿泊客、津波警報を聞いて避難してきた住民ら約350人をホテルの託児所とロビーなどに誘導してその夜を乗り切り、翌日は食事を取りに来た近隣住民も含め約600人に対応した。電気、水が途絶し、道路が寸断する中、ホテルは事実上の避難所となった。同月下旬には、ボランティアと医療関係者など外部からの支援者の受け入れを始めた。5月には2次避難所として約600人の被災住民を収容、工事関係者らと合わせ総勢1000人がこのホテルで生活した。役場を含め市街地が壊滅する中で、ホテルは町の復旧・救援活動の重要拠点となった。9月から通常の営業に戻ると、一般宿泊客から「被災地を見たい」という強い要望が寄せられた。ホテルは団体客向けのガイドを始め、12年2月からは自前の送迎バスを使い、「震災を風化させないための語り部バス」を始めた。

(中略)17年にはその取り組みが評価され、日本政府観光局(JNTO)などが選ぶジャパン・ツーリズム・アワードの大賞を受賞した。最近では希望者向けに高野会館に特化したコースもある。いち早く語り部活動と高野会館の活用という形で遺構保存に取り組み、東北被災地の中でホテルは震災の記憶と教訓を伝承する活動のパイオニアとなった。ただ、それゆえに近くに相談相手はなく、迷うこともあった。女将は神戸大の学術研究員、山地久美子から紹介され、2015年5月、阪神大震災を起こし、地面のずれとして現れた「野島断層」を保存する北淡震災記念公園(兵庫県淡路市)に宮本肇総支配人(当時)を訪ね、東西の交流が始まった。同年12月には、市民団体「リメンバー神戸プロジェクト」代表の三原泰治も宮本とともに南三陸町を訪れ、高野会館の保存活動は本格化した。宮本は震災直後から断層保存に関わり、三原は神戸市長田区にあった市場防火壁「神戸の壁」を震災遺構として保存する運動を展開、同公園に移設する形で残すことに成功した。野島断層の保存では行政のリーダーシップが原動力となり、神戸の壁では民間の一個人の執念とも言える行動力が実を結んだ。

(中略)

三原泰治は悔しさと怒りでいっぱいだった。1995年1月17日に起きた阪神大震災で、火災が起き、多くの市民が亡くなり、ビルや高速道路は倒壊した。家族は避難し、半壊した自宅で自問した。「自分も街も地震への備えが無かった。だが、それで終わらせていいのか」間もなく震災で変わり果てた神戸の街をめぐり、市民団体「リメンバー神戸プロジェクト」を立ち上げ、がれきなどの被災物を残す取り組みを始めた。しかし、家族を含め至る所で反対され、断念した。同年6月、大火災で多くの犠牲者が出た長田区の一角で夕日を浴び、「悲壮な美しさを放つ物体」と出会った。1927年ごろ市場の延焼を防止するために建てられた高さ7メートル、幅14メートルの壁だった。★現代美術家でもあった三原は、神戸大空襲と阪神大震災を生き延びたこの「オブジェ」を「神戸の壁」と名付け、遺構として保存することを決意した。当時は倒壊した住家などの公費解体が進んでいたが、解体直前に壁の所有者を見つけ出し、思いとどまるよう説得、壁はぎりぎりで延命した。本格的な保存運動が始まった。市には壁も含めた遺構の保存計画案を提案するとともに、多くの市民を巻き込み、壁の前でのパフォーマンスや追悼集会を開き、マスコミも大きく取り上げた。しかし、市は復興を最優先し、取り合わなかった。その後も運動は厚みを増し、両腕を水平に伸ばした人の影を壁面に写すライトアップのパフォーマンスは、毎年1月の追悼セレモニーの恒例行事となった。98年春、遅れていた再開発が動きだし、壁は再び解体の危機に追い込まれた。それを助けたのは、三原がかねて受け入れを要請していた淡路島の津名町(現淡路市)の柏木和三郎町長だった。「なぜ神戸の壁なのか」と地元から一時反対の声が上がったが、壁は13分割されて海を渡り、2000年1月、同町に復元・移設された。05年、野島断層を残した北淡町と津名町を含む5町が合併し、淡路市が誕生した。その後、門康彦市長は断層を保存する北淡震災記念公園に神戸の壁を移すことを決めた。三原には寝耳に水だったが、阪神大震災の遺構である壁の保存場所として記念公園は格好の場所だった。09年1月、同公園への移設を完了、三原の執念は壁を「安住の地」に導いた。三原はその後も精力的な活動を続けている。今年は恒例の壁のライトアップに加え、記念公園への移設10年を記念し、同公園で昨年12月から自ら制作した壁の影絵展を開催、神戸大空襲があった3月17日には神戸の壁に影絵を写し出す予定だ。

(中略)津波で壊滅的な打撃を受け、多くの死者を出した南三陸町では、遺構に対する住民感情も複雑だ。★震災の記憶は「思い出したくない」ものであり、大規模な土木工事に時間がかかっている現状では「再建が先だ」との声もある。ただし、遺構保存や語り部活動を進めるホテルに根強い支持があることも事実だ。宮本は「国や自治体には国民の生命と財産を守る使命がある以上、遺構は公が管理するのが一番だと思う」と語る。女将は「ようやく仮設住宅が閉じられる時期になってきたので、遺構の問題もいよいよ本格的に声を上げていこうと思う。会館への道路をきちんと公の手で整備していただくよう交渉していく」と、道路整備を最優先に求めていく考えを示した。高野会館の遺構保存問題は新しい段階に入ろうとしている。

 

・・・いろいろな思い・考え方があって当然です。一人ひとりの声に耳を傾け、どうあるべきか時間をかけて考えていかなければなりません。しかし、ひょっとしたら結論はないのかもしれません。考え続けることに意味があるのだとしたら、やはり何らかの「カタチ」を残さなければならないと思います。それは、原爆ドームに象徴される「負の遺産」かもしれません。100年後200年後に伝えなければならない、今生きている私たちの責務ではないでしょうか。ただ、辛い記憶をそのまま残すことについては慎重であるべきだと考えます。だからこそ、「アート」の創意工夫が重要なのではないでしょうか。2020.3.11記