【木下晋】(1947~)
富山県富山市出身。中学時代より美術に傾倒し、地元の油絵教室に通う。後に木内克や麻生三郎に師事。1963年(昭和38)、自由美術協会展にクレヨン画を出展し、最年少(16歳)で入選して注目を浴びる。1969年22歳のとき村松画廊で開かれた初個展で、評論家・瀧口修造と出会う。1981年(昭和56)にアメリカに進出するが、現地の画廊での売り込みに失敗。自分ならではの作品制作への思いを強くし、モノクロームの表現に注目して鉛筆画を始める。同1981年、美術評論家の★洲之内徹の紹介により「最後の瞽女」といわれる小林ハルに出逢う。1983年(昭和58)より小林をモデルにした制作活動を開始し、これが木下の代表作の一つとなる。この制作を通じて、9Hから9Bのイギリス製鉛筆を色彩のように使い分ける、独自の技法を確立する。1992年45歳のとき念願であったニューヨーク(キーンギャラリー)での個展が実現する。小林死去直前の2005年(平成17)にはハンセン病回復者の詩人である桜井哲夫に出逢い、翌2006年(平成18)より桜井の肖像画が新たなライフワークとなる。ほかにも軽度の知的障害を患っていた実母、小説『痴人の愛』のヒロインのモデルとされる和嶋せい(葉山三千子)の晩年の姿、山形県鶴岡市の注連寺の天井絵画などを描いており、多彩な濃淡の鉛筆によって対象の陰影を克明に捉えた画、鉛筆1本で人物画の髪や顔の皺1本1本まで描くような細密な作品で知られるようになる。2013年(平成25)、紺綬褒章を受章。制作活動の傍ら、東京大学工学部建築学科講師、武蔵野美術大学造形学部油絵科講師、新潟薬科大学講師、金沢美術工芸大学大学院専任教授を歴任したほか、名古屋芸術大学の客員教授も務める。画文集に「祈りの心」(求龍堂)、絵本「ハルばあちゃんの手」「はじめての旅」(福音館書店)などがある。
・・・敬愛する洲之内徹さんが注目していた画家です。なるほどというか、やっぱりです。
・・・鉛筆の色、いいなあ。
《参考》★洲之内徹と現代画廊―昭和を生きた目と精神―/於:宮城県美術館
2013年11月2日(土)~12月23日(月)
https://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/exhibition-20131102-s01-01.html
2013(平成25)年は、洲之内徹(1913~1987)が生まれてちょうど100年目にあたります。愛媛県松山市に生まれた洲之内は、小説家、田村泰次郎から引き継いだ現代画廊で、個性あふれる数多くの作家を紹介しました。また『芸術新潮』誌上に14年の間「気まぐれ美術館」を連載し、その独特の語り口は多くの熱心な読者を獲得し好評を博しました。洲之内が最後まで手放さなかった「洲之内コレクション」は宮城県美術館に収蔵されています。本展では、このうちの半数をこえる作品のほか、彼の著作の中で語られた作品、現代画廊の初期や洲之内が引き継いだ後の作家の作品など、総数約190点と関係資料によって、洲之内徹と美術との関わりをあらためて見直します。このことは昭和を生きた一人の人間の足跡を通じ、戦後の新しい近代美術史像が生成される過程のひとこまを垣間見るとともに、なぜ人はかくも美術に愛着をもつのかという問いに思いをはせることになるでしょう。
《参考》木下晋「祈りの心」/松岡正剛『千夜千冊』より
https://1000ya.isis.ne.jp/1524.html
数枚の鉛筆画に瞠目させられた。木下晋が描いた「母」と「桜井さん」である。ぼくがハンセン病の制圧活動の一端に深入りすることになったのは、この数枚の絵とテレビドキュメンタリーと日本財団の笹川陽平からの依頼による。では、いったい画家木下晋とは何者なのか。その「母」とは、「桜井さん」とは何者なのか。そして歴史の宿痾のごとくに扱われてきたハンセン病(癩病)は、今日のわれわれに対して、何を突き付けているのか。そこには業病・差別・スティグマの訴えがある。すべては、そこからなのである。一冊の画文集を通して、ぼくは今夜、その茫然たる端緒に立ってみたい。
・・・コンクリートの打ちっぱなし、鉛筆の色に似ているかも?
・・・何を描くのか何故描くのか、安藤建築を彷徨いながら、真摯にアートと向かい合わなければと思う。