・・・前回(昨年)「河十」さんの紹介が抜けていましたので、
《河十呉服店》
590-0953堺市堺区甲斐町東2丁1-3/072-232-0379
http://sakai-shouren.com/shop.asp?mem_num=2230
●創業140年、河十「五代目の5つの宣言」
・無理な、お勧めはしません。お気軽にごらん下さい・納得価格でご提供・お客様の身になってご相談にのらせて頂きます・徹底した経費の削減でお客様に廉価で還元・充実したアフターサービス (着用後始末、リサイクル)
・・・さて、本題の「フクスケストア」さんについて、
《参考》(株)福生
593-8303 堺市西区上野芝向ヶ丘町4丁22-20/072-276-1611
福生は単なる通販会社ではありません。主に 寺院・神社にお勤めの方を対象に、高品質で多種多様な福助足袋や和装品・寺社用品等を お手頃価格でご提供しています。一般の方になじみのある大きな業界ではなく、所属する企業数も限られています。だからこそ、購入を希望されてもお買い求めいただける店舗がご近所に無いお客様にとって、弊社のような全国展開をしている通販会社は存在意義があると考えています。そして、ただ商品を販売するだけではなく、多くの品種を自社で企画・設計しています。創業以来、弊社は「顧客第一主義」の考えのもと、お客様のニーズやご意見をこまやかにすくい上げ、独創性の高い商品開発や迅速丁 寧なサービスを心掛けてきました。日本の伝統的なものを大事にするだけでなく、そこに弊社 なりの付加価値を加えることを心掛けています。代表取締役:辻本武玄
1990本社を高松市に置き、(株)福生を設立。カタログによる通信販売を開始。同時に★旧堺支社(現アンテナショップ)を開設。
1992年商10,000万円を突破
2001ネットショップ開設、白衣・襦袢等の和装品の自社デザインを開始
2004年商40,000万円を突破
2008通販カタログのデザインを大幅リニューアル
https://www.tabiya.net/hpgen/HPB/entries/6.html
2013堺支社(受注センター)を現在地(堺市西区)に移転。旧支社はアンテナショップとして残る。
《フクスケストア福生》
590-0953堺市堺区甲斐町東1-1-30/072-232-2166
http://sakai-shouren.com/shop.asp?mem_num=2219
・・・このアンテナショップも、閉店されるという話があります。残念なことですが、「氣になる玉手箱展」で華を飾りたいと思うわけです。
《足袋装束店「丸福」》
「福助株式会社」のルーツ、足袋装束店「丸福」が誕生
https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p08.html
袋、靴下のメーカーとして有名な「福助株式会社」は、1882(明治15)年、辻本福松が現在の堺区大町東三丁で創業した足袋装束店「丸福」がルーツ。当時、手縫いで足袋を生産していたが、1895(明治28)年に爪先縫いの足袋用ミシンが完成し、大量生産を可能にした。1900(明治33)年、商標を現在につながる「福助」とした。現在は靴下や下着などにも取り扱い範囲を広げている。
●明治40年に作られた一足袋。帆船に足袋の木箱を山と積み、福助人形がお辞儀をしているデザイン。実物は豪華な三色刷だった。
【北野恒富】(1880~1947)
http://www.nak-osaka.jp/gallery_15.html
1880年(明治13)、石川県に生まれる。本名富太郎。大阪に出て稲野年恒に師事。大阪新報社で新聞小説挿絵を担当。1910年(明治43)、第4回文展に《すだく虫》で初入選、大阪を代表する美人画家となる。1912年(大正元)、大正美術会を結成。1914年(大正3)、画塾「白耀社」を開設、再興第1回院展に《願の糸》を出品。1915年(大正4)《暖か》(第9回文展)以降は文展を離れ、日本美術院で活躍する。1915年(大正4)の大阪美術展覧会の創設、1918年(大正7)大阪茶話会の結成に参加するなど、大阪画壇の中心を担う。戦後は1946年(昭和21)、再興第31回院展に《関取》を出品。1947年(昭和22)、大阪府中河内郡にて67歳で死去。
★北野恒富画「福助」大正元年
https://www.fukuske.com/contents/history/
手縫いにまさる機械縫いの足袋
日本発の足袋縫いミシンの特許権を得た明治28年には「手縫いにまさる機械縫いの足袋」という、新聞1ページ大の看板を市内に掲げました。広告活動は大正時代に入ってから活性化し、画家北野恒富に依頼しました。このポスターは常富得意の美人画で、背景に書かれている工場は「将来このくらいの大工場を造りたい」という理想を表現したものです。
●「勤労動員で軍服作り」みんなのお宝写真館(9)/ニッポン写真遺産より
https://shashin-isan.asahi.com/column/exhibition/column-769/
亡き母の女学校時代/堺市★福助の縫製工場にて=1944年撮影
亡き母が大切に残していたアルバム4冊分を発注したのは、大阪府河内長野市の鶴岡喜美雄さん(65)。デジタル化が完了したら、画像をコピーして弟にも渡してやりたいという。「お前もオカンのこと、きちんと覚えておけよ、と言いたいので」そんな、鶴岡さんの母・敬(けい)さんは堺市出身で、1928(昭和3)年生まれ。府立堺高等女学校(現在の府立泉陽高校の前身)に通っていた戦時中、勤労動員のため、同市にあった足袋・靴下製造大手「福助」の縫製工場で軍服作りをしていたという。そのときの写真が冒頭の一枚だ。母に聞いた話によると、「からだの大きい子は農作業、小さい子は軍服作り、と割り振られた」。この写真は44年ごろに撮影された。既に戦局も厳しくなっていた時期で、原材料の調達や、完成品の前線への補給も難しくなり、この勤労動員は数か月で終わったそうだ。当時、完成した軍服に添えた「慰問袋」に、女学校仲間と手紙を入れていたところ、戦後、それを見たという復員兵が突然自宅を訪ねてきたこともあったという。敬さんは、2016年に88歳で他界した。写真を始め、様々な思い出の品を、きちんと大切に保存していた母だった。しかし、「学校の成績表だけは見つからへんかったんです」と鶴岡さん。「生前、オカンに聞いたら、『戦時中の何もない時期に、たきぎ代わりに燃やしてしもた』と言うてましたわ。ウソかホンマか分からんけど」と懐かしそうに笑顔を浮かべた。(この写真をもとにした記事が、2019年6月24日付朝日新聞朝刊(大阪版)に掲載されました)
・・・「氣になる玉手箱展」では、ギャラリー内防空壕で「記憶の玉手箱」ピースアクションも実施します。さらに、
★「岡本一平による漫画・工場見学記」
より多くのお客さまに最先端の技術を知ってもらえば、福助足袋がもっと人気になるはず!そう考えた、社長の辻本豊三郎は、工場見学を新聞広告で展開することを思いつきます。とはいえ、文章で全てを説明すると、難しくなってしまう…。わかりやすく、楽しく読んでもらう方法はないか?そこで、思いついたのがマンガでした。昭和2年(1927)全国の新聞に当時の人気マンガ家・岡本一平が描いた「福助足袋の生ひ立ち見物」と題した広告が一面で掲載されます。今でこそマンガを使った広告は当たり前ですが、実はこれがその元祖!ユーモラスで分かりやすい内容はたちまち大人気になります。これ以降、いろいろな会社からマンガを使った広告が登場するようになりました。ちなみにこのマンガを描いた岡本一平は、日本を代表する芸術家・岡本太郎のお父さん!このとき16歳だった岡本太郎もきっとこのマンガを読んだことでしょう。
《参考》広告博物館「アドミュージアム東京」
105-7090東京都港区東新橋 1-8-2 カレッタ汐留/03-6218-2500
★「福助足袋」中山岩太ポートフォリオ2010より
昭和5年/ゼラチン・シルバー・プリント 34.5×27.0/蔵:東京国立近代美術館
http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=188094
https://www.topmuseum.jp/contents/exhibition/index-317.html
・・・広告の重要性は、ますます高まっています。さらなるデザイナーや芸術家の素晴らしい作品を期待したいものです。ジョン・レノンも大好きだった福助人形、
《Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band》
・・・左下に写っている、福助人形。実は日本公演で来日したときのおみやげって知ってました?
《NEWS》2010.7.2東京新聞より
ソニーのテレビ、持ち主は誰?ポール購入していた
ザ・ビートルズの名盤のジャケットに写ったソニーのテレビの持ち主は誰か-。長年の謎を解明する“物証”となりそうな、ポール・マッカートニーさんあての請求書を、愛知県岡崎市美術博物館の村松和明学芸員(47)が見つけた。二日は、最初で最後となった東京公演最終日から丸四十四年の節目の日だ。1967年発売の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」は、66年6月30日~7月2日に東京・日本武道館で公演したビートルズが英国帰国後に収録したレコードだ。収録曲に負けず劣らず愛されたのが、六七年三月三十日にロンドンで撮影されたジャケット。メンバー四人の周囲に、マリリン・モンローら有名人のパネルや物品が配置されている。「福助人形」とともに日本ゆかりの品として登場していたのがソニーの9インチのテレビ。★福助は、ジョン・レノンさんが日本で購入し持ち帰ったと特定されてきたが、テレビの来歴は不明だった。請求書は、静岡県伊東市のBEATLES博物図館の名誉館長を務める東京都の収集家相沢和則さん(52)が、マッカートニーさんのサイングッズとして所有。マッカートニーさんが暮らしたロンドンの住所と氏名が印字され、青色ペンの署名も鮮明に読み取れる。ビートルズのファンでもある村松学芸員は、六六年十二月七日付の請求書に「納品 ソニー製9インチポータブルテレビ一台 七二・九ポンド」という記述があることに気づいた。ジャケット内のテレビが同型であることも確認できた。村松学芸員は「彼らは日本滞在中に、伝統を重んじる気風と、最新のエレクトロニクスに関心を持ったのだろう。伝統を福助、先進性をテレビとして対置させたのでは」と推測している。この請求書は来年一月、岡崎市美術博物館で開かれる企画展「スウィンギン・ロンドン」で、同型のテレビとともに公開される。
《参考》まちなかミニ福助人形展/2011年10月28日~11月6日
https://toursakai.jp/2011/11/09/fukusuke1/
https://toursakai.jp/2011/11/09/fukusuke2/
秋季堺文化財特別公開期間に合わせ、協力施設21ヶ所で堺市所蔵の福助人形展が開催されました。大きな耳を垂らした童顔の福助人形は、明治33年に福助足袋の商標とされて以降のもので、その原型は伏見人形の窯元丹嘉が福助足袋(株)から依頼を受けて、博多人形の名手といわれた石田菊次郎に原型をつくらせ調製されたものとされています。展示された福助人形は、戦後、丹嘉から福助人形型を譲り受けた宮崎工芸社により、昭和43年からその年の干支をモチーフに、毎年「お年玉人形」として作られた十二支福助です。市販されていません。
・・・「福助」されど「福助」、日本の伝統文化としてしっかり息づいています。
あけまして
おめでとうございます
令和2年 元旦