大和郡山市(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・さて「郡山城」「金魚」の次は、「卑弥呼」です。

 

《第37代女王「卑弥呼」(2019年度)》

https://www.yk-kankou.jp/himiko.html

大阪教育大学名誉教授だった故★鳥越憲三郎氏が著書「大いなる邪馬台国」の中で、邪馬台国は大和郡山市北西部の矢田地区にあったとの学説をもとに、大和郡山市が町おこしの一環として1982年より女王卑弥呼を選出するようになりました。卑弥呼に選ばれた方は、1年間にわたり、観光協会が関連する市の事業やキャンペーン、伝統行事のPRを行っています。

 

・・・鳥越さんの「大いなる邪馬台国」も読んでみたいと思いますが、

 

 

《三の矢塚》

https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/kankou/kanko/model/001224.html

http://yamatokoriyama.locodoco.net/sightseeing/sightseeing-cate04/135.html

矢田町字飛具谷字宮所にある。高さ1間、周囲4間、東西、南北各1間の規模で、土地の人は矢田部聖賢の墳墓といっている。伝説によると、★饒速日命(にぎはやひのみこと)又は櫛玉彦命(くしたまひこのみこと)が3本の矢を射て、3番目の矢の落ちたところを鎮座の地と定めようとされた。その3番目の矢が落ちたところであるといわれている。邪馬台国説では、女王★卑弥呼の宮居した伝承地と想定されています。

 

《饒速日命》

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる★物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、饒速日命の存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。饒速日命の墳墓は、奈良県生駒市白庭台にある白庭山である。

 

 

《参考》『五畿内志』(ごきないし)

正式には『日本輿地通志畿内部』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸時代の享保年間に編纂された畿内5か国の地誌、すなわち『河内志』『和泉志』『摂津志』『山城志』★『大和志』を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌と見なされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。

 

《矢田大宮の綱掛け行事》★奈良県立民俗博物館研究紀要・第23号(鹿谷勲執筆)より

http://www.pref.nara.jp/29919.htm

家々の屋根まで霜が降りてうっすらと雪化粧を施したような1月8日。大和郡山市の北西、矢田地区の鎮守★矢田坐久志玉比古神社で綱掛け行事が行われた。同社は★大和志によると「矢落大明神」、「矢田大宮」とも呼ばれ、矢田の他外川・城・山田・新を氏子圏としている。近世には、矢田寺と東明寺の一老二老四人が、神役を勤めていた。祭神は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、天忍穂耳命の子)と御炊屋姫(みかしきやひめのみこと、長髄彦の妹)、またクシタマヒコとクシタマヒメといわれる男女一対の神である。櫛玉饒速日命はニニギノ命の天孫降臨に先立って、天磐船に乗ってこの地に降臨し、その時★三本の矢を射たという。天孫降臨に先行する神話を有する独自の世界観をこの地は持っていたことになる。饒速日命が天磐船に乗って降臨した際に、三本の矢を射て、一の矢が落ちたところとされ「矢落大明神」とも、また単に「矢田大宮」とも呼ばれる。境内には二本目の矢が落ちたという★「二の矢塚」もある。空を飛んだ天磐船の伝説から飛行の神としても崇敬され、飛行機の木製のプロペラが奉納されて楼門にかかげられている。このプロペラは昭和18年に大日本飛行協会大阪支部から奉納されたもので、同社宮司加藤善孝氏によれば★陸軍九一式戦闘機I型のものとのことである。昭和15年に9月20日が「航空の日」に制定されてから、同社の恒例祭として毎年9月20日に航空祭が執り行われている。同社には、祭祀組織として宮座として北座(左座11戸、右座11戸)、敬神座(南矢田他)、南座(岡・丸尾)が営まれ、1月8日にはこれら宮座によって綱掛けが行われる。八日朝、神社を訪れるとすでに楼門の入り口には、直径10センチほどの綱を大きく二回ほど巻いて、その中央部をグルグル巻きにして、はみ出た部分を張り出して、据えられている。横山の人々が正月2日に神社境内で作ったものという。ただの綱とも思えない存在感のある形姿をしている。龍の姿という人もあれば、エビだという所もあるという。宮座のうち、左座は末社の主人(ぬしと)神社の綱を、敬神座は神社境内の注連縄をつくり、神社正面の綱掛けは北座の人々が行うことになっている。北座は矢田地区のうち、東村・北村・中村・榁の木・横山の集落のうち現在22軒で組織されており、東村・北村・中村・横山の各集落が1本づつ、合計4本の綱を作ることになっている。午後1時頃から北座の人々が集まり始め、まず神社の正面に掛けられた昨年の綱を外して、トンドで燃やし始める。そのうちにトーヤの家で作られた中村・北村・東村の綱が軽トラックで次々と運び込まれる。巻き方は少しずつ違うようだ。しばらくトンドの周りで、正月の挨拶や雑談が続くうちに雪が激しく舞い出し、2時の予定を早めて拝殿で祭典が始まる。20人ほどが参列して祭典が終わると、宮司が切幣で四つの綱を祓い清める。それを待つようにして、人々は早速巻いた綱をほどいて長く境内にのばし、1本の綱の中央部分に別の綱を「チョウサジャ、チョウサジャ」の掛け声とともに二重に撚り合わせる。四本の綱には雌雄があり、撚り合わせることは、男女の交合にもつながるという意識が持たれている。この撚り合わせた部分が神社入り口にくる。さらに1本の綱を繋いで、都合3本の綱で長い綱が完成する。何人もの人が樹や柱に登り、長い綱を引っ張り上げる。西の端から東の柿の大木までおよそ40メートル余り、中央には真新しい幣と房が垂れ下がる。見学している私にまで清新の空気が伝わってくる。残り1本の綱は半切されて、片方はフナドサン(二の矢塚)の石に巻き付ける。残りの半分は、主人神社へ運ぶ。大宮の南、矢田参詣道沿いの同社は小祠ながら精巧な作りの社殿だ。ここには左座の人々八人が集まっていた。先ほどの綱の半分と3日に左座のトーヤで作った綱を繋いで1本にし、社前に吊り下げる。終わると小さなトンドを囲んで立ったままでなごやかな直会となった。

 

 

《参考》「所沢航空発祥記念館」

359-0042埼玉県所沢市並木1-13(所沢航空記念公園内) /04-2996-2225

https://tam-web.jsf.or.jp/

★重要航空遺産「九一式戦闘機(埼玉県所蔵)」

http://www.aero.or.jp/isan/heritage/aviation-heritage-type91-detail.htm

 

・・・ということで、とにかく神社まで来ました。

 

 

《矢田坐久志玉比古神社》

639-1058 奈良県大和郡山市矢田町965/0743-52-7313

https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/ourcity/history/shiseki/000269.html

本殿は一間社春日造、檜皮葺。小社ですが木割りは荘重で、蟇股<かえるまた>、木鼻<きばな>の彫刻、脇格子にはめられた吹寄格子など、細部の手法も優秀です。当社の創建の年代は明らかではありませんが、貞観元年(859)に神戸<かんべ>を賜った記録があり、また、延喜式<えんぎしき>では大社に列しているので かなり古い時期に成立しているようです。現在の本殿の建築年代は室町時代初期と推定されています。本殿の西側に建っている末社の八幡神社社殿も重文に指定されています。構造や手法は本殿に類似していますが、建築年代は少し遅れる室町時代中ごろと考えられています。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190413

 

 

・・・周囲はまさしく田舎ですが、予想以上に立派な神社で驚きました。