《葛城川》
http://www.pref.nara.jp/18007.htm
奈良県・大阪府境の金剛山東麓に発し、概ね北流。★御所市街を貫き、大和高田市街東部を抜けた後は、奈良盆地西部の田園地帯を潤しながら北上し、北葛城郡広陵町大場付近で曽我川に注ぐ。下流域では曽我川のほか、同じく大和川の支流である飛鳥川・高田川と南北に平行している。
《御所小学校》
639-2239奈良県御所市610番地/0745-62-2321
http://www5.kcn.ne.jp/~gose-sho/
1985年(昭和60)3月、新校舎が落成。
★測量の日、実物大で東大寺大仏描く/御所小6年生55人御所/奈良
「測量の日」の2016年6月3日、県測量設計業協会のメンバーらが御所市立御所小学校で出前授業を行い、6年生55人が参加した。測量の日は、1949年6月3日に測量法が公布されたことにちなんで国が定めた。同協会は毎年県内の小学校で同様の催しを開いている。この日は測量士や国土地理院職員らが訪問。グラウンドに実物大の大仏を描いた。
《葛城公園》(御所中央公園)
639-2221奈良県御所市栄町1-15
https://www.city.gose.nara.jp/0000000300.html
御所市では、市の中央に「緑豊かな生活文化都市」のまちづくりの一環として、また県事業「葛城川ふるさとの川モデル事業」の親水広場と一体となった施設設備で★旧御所工業高校跡地・旧御所幼稚園跡地に豊かな歴史と自然に恵まれた御所の地にふさわしい、水と緑のある憩いの広場、中央公園(葛城公園)を整備しました。公園内には市の新しい文化・情報の拠点となる図書館★多目的ホール(アザレアホール)が設けられています。広場では市民祭り、花木展、チャリティーバザー等で集まったり、バドミントン、遊びなどの軽スポーツが楽しめます。歴史ある葛城川の堤防道路に沿った散策路(プロムナード)では、公園の眺めを楽しみ、語らいまた、四季とりどりの草花や樹木などの「緑」、壁泉や滝、川のせせらぎなどの「水」を見たり、ふれたり、学んだり、子どもからお年寄りまで、気軽に利用し、ふれあうことができます。
《旧御所工業高校》
1899年(明治32)創立の「奈良県染色講習所」を前身とする。その後工業学校を経て、1948年(昭和23)4月の学制改革により、新制工業高等学校「奈良県立御所工業高等学校」となった。その後、「奈良県立御所高等学校工業課程」、「奈良県立御所実業高等学校」(初代)を経て、1958年(昭和33)に農業課程が分離し、再び「奈良県立御所工業高等学校」となった。2007年(平成19年)にはかつての農業課程を前身とする奈良県立御所東高等学校との統合により、「奈良県立御所実業高等学校」(二代目)が新設されたため、御所工業高校としての募集を停止し、2009年(平成21年)3月に110年の歴史に幕を下ろして閉校した。
日本で初めて★オートバイを製作した技術者・島津楢蔵を輩出している。大阪市東区平野町の貴金属商「丹金」の跡取りで、1910年にモーターサイクル用発動機を作り、1916年の日本初の飛行機用発動機製作奨励懸賞競技会で唯一合格した。2008年(平成20)第88回全国高等学校★ラグビーフットボール大会で「御所工業・実業」として出場し、準優勝となる。
《NEWS》2016.12.20産経ニュースより
元法相 奥野誠亮氏の地元・奈良で「お別れの会」2千人が参列
2016年11月に103歳で死去した奥野誠亮元法相の「お別れの会」が2016年12月19日、奈良県橿原市の橿原ロイヤルホテルで営まれ、関係者ら約2千人が出席した。奥野氏の出身地★同県御所市のほか、自民党県支部連合会、奥野家などが主催。実行委員長を務めた柿本善也・前奈良県知事は「国の将来と、国民の誇りを特に大切にされた政治家で、ふるさと奈良にこの上もない熱い愛情を示された」と悼んだ。荒井正吾知事も「生涯にわたり、地方自治の振興、郷土・奈良県の発展に力を尽くされた」と奥野氏の功績をたたえ、別れを惜しんだ。
《アザレアホール》
639-2200奈良県御所市13番地/0745-65-2580
https://www.lib100.nexs-service.jp/gose-city/hall/hall.html
アザレアホールは、文化ホール・図書館からなる複合施設です。この施設は、市民の文化的資質のより一層の向上と生涯学習の推進の場として活用されています。図書館は市民の皆さんが求める図書資料及び情報を気軽に得ることができ、幼児から高齢者まで、どなたでも気軽に利用していただける施設であり、コンピューターによる図書館システムや視聴覚機能を備えた施設として利用者の利便性を図っています。文化ホールは、文化活動の普及振興を図るため音響効果等に工夫をこらし、多様な文化活動に利用できる多目的ホールとして機能を備えた施設です。
★令和元年度企画展「條ウル神古墳ー巨勢氏との関係を探るー」
2019年11月1日(金)~10日(日)
列島屈指の横穴式石室をもつ條ウル神古墳の発掘調査成果を展示し、巨勢氏の首長墓と考えられている古墳との比較を通して、條ウル神古墳のもつ歴史的意義に迫ります。また、展示期間中の11月4日(月・祝)には関連するテーマの講演会を開催します。
https://www.city.gose.nara.jp/kankou/0000001443.html
大正5年(1916)刊行の「奈良縣史蹟勝地調査會第3回報告書」に、当時の奈良縣枝手、西崎辰之助によって「條ノ古墳」として報告された本墳は、従来必ずしも正当に評価されてきたとはいえませんでした。それは、墳長・石室・石棺の規模のいずれもが、にわかには信じがたいほど大きなものであること、また、家形石棺の蓋側面の縄掛突起が通常二つずつであるのに対し、略報では三つずつ計八つとされており、他にほとんど例が見られないことなど、資料としての信用性を疑問視する人が多かったからです。その後、古墳と周辺地形が著しく改変される中で、古墳の所在そのものも判然としなっていましたので、平成13年度に石室の所在と現状を確認するための調査を実施したところ、西崎報告の通りの巨大な石室と石棺が存在することが判明しました。條ウル神古墳の石室・石棺はその形式から六世紀後葉の築造とみられます。石室内には、かつて水がたまっていたことを示す成水層がまだ厚く推積しているために、正確な数値はわかりませんが、石室・石棺とも最大もしくは最大級と呼ぶに相応しく、例えば比肩する規模の見瀬丸山古墳は欽明天皇、石舞台古墳は蘇我馬子の墓とする説が有力です。條ウル神古墳の場合には★巨勢(許勢)氏の盟主をあてるのが妥当で、許勢臣稲持や比良夫らが数人が候補となるものと思われます。当古墳は、現在埋め戻されています。
《参考》ふるさと御所「文化財探訪」-考古学・古代史編-巨勢(許勢)氏
https://www.city.gose.nara.jp/0000001367.html
許勢とも記す。奈良盆地南西部を本拠地(《和名抄》に、高市郡巨勢郷がみえる。現、御所市古瀬)とした臣姓の有力古代豪族。その祖、巨勢小柄宿禰は、武内宿禰の子と伝承されており、蘇我氏、波多氏、葛城氏らとともに、武内宿禰の後裔と称していた。巨勢氏の本拠地は、曾我川の上流に近い山間で(★コセの地名は、こうした地形に基づく)、紀伊に至る紀路が走る要衝である。蘇我氏、波多氏、葛城氏の本拠地とも近く、いずれの地も、曾我川の灌漑範囲であること、紀路沿いであることが、武内宿禰を共通の祖と仰ぐ同族意識をはぐくんだのであろう。
《おまけ》「コセ」
●「こせこせ」
1 場所が狭くて空間にゆとりのないさま。「こせこせ(と)した庭」
2 細かなことにこだわって、ゆとりや落ち着きがないさま。「こせこせ(と)動き回る」「こせこせ(と)した人物」
●山梨県言語「狭い」(畑)の方言形調査に、「コセ道」を発見した。
チックイ. セメー. セバイ. チックイ. 11-88. セマイ. セマイ. セメー. K1:誘導、ほかに★コセ道(狭い道). 11-89. セマイ. 11-54. 11-55. 11-56. 11-57. セマイ. チックイ. セメー. K2:子供の身長の場合にいう. 11-90. セメー. チックイ. セメー. ほかにコボッタ(小さい田). 11-91
・・・小さなことにコダワリ、調べていくと本当におもしろい。しかし、脱線・寄り道ときには裏道に入り込み、なかなか前に進まない。笑うしかない。
・・・ようやく「青果市場跡」に到着です。やれやれ。