・・・ブログ「Nature」で「蝶矢」について書きましたので、
《参考》「蝶文様」
中国では蝶を「ボウ」と読み、80歳を意味する語と同じ発音であるため長寿のシンボルとされています。日本には奈良時代に伝えられ蝶文様は、平安時代に公家装束の有職文様に取り入れられると独立した文様としてして人気を呼びました。揚羽蝶は平家ゆかりの家紋としても知られています。虫類の文様が少ない中でも、蝶は形が美しく舞飛ぶ姿の可憐さから様々に文様化され吉祥文様として着物や帯に用いられてきました。しかし吉祥文様として広く好まれている蝶文様ですが、死霊の化身、短命、黄泉の国(死後の国)からの遣い、浮気など不吉ととらえる考えがあり、地方や時代によって吉凶の見方は異なります。結婚式などには蝶文様のお着物や帯は避けるとされていた事もあったそうです。
★「芭蕉蝶文」
《バショウ》(芭蕉・Musa basjoo)
バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナと言うが、中国が原産といわれている。高さは2~3mで更に1~1.5m・幅50cm程の大きな葉をつける。花や果実はバナナとよく似ている。熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東地方以南では露地植えも可能である。主に観賞用として用いられる。花序は夏から秋にかけて形成される。実がなることはあまりないがバナナ状になり、一見食べられそうにも見えるが、種子が大きく多く実も綿のようで、タンニン分を多く含む種株もあるため、その多くは食用には不適である(ただし追熟させればバナナ同様食用になりうる実をつける)。琉球諸島では、昔から葉鞘の繊維で芭蕉布を織り、衣料などに利用していた。沖縄県では現在もバショウの繊維を利用した工芸品が作られている。
【芭蕉】(1644~1694)
芭蕉は、葉が支脈に沿って破れ易いのを世のはかなさになぞらえて自らの号にしたという。
蝶の飛ぶばかり野中の日影かな「笈日記」
起きよ起きよ我が友にせんぬる(寝る)胡蝶「己が光」
唐土の俳諧とはんとぶ小蝶「蕉翁句集」
てふの羽の幾度越る塀のやね「芭蕉句選拾遺」
物好や匂はぬ草にとまる蝶「都曲」
蝶よ蝶よ唐土のはいかい問む「真蹟画讃」
★君や蝶我や荘子が夢心「芭蕉書簡」
『荘子』にある★胡蝶の夢から採った句。荘子の著者(といわれている)荘周は夢で胡蝶になって自分と蝶の区別ができなくなったという故事がある。自然になりきった同化の極限である。一句は、蝶と自分の区別がつかない斎物論のように、私は夢の中であなたと混同しています。私とあなたは一体なのですという意を怒誰に告げているのである。
【蝶夢】(1732~1796)
江戸時代中期の時宗の僧・俳人。名は九蔵。号を洛東・五升庵・泊庵と称した。京都の出身。京都法国寺(時宗)に入り、其阿(きあ)に師事して9歳で得度。13歳で俳諧を志し、初めは宗屋(そうおく)の門下であった。1757年(宝暦9年)、敦賀に赴いたのをきっかけとして、支麦の系統の地方俳諧に接し、都市風の俳諧から地方風の俳諧に転じた。俳人で行脚僧の既白や加賀国出身の二柳・麦水などと交流し、蕉風俳諧の復興を志した。芭蕉70回忌法要に大津馬場の義仲寺(芭蕉墓所)を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。35歳のとき法嗣某に帰白院を譲り、洛東岡崎に草庵「五升庵」を結ぶ。そして義仲寺翁堂などを再建し、1793年に芭蕉100回忌を盛大に成し遂げた。また松尾芭蕉の遺作を研究し刊行した『芭蕉翁発句集』『芭蕉翁文集』『芭蕉翁俳諧集』の三部作は、はじめて芭蕉の著作を集成したものである。★『芭蕉翁絵詞伝』は本格的な芭蕉伝として有名。ほかにもたくさんの著作を出版した。俳書を収めるために義仲寺に設けた粟津文庫も蝶夢和尚の功績である。宝暦年間(1751年-1763年)、阿弥陀寺(浄土宗)帰白院の住職となる。
★「芭蕉翁繪詞傳」について
http://www.mainichi-art.co.jp/pages/arcadelinks/UNSODO/bashoden/basho.html
世界的な文学『奥の細道』をのこし、「俳諧」を芸術の域にまで高めた俳聖・松尾芭蕉(1644-1694)。没後も与謝野蕪村(1716-1784)ら「蕉風」を嗣ぐ文人などにより顕彰され続けてきましたが、現在われわれが抱く「漂泊の俳聖」というイメージは、芭蕉没後の百回忌に五升庵蝶夢が著した伝記『芭蕉翁繪詞傳』に拠るところが大きいといわれています。『芭蕉翁繪詞傳』は、芭蕉の生涯の主要な出来事を、三巻の絵詞(えことば)にまとめたもので、『奥の細道』『芭蕉翁文集』『芭蕉翁発句集』などの名文・名句を鑑賞しながら芭蕉の文学と人生に近づける内容となっています。五升庵蝶夢が芭蕉九十九回忌(寛政4(1792)年)の忌日に、芭蕉の菩提寺である義仲寺(大津市)に奉納したもので、絵は狩野正栄至信、詞は五升庵蝶夢の手になります。翌年の芭蕉の百回忌(寛政5年)に刊行された版画本では、京都の画家・吉田偃武(よしだ えんぶ、1768-1816)が版画用に絵を縮小し描き、その33図もの親しみやすい挿絵もあいまって、人気を博し、芭蕉の評価をより高める一助となりました。今回版元となった★芸艸堂(うんそうどう)では、明治年間に入手した数多くの江戸期の版木のなかに「芭蕉翁絵詞伝」の初版の原版木を発見、厳密な摺刷を経て、見事に復刷しました。
【蝶二】(1768~1857)
小糸周辺(千葉県君津市)で桂下坊と蝶二を中心とする俳諧社中(小糸連中)、蝶二は本名を中野衛門英影と云い、師である伊藤礎石坊を何度か地元へ招いて一門の育成に努める等の功績を残しております。安政四(1857)年に89歳で逝去しました。
・・・蝶で忘れてはならないのが、「良寛」さんです。
【良寛】(1758~1831)
花無心招蝶 花 無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 蝶 無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 花 開く時、蝶来り
蝶来時花開 蝶 来る時、花開く
吾亦不知人 吾れも亦人を知らず
人亦不知吾 人も亦吾れを知らず
不知従帝則 知らずして帝の則に従う
・・・さて、新元号「令和」に蝶が深くからんでいることは、以前にも書いていますが、
《万葉集》
元号「令和」が採られた大伴旅人の巻5の梅花32首の序に「新蝶」は登場しますが、蝶の歌は一首も詠まれていません。
梅花歌卅二首并序/天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞★新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以□(手偏+慮)情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
・・・《新蝶》に魅せられて、「初蝶」を購入しました。
・・・さて、どうして「蝶」の歌が詠まれなかったのか、考えてみました。
《常世神》
『日本書記』によれば皇極天皇の3年(644)に、蝶を「常世の神」とみなす信仰が大流行したという。しかし人心を惑わすものであるとされて教祖が処分になったとあります。
秋七月、東国不盡河邊人大生部多、勸祭蟲於村里之人曰、此者常世神也。祭此神者、到富與壽。巫覡等、遂詐託於神語曰、祭常世神者、貧人到富、老人還少、由是、加勸捨民家財寶、陳酒陳菜六畜於路側、而使呼曰、新富入來。都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。其巫覡等、恐休勸祭。時人便作歌曰、
禹都麻佐波、柯微騰母柯微騰、枳舉曳倶屢、騰舉預能柯微乎、宇智岐多麻須母。
此蟲者、常生於橘樹、或生於曼椒。(曼椒、此云褒曾紀。)其長四寸餘、其大如頭指許、其色緑而有黑點。其皃全似養蠶。
虫を崇めた民間信仰を秦造河勝が打ち倒しました。その虫は「タチバナ」と「山椒」につくというのです。タチバナも山椒もミカン科植物で、この柑橘系の葉っぱを専門に食べるのが★「揚羽蝶」です。「タチバナ」というのは香りがあり、古来から特別視されていて、それを食べる揚羽蝶を特別視したのは当然かもしれません。また幼虫が蛹になり蝶になるのも、「富」とか「若返る」とかと関連付けて考えたとしても不思議ではありません。
以降、「万葉集」の時代には、「蝶」は忌避されるものであり、ほとんど登場することはありませんでした。蝶の蛹はほとんど動かないので死んでいるとみなされ、しかしその死である蛹から、まったく異なる形で出て来て空を舞う蝶の姿は、すなわち死者の魂とされたのです。「蝶」は 死と結びつけて考えられました。そのような理由で「蝶」の例歌が少なくなったのであろうと考えられています。
その一方で、「夏虫の火に入るがごと」(『万葉集』1807)「夏虫の身をいたづらになすこともひとつ思いにより てなりけり」よみ人しらず(『古今集巻十一恋』)「人の身も恋にはかえつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ」和泉式部(後拾遺和歌集巻十四恋)
このように古人は、「夏虫」に自ら火に飛び込んで死ぬ一途な恋をかさねてみていた。「夏虫」とは時に蛍や蝉をも意味するとされます。火に飛び込むのは蛾だけではないのですが、「夏虫」の多くは蛾を表しているようです。ほかに「蛾」には、「火虫」、「火取虫」などの呼び名もある。これがいにしえの詩人にとっての蛾であったのです。また「蛾」の古称は「ひひる(ひいる)」です。この呼称においては事情がまた異なります。『持統紀』には越前国司が「白き蛾」(カイコガであろう)を献上したことが記されています。『万葉集』巻13挽歌の「蛾葉」は「ひひるは」または「ひむしは」と訓(よ)むそうです。「蛾羽」は蛾の翅で薄いもののたとえに使われた。「ひひる」とは主にカイコガを意味し、この時代の天皇に献上するほど価値のある大切なものでした。
《カイコ》(蚕、蠶)学名(ラテン語名)「Bombyx mori(ボンビクス・モリ)」
チョウ目(鱗翅目)・カイコガ科に属する昆虫の一種。和名はカイコガとされる場合もカイコとされる場合もある。カイコガと呼ばれる場合も、幼虫はカイコと呼ばれることが多い。クワ(桑)を食餌とし、絹を産生して蛹(さなぎ)の繭(まゆ)を作る。有史以来養蚕の歴史と共に各国の文化と共に生きてきた昆虫。カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれ、家畜化された昆虫で、野生には生息しない。またカイコは、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても逃げ出さず、体色が目立つ白色であるなど、人間による管理なしでは生育することができない。カイコを野外の桑にとまらせても、ほぼ一昼夜のうちに捕食されるか、地面に落ち、全滅してしまう可能性がある。幼虫は腹脚の把握力が弱いため樹木に自力で付着し続けることができず、風が吹いたりすると容易に落下してしまう。成虫も翅はあるが、体が大きいことや飛翔に必要な筋肉が退化していることなどにより、羽ばたくことはできるが飛ぶことはほぼできない。
カイコは、ミツバチなどと並び、愛玩用以外の目的で飼育される世界的にも重要な昆虫であり、主目的は天然繊維の絹の採取にある。日本でも、古事記にも記述があるほどの長い養蚕の歴史を持ち、戦前には絹は主要な輸出品であり、合成繊維が開発されるまで日本の近代化を支えた。農家にとって貴重な現金収入源であり、地方によっては「おカイコ様」といった半ば神聖視した呼び方が残っているほか、養蚕の神様(おしろさま)に順調な生育を祈る文化も見られた。また「一匹、二匹」ではなく「一頭、二頭」と数える。繭は一本の糸からできている。絹を取るには、繭を丸ごと茹で、ほぐれてきた糸をより合わせる。茹でる前に羽化してしまった繭はタンパク質分解酵素の働きで絹の繊維が短く切断されているため紡績には向かない。繊維用以外では、繭に着色などを施して工芸品にしたり、絹の成分を化粧品に加える例もある。
絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の養蚕農家の多くは、鯉、鶏、豚などの飼料として利用した。現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌にすることが多い。また、貴重なタンパク源として人の食用にされる例は多い。90年余り前の調査によると、日本の長野県や群馬県の一部では「どきょ」などと呼び、佃煮にして食用にしていたと報告されている。太平洋戦争中には、長野県内の製糸工場において、従業員の副食として魚肉類の代わりに提供された。最初は特有の臭いもあって、なかなか手の出なかった従業員達も、貴重なタンパク源として競って食すようになり、しばらくして数に制限が加えられたという。現在でも、長野県ではスーパー等で佃煮として売られている。伊那地方では産卵後のメス成虫を「まゆこ」と呼び、これも佃煮にする。朝鮮半島では蚕の蛹の佃煮を「ポンテギ」と呼び、露天商が売るほか、缶詰でも売られている。中国では山東省、広東省、東北地方などで「蚕蛹」(ツァンヨン、cānyǒng)と呼んで素揚げ、煮付け、炒め物などにして食べる。ベトナムでは「nhộng tằm」(ニョンタム)と呼んで、煮付けにすることが多い。タイ王国でも、北部や北東部では素揚げにして食べる。ヒトに有用な栄養素を多く含み、飼育しやすく、蛹の段階では内臓に糞が詰まっていないことから、長期滞在する宇宙ステーションでの食料としての利用も研究されており、粉末状にした上でクッキーに混ぜて焼き上げる、一度冷凍したものを半解凍する、などの方法が提案されている。今では言われなければわからないほど自然な形に加工できるようになっている。また、蛹の脂肪分を絞り出したものを蛹油と呼ぶ。かつては食用油や、石鹸の原料として利用された。現在では主に養殖魚の餌として利用される。他に、爬虫類や両生類など昆虫食動物を飼育する際の餌として生きた幼虫を用いる。その分野ではシルクワームの名で呼ばれる。ミールワームやコオロギなどより栄養価が高く、また水分の多い素材として重視される。
《蚕起食桑》かいこおきてくわをはむ
提灯の匂ひかなしく桑を負ふ/岩村牙童
飼屋の灯母屋の闇と更けにけり/芝不器男
《駒ヶ根シルクミュージアム》
399-4321長野県駒ヶ根市東伊那482番地/0265-82-8381
・・・蝶を調べて「蛾」とりわけ「カイコ」の重要性を知りました。いやあ、ほんとスゴイ。