・・・けいはんな記念公園「月のアート展」で、岡山から出品されている方とお友達?になりました。「玉手箱プロジェクト」へのお誘いをしましたところ、様々な情報をいただきました。その一つが、
◆【感覚ミュージアム】◆
989-6434宮城県大崎市岩出山字下川原町100/0229-72-5588
感覚ミュージアムは視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった、私たちの持っている"五感"をテーマとするミュージアムです。「感覚ミュージアム」の館内は、大きく分けて2つのゾーンに分かれています。まず一つ目は「ダイアローグゾーン」。ダイアローグゾーンでは、空間装置がメインとなったゾーンで、館内に入る人は実際に様々な展示に触れて、新しい感覚を体験することができます。もうひとつが「モノローグゾーン」。こちらは多彩な空間演出により、館内を歩くうち瞑想に似た状態を楽しむことができます。どちらの展示でも、五感がフル活用されるのを感じることができるはず。また管内の展示は触っていいものばかりなので、積極的に手触って音を出したり、歩き回ったり、香りを確かめたりするのが楽しむコツとのことです。「感覚ミュージアム」では様々な現代作家のアート作品の展示が行われています。でも人気なのが、ダイアローグゾーンの「創作楽器」。この展示では、木や竹、パイプといった日常にある素材で作られた楽器が展示されています。もちろん、どの楽器も手やばちで触ったり、演奏したりしてみることが可能。最初は遠慮がちだったとしても、次第に楽しくなって大人も子どもも楽しめるはず。また、ダイアローグゾーンとモノローグゾーンをつなぐ「闇の森」も人気です。こちらは真っ暗な森の中を歩くため、視覚以外の感覚を使わなければいけません。そのため、これまで感じることのなかった不思議な感覚を味わえるはず。さらにモノローグゾーンで人気の「香りの森」では、様々な木々の香りが感じられる場所。できるだけゆったりとリラックスした気持ちで楽しむのがおすすめです。この個性的な「感覚ミュージアム」を設計したのは建築家である★六角鬼丈氏。これまで富山県の博物館である「六角鬼丈」や、東京藝術大学大学美術館、東京武道館などそうそうたる建物を建築した人物として知られていて、現在は東京藝術大学名誉教授を務めています。六角鬼丈氏の建築はとにかく個性的。その個性は「感覚ミュージアム」でも存分に発揮されています。「感覚ミュージアム」は円形の広場を囲む回廊と建物が一体化した構造となっていて、左右でダイアローグゾーンとモノローグゾーンに分かれていますが、個性的な展示でフル活用した五感を癒す役割もある広場があることで、心に開放的な気分が生まれ、さらにリフレッシュする感覚を味わうことができます。もし建築に興味のある方は、展示だけでなく建物そのものに目を向けてみるのもおすすめです。
・・・近くにあったら、すぐにでも飛んで行きたい。
【六角鬼丈】(1941~2019)
《NEWS》2019.1.13朝日新聞デジタルより
建築家・六角鬼丈さんが死去/東京武道館など手がける
六角鬼丈さん(ろっかく・きじょう=建築家、東京芸術大学名誉教授)が12日死去、77歳。通夜は21日午後6時、葬儀は22日正午から東京都台東区上野公園14の5の寛永寺輪王殿で。喪主は次女で建築家の美瑠(みる)さん。磯崎新アトリエを経て、ポストモダンの建築家として注目された。大胆な造形で知られ、作品に「雑創の森学園」(京都府、吉田五十八賞)や「東京武道館」(日本建築学会賞)、「東京芸術大学大学美術館」など。
★1000の小箱展
感覚ミュージアムには1000の引き出しが並ぶギャラリーがあります。この引き出しに応募作品を展示し来館者が自由に開けて鑑賞する、アートによるコミュニケーションを目的とした作品展で、2年毎に開催しています。※次回の1000の小箱展作品募集は2020年を予定しております。
・・・「千の風になって」を思い出します。
《Do not stand at my grave and weep》
Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)は、近親者の死、追悼、喪の機会に読み継がれて来た有名な詩。原題はなく、便宜上最初の行を借りて "Do not stand at my grave and weep" として知られる。日本では、第3行目 "I am a thousand winds that blow" から借りて名づけられた「千の風になって」として、新井満による日本語訳詩や、「千の風」としての塩谷靖子による日本語訳などが広く知られる。
この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、1932年、ボルティモアの主婦メアリー・フライが書いた最初の詩とする説が有力である。同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなり、しかし当時のドイツの反ユダヤ主義の風潮のために帰国出来なかったことが原因で落ち込んだ彼女のために、茶色の紙袋にこの作品を書いた。シュワルツコップの母の死からしばらくして、彼女の家族の友達が詩をはがきに印刷して、人々に送った。これが人々に『人伝いで』広まった最初の原因だと思われる。メアリー・フライは友や人々の癒し・追悼のためにこの詩を書き、著作権にこだわることのなかったため、人々は自分の文体や言葉で表現でき、出版などで流通する作品より広く知れ渡ることになったと思われる。この他、ネイティブ・アメリカンのことば、伝統的な民話、他の作家の作品など、様々な説があり、作品も言葉遣いが微妙に違うバージョンが存在する。
1998年、 アメリカの新聞コラムニスト、アビゲイル・ヴァン・ビューレン(Abigail Van Buren, 通称 Jeanne Phillips)が起源についての調査を行い、 コラム "Dear Abby" に書いたことにより明らかになった。2000年5月10日、CBC がTV、ラジオでこの詩に、多数のバージョンがあることを紹介した(番組名:"Poetic Journey")。アメリカ合衆国では、アメリカ同時多発テロ事件で父親を亡くした11歳の少女が、1年後の追悼式で朗読したことで話題になった。
この詩を日本に紹介したのはデーブ・スペクターである。1985年坂本九の葬儀委員長を務めていた永六輔のもとに、良い詩があるからとこの詩を持ち込んできたのがデーブ・スペクターであり、永六輔はその詩を葬式で朗読した。2006年11月福山雅治がライブ「PHOTO STAGE」で、同時多発テロの写真を上映しつつ、新井満による訳詞を朗読している。
・・・深~い。
・『1000の風―あとに残された人へ』南風椎
・『千の風になって』新井満
・『千の風』塩谷靖子
・・・「玉手箱プロジェクト」における、防空壕での「記憶の玉手箱」へと繋いでいきたいものです。