《作品No. os04「稀有の触手」》作:やさしい美術プロジェクト
大島で暮らした人の熱を伝える場所を、大島の歌人★斎木創の歌「唇や舌は麻痺なく目に代る稀有の触手ぞ探りつつ食う」には自らの命を燃やし続ける人の生々しい姿がある。遺されたものを通じて大島の一人ひとりから放たれた体温に触れるような場所をつくる。
【斎木創】(1914~995)
1914年岡山県生まれ。1934年大島青松園入所。1989年歌集『海のこだま』上梓。らい予防法廃止目前に1995年死去。1997年『斎木 創 歌集』出版。
※斉木創「俗説による園内特殊語─風雪50年の一考証」(『青松』通巻第151号、1959年11月)
「洋館ゆき」は、「「赤練瓦」ともいつたが、火葬場の形容から生れた『死ぬこと』の符牒〔中略〕居室は貧相な平屋ばかりの昔から、火葬場と納骨堂と★解剖棟だけは、立派やかな洋風建てだったので『死んだら洋館へ行けらア!』と、患者の死滅だけを念願とした当時の隔離政策に対する、これは密かな抵抗感覚と皮肉から生れた言葉である。」(88~89ページ)。
・・・空も海も「あおい」、そして寮内はもっと「あおい」。
・・・ポッカリと「しろい」部屋が。
《NEWS》2010.7.19毎日新聞より
<ハンセン病>解剖台、25年ぶり海中から引き揚げ
高松市沖の大島にある国立ハンセン病療養所「大島青松園」で、約25年前に捨てられたコンクリート製の解剖台が海中から引き揚げられた。かつての強制隔離を象徴する「負の遺産」といえ、19日に大島など瀬戸内海の七つの島を舞台に開幕した「瀬戸内国際芸術祭2010」で展示される。入所者自治会の山本隆久会長(77)は「何百人という人がこの解剖台に載せられて旅立った。どういう歴史があったのか感じてほしい」と話している。青松園は1909(明治42)年に開園。山本さんによると、旧治療棟の横に解剖室があり、患者の遺体解剖をしていた。合併症を患った人や想定より長生きした人など医師の希望通りに解剖ができたといい、患者は入所時に「解剖承諾書」を書かされたという。52年に入所した山本さんも書いた。解剖をしない場合も、軽症者が遺体を台に載せて納棺の準備をした。山本さんは「21歳のころ、布切れとバケツの水で遺体をふいた。コンクリートの塊の上に載せられてモノのような扱いだった」と振り返る。引き揚げられた解剖台は長さ約2メートル、高さ約80センチ、幅約70センチ。85年ごろ、治療棟を建て替えた際に捨てられたとみられ、解剖室もなくなった。大島での芸術祭のディレクターを務める名古屋造形大学★高橋伸行准教授は、この話を聞いて引き揚げを検討。
http://gp.nzu.ac.jp/directorblog/?cat=9
「悲しい歴史があり、二度と見たくない人もいるかもしれない」と迷い、山本さんに相談した。自治会で話し合った結果、「単なる見せ物ではなく、見た人が感じるものがあれば意義があるはず」と展示することにした。解剖台は今月8日、島の西側にある岸壁付近の海中からショベルカーで引き揚げた。コンクリートが劣化していて二つに割れたが、中央の排水管なども残っていた。高橋准教授が芸術祭で進める「やさしい美術プロジェクト」は、青松園に元からある施設をギャラリーやカフェに改装、「入所者の暮らしや時間をそこに見る展示」をする。解剖台は供養をした後、元住居棟を改装した「GALLERY15」前に展示する予定。
《解剖台》談:森和男
1940年、徳島県鳴門市生まれ。9歳になる前にハンセン病を発症し、同じくハンセン病を発症していた姉、キヨコさんとともに大島青松園に入所。長島愛生園内にある岡山県立邑久高等学校・新良田教室を卒業後、大阪市立大学へ進学。大阪の商社に就職したが、体調悪化により1971年に大島に戻っている。大島青松園自治会「協和会」会長のほか、全国ハンセン病療養所入所者協議会(通称・全療協)会長も務める。
http://leprosy.jp/people/mori/
あの解剖台は療養所の古い建物の産廃を処分してもらったときに、業者がもてあまして海に棄てていったものなんです。それが砂浜に打ち上げられて、ずっとそのままになっていたんですね。釣りの餌を掘りにいったときなど、波にあらわれているのをよく目にしました。高橋先生に相談したところ、ぜひ展示として使いましょうということで引き上げることになったんですが、重機をもってきて海から引き上げたときに、まっぷたつに割れてしまったんですよ。現在展示されているのは、それを修復・復元したものです。青松園には、じつは解剖台がふたつあったんですが、もうひとつは残土を埋め立てたときに一緒に埋めてしまったんです。このあたりに埋めたという大体の場所はわかっているんですが、あれを展示するには……今度は発掘作業をしないといけないですね。
《参考》国立療養所「大島青松園史跡めぐりと史料」(1) /文:阿部安成(滋賀大学経済学部教授)
『大島療養所二十五年史』(1935=昭和10年)に記載された、年度別に書き上げられた1919(大正8)年度と1932年度の建築物のなかに「死体解剖室」がある。同書に折り込まれた「大島療養所配置図」(1934年)には、現在の治療棟のあたりに「解剖室」の記載がある。/大島では療養所に来て最初に、解剖の承諾書への署名が求められたことがあったという。また、故人を弔う夜伽を予め決めておく「籍元」という仕組みが大島にはあった。/2010年開催の瀬戸内国際芸術祭2010にさきがけて、大島の西海岸からひきあげられた解剖台が展示された。前掲『大島療養所二十五年史』の「二、二十五年史概要」の「地誌」にある項「敷地、建物、設備並人口」の「建築物其他諸設備」で年度毎に書きあげられたそのなかに、「大正八〔1919〕年度」に「死体解剖室 一棟 一〇坪五〇 一九五〔円〕、〇〇〇」、「昭和七〔1932〕年度」に「死体解剖室一棟 一二坪〇〇〇 七四六〔円〕、〇〇〇」、「昭和九〔1934〕年度」に「死体解剖室 一〔棟〕一二、〇〇〇〔坪数〕」とある(33-40ページ)。『報知大島』第26号(1933年5月15日)の「こぼれだね」欄に、「コンクリートの解剖館が完成近し「人は言ふ」あの磨き上げた解剖台、死体が生き返った様にメスから逃げるだろう」とのいくらかの怖れと揶揄がこもった文辞が載る。『昭和29年度年報/国立療養所大島青松園』の口絵写真に、「解剖室」のキャプションがついた1葉がある。背景に丘が写るその建物は、現在の治療棟のあたりにあったと聞く。ところで、在園者からの聞きとりによると、解剖台にはコンクリート製と御影石製の2台があり、前者が風の舞のしたあたりの海岸に棄ておかれていた、後者は西の浜に埋まっているという。前記のとおり、前者がセトゲイ2010にあわせて引き揚げられて展示された。籍元という仕組みについてはたとえば、『島昭和史』所収の「習俗と園内特殊語」が「籍元・祭祀世話人」でとりあげた(209-210ページ) ─当時の自治会会則第三章に、次のように記載されている。第五条 重不自由者、不自由者、少年少女のために籍元を設ける。/第六条 籍元には普通寮(軽症寮)が当たる。/第七条 籍元は在籍者の付添い、入室、転室、退室(病棟より)、転寮を助力し、葬儀に関しては所属寮長と協議し、これを司祭する。/不自由者の大事の場合の共済制度であり、“親元”みたいなものである。(中略)もとより、ひとの死と、その尊厳をめぐる事態にたいして、「重苦しい歴史と教訓」にむきあおうとする姿勢をとることは、ひととして適切な態度だともいえる。他方で、では、「目を凝らし、耳を澄ます」というとき、なにを観たり聞いたりしようとするのか。医学における必要性や科学の名においてそれを不可避とする理由が明瞭ではない解剖を批判したり非難したりする意思を保持しつつ、わたしたちは療養所における死のなにを知っているのかと自覚するところもまた手放さずにいたいとわたしはおもう。そうした問いにつながるひとつの仕組みが、「籍元」である。担い手からすればひとの死を看取るとは、かならずしも好ましくない忌避されるところもあったことだろう。とはいえ大島の療養所では、さきにみたとおり、個別の好悪にかかわらずに療養者と療養者とを ─ 一方が「不自由」、他方が自由、一方が「重症」、他方が「軽症」の療養者 ─ 結びつける仕組みがあり、それが実際にとりおこなわれていたのだった。セトゲイ2010当時、解剖台引き揚げ直後のわたしたちの聞きとりにたいして、在園者のふたりは、「セキモト制度」をおもいだしたと語った(セキモトの漢字は不明とのこと)。解剖台とセキモトとをつなげて想起した彼らの話は、それらを悲劇一色に塗りつぶしはしなかった、とわたしたちは聞いた。事由が不明な解剖は非道であり、しかしそれとともに療養所における死を悲惨とだけとらえてかたづけてしまっては、療養者の死をめぐるしきたりやそれをめぐる療養者の結合も断絶も見落としてしまうこととなる。
・・・ロートレアモン(Lautréamont)の詩にイギリス人の美少年を讃えた「解剖台のミシンと傘の偶然の出会いのように美しい」という文章があります。この文章は、フランスを拠点としたシュルレアリスム運動の芸術家たちに好まれ、特に無関係な物同士の偶然の出会いに注目されました。「令和」を迎えた今、私たちは大島の「解剖台」に何を診るでしょうか?
《作品No. os05{つながりの家}GALLERY15「海のこだま」》作:やさしい美術プロジェクト
入所者の生きた証と記憶、かつて入所者が暮らしていた「15寮」に、島に唯一遺された木造船を展示。大島の記憶と入所者の生きた証に触れられる。
《参考》日本初となる厚生労働省大島青松園と高松港を結ぶ3胴型旅客船「まつかぜ」/石田造船
http://www.ishida-zosen.co.jp/90shunen.html
・・・島での生活にとって、「船」への思いや歴史は深く・多くあるに違いありません。