・・・そろそろ大津皇子クライマックスへ。“大津皇子の遺骸は初め★本薬師寺跡に葬られ、後に葛城の二上山に改葬されました。”という記述もありましたが、裏付ける資料や情報は得られませんでした。
《万葉歌碑》本薬師寺跡/歌★大伴旅人/揮毫:黒岩重吾
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/manyoukahi/manyoukahi_16.html
忘れ草 我が紐に付く 香具山の 故りにし里を 忘れむがため 巻3-334
万葉の時代の忘れ草はヤブカンゾウのことを指しています。八重咲きのヤブカンゾウを持っていると、辛いことを忘れさせてくれると信じられていたのです。ユリ科の多年草・藪萱草(やぶかんぞう)は、夏になると赤や黄の花を咲かせます。身に帯びることで憂いを忘れることが出来たと云います。今に言う、勿忘草(わすれなぐさ)とはちょっと違うようです。大伴旅人が、九州全域を治める役所の長官・太宰帥(だざいのそち)として赴任していた60代の頃の歌とされます。都から遠く離れた大宰府で最愛の妻をも失った旅人。妻と過ごした若き日は、天香具山の麓だったのでしょう。忘れ草を着物の紐に付けよう、香具山山麓の故郷を忘れることができずに苦しみ続けているのだから・・・?
《NEWS》2019.5.12
「令和」由来の宴に謎?大伴旅人が詠んだ花は、はかない「落梅」だった
新元号「令和」の由来となった万葉集の「梅花の宴」。奈良時代の天平2(730)年に高官らを自邸に招いて宴を開いた太宰府の帥(そち、長官)、大伴旅人が詠んだ歌が気になる。〈我が園に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも〉不思議なのは、満ち足りた正月の祝宴なのに季節外れの「落梅」が詠まれ、はかなさが漂っていることだ。万葉集は、梅花の宴で詠まれた「梅花の歌」32首をのせる。「令和」の元号はその序文に記された〈時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ…〉という満ち足りた情景から採られた。宴が催されたのは「正月13日」。現在の暦だと2月初旬にあたる。梅の見頃を伝える「咲く梅」の歌が続くが、7番目の旅人の歌で唐突に「落梅」が詠まれる。〈我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも〉8番目の大監(太宰府役人)は、旅人の歌を受けてこう詠んだ。〈梅の花散らくはいづくしかすがにこの城(き)の山に雪は降りつつ〉どこに梅の花が散っているのだろうと思って見渡すと、近くの城の山に梅ならぬ雪が降っているという歌で、実際には梅は散っていなかったことを伝えているようにも読める。「不思議なことに旅人の歌には、正月の祝宴の華やかさとは場違いな寂しさが漂う。その理由を解く鍵となるのが、宴の前年に起きた★『長屋王の変』です」元建設省河川局長で古代史研究家の尾田栄章(ひであき)さん(77)はそう解説する。長屋王の変は、現代の閣僚にあたる議政官(左右大臣、大中納言、参議)筆頭の左大臣・長屋王が「ひそかに国家を傾けようとしている」という密告を受け、妻子とともに自死に追い込まれた重大事変だ。続日本紀に密告は「誣告(ぶこく、虚偽告訴)」だったと記され、聖武天皇の夫人・藤原光明子(こうみょうし)の立后を図る藤原氏の陰謀だったとする考えが定説になっている。尾田さんは、奈良時代に灌漑池などの土木事業を進めた僧・行基(ぎょうき)と朝廷の関わりを論じた『行基と長屋王の時代』を平成29年に発刊。長屋王政権と藤原氏の対立関係についても踏み込んで記している。晩年の天平17(745)年には僧の最高位・大僧正に任命された行基だが、50歳だった養老元(717)年には、僧尼令に背いて寺院の外で民衆教化をしたとして、議政官筆頭、藤原不比等の逆鱗に触れた。朝廷の詔で「小僧行基」という蔑称で非難されたという。しかし、尾田さんによると、養老4(720)年に不比等が没し、長屋王が議政官筆頭に就くと状況は一変。翌年頃、行基は平城京の一等地に菅原寺(喜光寺)の建立が許される。「行基と長屋王は早い時期から協力関係を築き、養老2(718)年に同時に議政官となった長屋王と旅人は、ともに政策を練り上げたと考えられます」こうした長屋王政権の施策を敵視したのが、当時は旅人と同じ中納言の地位にいた不比等の長男・武智麻呂(むちまろ)だと尾田さんは指摘する。(以下略)
《NEWS》2018.6.27産経デジタルより
ホテイアオイの苗、児童が植え付け/奈良・本薬師寺跡の水田
奈良県橿原市の本薬師寺跡の水田で26日、市立畝傍北小学校の2年生48人が水草のホテイアオイの苗を植え付けた。同寺跡をPRしようと、地元の農家でつくる城殿町霜月(しもつき)会が約20年前から、一帯の水田約1・4ヘクタールでホテイアオイを植えており、小学生も約10年前から作業を手伝っている。児童らは水着姿で水田に入り、根から水面に落ちるように苗を投げ、植え付けた。8月下旬~9月下旬には、紫色の美しい花を付けた約1万4千株のホテイアオイが見られるという。参加した子どもは「植え付けは楽しい。きれいな花をみんなに見てもらいたい」と話していた。
・・・本当に、ありがとう。
《参考》ホテイアオイ(布袋葵)
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/hanadayori/hoteiaoi.html
花が美しい水草なので、日本には明治時代に観賞用に持ち込まれた。路地での金魚飼育などの場合、夏の日陰を作るのによく、またその根が金魚の産卵用に使えるので便利である。
世界の熱帯・亜熱帯域に帰化し、日本では、本州中部以南のあちこちで野生化している。寒さに弱く、冬はほとんど枯れるのだが、一部の株がわずかに生き延びれば、翌年には再び大繁殖する。繁殖力が強く、肥料分の多い水域では、あっという間に水面を覆い尽くし、水の流れを滞らせ、水上輸送の妨げとなり、また漁業にも影響を与えるなど日本のみならず世界中で問題となっていて、「青い悪魔」と呼ばれ恐れられている。冬季に大量に生じる枯死植物体も、腐敗して環境に悪影響を与える。さらに、水面を覆い尽くすことから、在来の水草を競争で排除する事態や水生動物への影響も懸念される。また、アレロパシーも有する。このため、国際自然保護連合(IUCN)種の保全委員会が作成した 世界の侵略的外来種ワースト100(100 of the World's Worst Invasive Alien Speciesに選ばれている。ただし、日本ではホテイアオイは特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律において、特定外来生物には指定されていない。
・・・もちろん美しいのですが、以上のことも知った上で観賞・飼育しましょう。さて、非業の死を遂げた大津皇子が最初に葬られた地は★不明ですが、おそらく皇子にふさわしくないお墓だったことでしょう。その後、二上山に移されたということですが、
《NEWS》2014.9.6産経新聞「なら再発見」第90回より
http://www.stomo.jp/3k_kiji/3k140906.html
二上山麓 悲劇の大津皇子に思いはせ
二上山は大阪と奈良の県境にあり、雄岳(おだけ)と雌岳(めだけ)の二つの峰が印象的な山だ。古くは「ふたかみやま」とも呼ばれ、聖なる山として万葉の時代から崇(あが)められてきた。古代の大和では、死者の魂は二上山の彼方(かなた)へ去り、そして三輪山からの日の出とともに生まれ変わると信じられてきた。二上山は、悲劇の皇子と称される大津皇子の鎮魂の場所だ。天武天皇の皇子の中で、皇位継承の有力候補は天智天皇の娘である大田皇女(おおたのひめみこ)を母とする大津皇子と、その実妹・鵜野(うのの)皇后(後の持統天皇)を母とする草壁(くさかべの)皇子であった。大田皇女はやがては皇后となる可能性があったが、大津皇子の幼少期に死去してしまう。そのため大津皇子は後ろ盾が乏しかったが、日本書紀や懐風藻(かいふうそう)の記述によると、文武両道に優れ、人望も厚かったという。わが子を皇位につけたいと切望する鵜野皇后にとって、大津皇子は目の前の巨大な障壁と感じたに違いない。天武天皇が亡くなるや否や、皇后は大津皇子に謀反(むほん)の罪を負わせ葬り去ったとの説が伝わる。日本書紀によると、686年10月2日に謀反の疑いで、大津皇子と加担者30余人が捕えられた。処分は早く、翌日には皇子は磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)(現在の桜井市戒重)の自宅で、24歳の若さで死を賜(たまわ)った。一方、加担者は一部を除きみな許された。大津皇子の重罰にくらべ、加担者に対する余りにも寛大な対応から、仕組まれた陰謀(いんぼう)だったという疑惑が浮かぶが、全ては闇の中で知る由もない。しかし草壁皇子は即位することなく2年後に28歳の若さで死去してしまう。鵜野皇后の落胆はどれほどのものだっただろうか。大津皇子の姉・大伯(おおくの)皇女が弟の死を歌に残している。うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と 我が見む (巻2-165)この万葉歌には★「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)る時、大伯皇女の哀しみ傷(いた)む御作歌(みうた)」という題詞(だいし)が付けられている。「移し葬る」という言葉が、皇子の遺体を二上山に改葬したことを物語る。現在、雄岳山頂には宮内庁が管理する大津皇子の墓がある。一説によると、この場所に決定されたのは、大伯皇女の歌を参考にしただけで、根拠はないという。いくら皇族とはいえ、奈良盆地のどこからでも見える二上山の頂上に反逆者と目された人物の墓を築造することは常識的にはあり得ないだろう。大津皇子の死から3年後に草壁皇子が亡くなったため、怨霊をおそれた持統天皇がそのように取りはからったのではないかといわれている。★『薬師寺縁起』には、大津皇子の霊が二上山で悪龍となり、皇子の師であった義淵が祈祷で鎮めた経緯が記されているが、悪龍鎮まれど怨霊封じられず、河島皇子が草壁皇子の死の2年後に世を去っている。二上山山麓に★鳥谷口(とりたにぐち)古墳という古墳時代終末期(7世紀後半)の古墳がある。この古墳こそが大津皇子の本当の墓だとの説が有力だ。石室は成人を埋葬したとは思えない小空間であり、火葬墓または改葬墓の可能性が高い。しかも石室の石の一部には石棺の蓋石(ふたいし)が転用されており、特異なつくりの墓だ。大津皇子の祟(たた)りを恐れて、大急ぎで石棺を転用した石室を作り改葬したのだろうか。そんな思いでこの古墳を眺めると、鳥谷口古墳こそ大津皇子の改葬墓としてふさわしく思えてくる。大津皇子に思いをはせながら、鎮魂の舞台となった二上山麓を散策されてはいかがであろうか。奈良まほろばソムリエの会ではウオーキング・ツアー「まほろばソムリエと巡る大和路」を実施している。大津皇子を偲んで鳥谷口古墳を訪れる「當麻ロマン街道」など全10コースが用意されている。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会・露木基勝)
《當麻山口神社》
639-0276奈良県葛城市當麻1081/0745-48-2214
http://www.taimayamaguchi-jinja.org/
神名帳に「人皇55代文徳天皇仁寿3年(853年)、夏4月、冬11月これを祀る」とあり、祈年祭、新嘗祭、月次祭には幣帛※が奉納され、特に祈年祭には幣帛と共に、馬1匹が加えられて奉られていました。三代実録には清和天皇の貞観元年正月27日(859年)に当神社に正五位を贈られ、天皇からの遣いが参向して幣帛奉納とあり神社縁起の上からもまことに古い歴史をもつ由緒深いお社といえます。摂社、當麻都比古神社の祭神、麻呂子皇子は第31代用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟にあたり、當麻氏の先祖とされています。當麻寺を創建したこの地の豪族當麻氏の氏神として男女二神をお祀りしています。延喜式神名帳に式内小社と記載されています。
《傘堂》(県指定有形民俗文化財)
https://nara-jisya.info/2018/12/12/%E5%82%98%E5%A0%82/
真柱一本で宝形造木瓦葺の屋根を支える独特の姿から傘堂と呼ばれます。部材は総欅作りで、真柱東側上部には阿弥陀仏を納骨し、北側軒下には梵鐘が吊り下げられていました。この建物は江戸時代(1674年)、郡山藩主本多政勝候の菩提をとむらうためにその影堂として、家臣やこの地域の農民たちによって建立されました。また、いつの頃からか、安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。伝えでは★左甚五郎の作といわれています。
《鳥谷口(とりたにぐち)古墳》
皇子とはいえ、朝廷に対して謀反の罪で死罪となった者を山頂に葬ることが不自然ではないかという疑問はあった。1983年に土砂の採掘をしていてこの古墳が発見され、山頂の大津皇子墓の真偽が話題になった。一辺約7.6mの方墳で、横口式の石室を持つ。内部出土品はなかったが、周囲から出土した土器から7世紀後半の古墳と断定された。しかしその石室は狭く、大人の棺が入りきらない、納骨のためだけの奇妙な墓なのだ。しかも、石室を形作る各石は、家型石棺の蓋の未完成品を転用した寄せ集めという異様なものである。だが、規模は小さくても格がある凝灰岩を使っている。また、二上山「上」や「麓」に他に古墳はない、★孤立した寂しい古墳なのである。大津皇子伝説にいかにもふさわしい墓跡だと言ってよい。大津皇子が亡くなって3年後、持統天皇の実子草壁皇子が急逝した。時期天皇となるはずだった草壁皇子の突然の不幸は母に大津皇子の祟りと恐れさせたのかもしれない。そのため、大津皇子の再葬を行っている。693年、持統天皇は草壁皇子の子の軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させた。しかし、25歳の若さで崩御された。これも謀反の罪で自害させられた大津皇子の祟りと恐れられた。薬師寺には大津皇子を祭神とする若宮社がある。古図を見ると薬師寺の西塔より西にあることから、摂社龍王社はそこから現在地に移転したと考えられる。薬師寺「龍王社」には、大津皇子の霊を鎮魂するため室町時代に造られたとされる「伝大津皇子坐像」が安置されていた。
・・・ますます謎は深まるばかり、「二上山」の魅力も増すばかりです。