風の王国(21)大津皇子4 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《懐風藻》

奈良時代の漢詩集。1巻。淡海三船(おうみのみふね)の撰ともいうが、撰者未詳。天平勝宝3年(751)成立。近江朝以後、約80年間、64人の漢詩120編を年代順に集めた、日本最古の漢詩集。

★大津皇子(4首)春苑言宴/朝猟/述志/臨終

「金烏臨西舎、鼓聲催短命。泉路無賓主、此夕離家向。」(辞世の詩)

 

 

《参考》大津皇子「臨終一絶」と陳後主「臨行詩」/文★金文京(京都大学)

http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/zinbun/members/kin.htm

漢詩集『懐風藻』に書かれた漢詩群については、一般的に「南北朝」時代の「古典的」な部分の影響を強く受けているとされ、「中国六朝時代の古詩の★模倣が多く、いかにも黎明期の漢詩」という傾向が見て取れるとされます。大津皇子の「臨終」ときわめて類似した詩が、中國及び朝鮮の複數の人物の「臨刑詩」として、十世紀から二十世紀に至るさまざまな文獻に掲載されています。

★陳後主「鼓馨推(推)命役(短?)/日光向西斜/黄泉無客主/今夜向誰家。」(釈智光撰『浮名玄論略述』より)

 

 

《訳語田(おさだ)》春日神社「訳語田幸玉宮」伝承地(桜井市戒重)

★大津皇子邸宅跡/633-0064奈良県桜井市大字戒重557番

http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/rekishi/kashiramoji/agyo/1395277904482.html

春日神社は桜井市戒重の国道169号線沿いに鎮座しています。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)・天太王命(あめのふとたまのみこと)・武甕槌命(たけみかずちのみこと)・比売神(ひめのみこと)。本殿、拝殿は西面し拝殿に向かって左側の一画に境内社の稲荷社、琴平社、兪詛社があり、右前方に繁森社を祀っています。またこの神社は敏達天皇の訳田幸玉宮の宮跡ではないかとの説があります。 訳田幸玉宮跡については、この神社付近(戒重説)と桜井市太田付近(太田説)の二説があります。 太田説については「大和志」などで太田地区にある天照御魂檸社を、式内大社「他田坐天照御魂神社」とするところからきています。一方、戒重説については、「扶桑略記」「帝王編年記」に磐余訳田宮とあり、磐余地域であった事を示し、戒重村はかって他田(おさだ)庄と呼ばれ、小字の和佐田(わさだ)は明治以前は他田(おさだ)で春日神社もかって他田宮(長田宮)と呼ばれていたことから、戒重を訳語田宮とする考えが有力です。この宮は後に悲劇の英雄とされた★大津皇子の邸宅となり、持統天皇による刑の宣告を受けたところでもあり、更に玉井西阿が興国2年(1341)に開住城を築き、楠木正成なき後の南朝を守る重要な基地だったといわれています。

http://www.city.sakurai.lg.jp/miyaato/jp/detail08.html

 

 

《大津皇子「辞世の歌」》磐余(いはれ)

http://www.pref.nara.jp/item/161206.htm

大津皇子、死を被(たまわ)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首

「万葉集第3巻416番」

ももづたふ★磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ

 

《磐余の池》

http://www.city.sakurai.lg.jp/kanko/rekishi/kashiramoji/agyo/1395271677293.html

日本古代にヤマト王権が磐余の地に造営させたとされる池。「磐余市磯池」(いわれいちしのいけ)とも言う。現在の奈良県★桜井市池之内から★橿原市池尻の地に存在したと推定されている。、『日本書紀』巻第十二に、履中天皇2年11月に築造されたことが記述されている。続けて、3年の冬に、同天皇が両俣船(ふたまたぶね)を浮かべて、皇后の草香幡梭皇女と分かれて遊宴をした折りに、天皇の盃に季節外れの桜の花が紛れ込んだため、宮の名前を「磐余稚桜宮」としたことが述べられている。磐余は、5世紀から6世紀にかけてのヤマト王権の政治的要地で、上述のように皇居が置かれてきた場所でもあり、「磐余池」も歌枕とされてきた。

 

 

《NEWS》2011.12.15日本経済新聞より

万葉集に登場「幻の池」か/奈良で6世紀のダム遺構、大型建物跡、用明天皇と関連指摘も

6世紀に築造されたダム式ため池の堤の遺構が奈良県橿原市で見つかったと同市教育委員会が15日、発表した。これまで日本最古とされていた★狭山池(大阪府大阪狭山市、7世紀前半)より古く最古のダム遺構となる。日本書紀や万葉集にその記録があるものの、所在地が不明で幻の池ともいわれた「磐余池(いわれいけ)」跡との説が有力だ。古代の土木技術を知る貴重な史料であるとともに、謎の多い古墳時代の飛鳥周辺の様子を探る上で注目を集めそうだ。遺構が見つかったのは天香久山の北東1.1キロ。小丘陵を発掘したところ、粘土などを積み重ねて堤を造成した跡を長さ80メートルにわたって見つけた。堤の規模は推定で全長330メートル、幅20~55メートル、高さ3メートル以上。谷を塞いで川の水をせき止め、南北600メートル、東西700メートルに及ぶ広大な池を造ったとみられる。堤の上では大型建物跡(東西約4メートル、南北17メートル以上)や、朝鮮半島から伝わった技法を用いた建物跡などを発見。柱穴から6世紀の土器が出土しており、堤はそのころに造られたとみられる。市教委は「池には鑑賞や遊宴、灌漑(かんがい)などの役割があった」と推察。造成には渡来系氏族が関わった可能性がある、としている。大型建物跡については聖徳太子の父、用明天皇(6世紀)が池のほとりに建てた「池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)」との関連を指摘する見方も出ている。調査地一帯はかつて磐余と呼ばれ、履中天皇や継体天皇が宮殿を置いたとされる。日本書紀などには「磐余池」を造成したり「磐余市磯池(いちしのいけ)」に船を浮かべて遊宴したりした記録が残る。7世紀、謀反の疑いで刑死した★大津皇子の「ももづたふ磐余池に 鳴く鴨を今日のみ見てや 雲隠りなむ(磐余池で鳴く鴨を見るのも今日限りだなあ 私は死んでいくのだ)」との辞世の歌にも詠まれ、万葉集に収録されている。

 

《NEWS》2014.3.7産経WESTより

奈良・橿原の磐余池(いわれいけ)12世紀後半に埋め立て、水田に改変か

日本書紀にも登場する人工池「磐余池(いわれいけ)」跡とされる奈良県橿原市の東池尻・池之内遺跡で、池の堤が12世紀後半に埋め立てられていたことが分かり、市教委が7日、発表した。鎌倉幕府の成立時期にあたるため、市教委は「池も水を抜かれて、水田に変わった可能性がある」としている。池は自然の地形を利用して造成されたとみられ、市教委は東西方向に延びる全長約300メートルと推定される堤のうち、東側の約20メートル部分を調査。その結果、12世紀後半、堤が高さ2メートル以上の盛り土で大規模に埋め立てられていたことが判明。堤を壊して井戸が造られていた跡も確認した。日本書紀によれば、磐余池は履中天皇が5世紀前半に築造した。池のほとりでは、聖徳太子の父・用明天皇が池辺双槻宮を営んだとされる。現地説明会は行われないが、16日までフェンス越しに現地を見学できる。

 

 

《NEWS》2015.3.10産経WESTより

日本書紀に登場「磐余池」は推定地ではなく若桜神社西側付近!?奈良県立図書情報館の千田稔館長が新説

日本書紀に記され、池の近くに用明(ようめい)天皇の池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)などが築かれたとされる「磐余池(いわれいけ)」の場所について、奈良県立図書情報館の千田稔館長(歴史地理学)が、古文書の記録や米軍が終戦直後に撮影した写真などから、同県桜井市谷の若桜神社西側付近にあったとする考え方を、同県斑鳩町で開かれた講演会で明らかにした。磐余池の場所については、用明天皇時代の6世紀後半ごろの人工の堤の遺構や、それ以前の建物跡が見つかった同県橿原市東池尻町付近の「東池尻・池之内遺跡」とする見方が通説。だが千田館長は「古い時代の池跡だが、磐余池と証明できていない」としている。若桜神社は桜井駅の南約500メートル。日本書紀履中(りちゅう)2年11月の条には「磐余池をつくる」という記録があり、履中天皇の宮(宮殿)は磐余稚桜(わかざくら)宮とされる。用明天皇の池辺双槻宮もこの池のそばにあったとみられ、磐余池は古代では有名な池だった。千田館長は講演で、平安時代の公式文書の延喜式(えんぎしき=政府がつくった法律を施行するための規則集)をもとに、「履中天皇の磐余稚桜宮の跡に若桜神社が創祀(そうし)されたと考えられる」と説明。遺構は見つかっていないが、米軍が終戦直後に撮影した航空写真では「若桜神社の西側に池の堤の痕跡とみられるラインが観察できる」としており、「一帯に磐余池があったと考えられる」とした。また、千田館長は桜井市戒重付近★(若桜神社の北西側)に住まいがあったとされ、謀反の罪で刑死する大津皇子の挽歌が磐余池の堤で詠まれていることをあげ、「池の場所が若桜神社の西側付近であることを補強する材料だ」とした。千田館長は約30年前から、磐余池が若桜神社の西側付近であると著書などで主張。「池の場所はかつて、『どろどろした状況だった』という言い伝えがあり、馬の蹄(ひづめ)のような形だった可能性がある。今は都市化で見えなくなっているが、若桜神社の西側にれっきとした池があったと思う」と述べた。

 

《若桜神社》

633-0053奈良県桜井市谷344

https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E5%90%8D%E6%89%80-%E5%8F%A4%E9%81%93%E5%88%A5/%E7%A3%90%E4%BD%99%E3%81%AE%E9%81%93-%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%96%87%E6%AE%8A%E9%99%A2%E3%81%BB%E3%81%8B/%E8%8B%A5%E6%A1%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE/

桜井駅から南へ歩いて約10分、大字、谷の小さな丘陵上に位置します。(前方後円墳の後円部に建立されていると言われています)本殿には東殿(若桜神社)と西殿(高屋安部神社)がありますが、この場所は元々、若櫻神社の鎮座地で、高屋安部神社は安倍松本山(安倍文殊院の東)にあったのですが、近世(18世紀以前?)に山崩れで社殿が大破しここに遷座したといわれています。若桜神社は若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神といわれる伊波我加利命(いわがかりのみこと)を祭神とし、『大和志』には「在桜井谷邑 今称白山権現」とあり『延喜式』神名帳城上郡の若桜神社に比定されますが、大字池ノ内の稚桜神社とする説もあります。また高屋安倍神社は『延喜式』神名帳に登載されている名神大社で、祭神は屋主彦太思心命(やぬしひこふとしたまのみこと)・大彦命(おおひこのみこと)・産屋主思神(うぶやぬしおもひのかみ)の三座で、名神大社として崇敬され天慶三年(940年)頃までの記録はあるようですが、その後、歴史上消息を絶っています。又、この地を履中天皇★磐余稚桜宮跡に充てる説もあり、書記に履中天皇が皇后と磐余の市磯池(いちしのいけ)で遊宴中に、桜の花が盃に落ちた事を天皇は珍しい事と喜ばれ、この桜のあった御所の掖上の桜を清水湧き出る泉のそばに植えられ、宮の名前も磐余稚櫻宮にされたといい、★桜井という名はここからきているといわれています。この井戸といわれるものは、当神社のすぐ近くにありますが近年、若櫻神社にも復元されています。

 

・・・いろいろな説があって迷ってしまいますが、本当におもしろいですね。