・・・やっぱり「長屋王」も気になりますので、ちょっと「平群町」へ。
《平群町》
古代の大和国平群郡平群郷の地である。古代豪族★平群氏の本拠地であり、平群神社、平群坐紀氏神社、平群石床神社などの延喜式内社が鎮座するのをはじめ、古墳64基が散在する。信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺も町域に属する。中世後期には、しばしば大和国を動かす中心地となる。1536年(天文5年)に木沢長政が信貴山城を築城、後に大和に入った松永久秀もこれを補修して居城とし、大和攻略の拠点とした。久秀の滅亡後は城は廃城とされている。
・「へぐり」とは、「大和の辺郡(へぐに)」で、「へぐに」が「へぐり」に転じた。【奈良の地名由来辞典 池田末則 東京堂出版】
・「へ(縁)」+「くり(崩壊地名)」であろう。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】
・「へくに(辺国)」を語源とし、大和国の端に位置することに由来する。
・平群(へぐり):奈良県生駒郡平群町。弊遇利・弊具理・平涼・平などとも書く。竜田川中流域から下流域にかけて位置する。西の生駒山地、東の矢田丘陵に挟まれた平群谷を中心とする地域で、大和川を南限とする。ヘグリの語義は辺国(へぐに)で、平群谷を形容した意であるとか、重抉(えぐり)の意などとされる。「たたみこも へぐりのやま」、「やえだたみへぐりのやま」など、重なり合う山々の美しさが称えられてきた。
・平群(へぐり):「辺(端)」にある郡(こおり)のこと。【地名苗字読み解き事典 丹羽基二 柏書房】
《平群氏》
●「古事記」の孝元天皇段では★葛城臣、蘇我臣、波多臣、巨勢臣、紀臣などとともに、建内(武内)宿禰の後裔氏族と伝えている。このうち紀臣を除けば、いずれも大和平野に居住する臣姓の豪族である。
●「日本書紀」は仁徳紀に平群氏の祖である木菟(つく)宿禰(平群木菟)が★仁徳天皇と名を交換したとあり、また履中朝に至り国事にあずかるようになったと記している。「日本書紀」所伝によると、応神朝から軍事氏族としての活躍が見え、履中朝に平群木菟宿禰が国政に携わるようになった。★葛城氏没落後の雄略朝以降、木菟の子の真鳥(まとり)が「大臣」を歴任して一族の興隆を極めた。しかし、仁賢天皇の崩後、真鳥大臣は日本国王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられ、稚鷦鷯太子(後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)は誅殺されたという(498年)。 これ以後、平群氏の氏人はしばらく『書紀』から姿を消すが、用明天皇2年(587年)の物部討伐将軍として神手(かみて)の名が見え、この頃までに大夫選任氏族としての地位を得ていた。同13年(684年)10月の八色の姓施行に伴い、改めて朝臣姓を賜る。奈良時代には広成などの官人を輩出したが、その後は没落した。
《参考》葛城氏の特徴
5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は★仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに★「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。
《本薬師寺》
634-0033奈良県橿原市城殿町279
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/spot/motoyakushiji.html
本薬師寺は西暦680年(天武9)、★天武天皇が皇后(後★持統天皇)の病気が治ることを祈願(して発願した寺で、西暦698年にほぼ完成、藤原京の四大寺の1つに数えられています。伽藍配置は、金堂の前面に東西2つの塔を配置した薬師寺式と呼ばれる伽藍配置で、現在、西ノ京にある薬師寺と同じ伽藍配置となっています。また寺域は、藤原京の右京八条三坊の全域が寺域であり、造営に当たっては、寺域を東西に分けていた西三坊坊間路を埋め立てたことがわかっています。★『薬師寺縁起』には、養老2年、平城京に伽藍を移すとあり、本薬師寺は、平城京遷都に伴い奈良に移りますが、建物や三尊の仏像も全て平城京に移ったのかという点が長い間、問題となっていました(薬師寺論争)。発掘調査の結果、
1.金堂や塔の規模や配置は平城京の薬師寺と変わらない
2.裳階(もこし)の礎石は残っていないが、小さな軒瓦などが出土していることから、金堂・塔ともに裳階付きの建物であったこと
3.奈良・平安時代の瓦が出土したことから、伽藍は修理されつつ、平安時代まで存続したこと
4.創建(そうけん)時に葺かれた瓦が大量に出土したこと、が明らかとなりました。
つまり、平城京の薬師寺は、藤原京の薬師寺(本薬師寺)を移築したものではなく、本薬師寺に倣って造られたことが確定したのです。しかし、本薬師寺の三尊がどのようなものであったのかは依然、不明のままです。
《本薬師寺》
634-0033奈良県橿原市城殿町279
https://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/spot/motoyakushiji.html
本薬師寺は西暦680年(天武9)、★天武天皇が皇后(後★持統天皇)の病気が治ることを祈願(して発願した寺で、西暦698年にほぼ完成、藤原京の四大寺の1つに数えられています。伽藍配置は、金堂の前面に東西2つの塔を配置した薬師寺式と呼ばれる伽藍配置で、現在、西ノ京にある薬師寺と同じ伽藍配置となっています。また寺域は、藤原京の右京八条三坊の全域が寺域であり、造営に当たっては、寺域を東西に分けていた西三坊坊間路を埋め立てたことがわかっています。★『薬師寺縁起』には、養老2年、平城京に伽藍を移すとあり、本薬師寺は、平城京遷都に伴い奈良に移りますが、建物や三尊の仏像も全て平城京に移ったのかという点が長い間、問題となっていました(薬師寺論争)。発掘調査の結果、
1.金堂や塔の規模や配置は平城京の薬師寺と変わらない
2.裳階(もこし)の礎石は残っていないが、小さな軒瓦などが出土していることから、金堂・塔ともに裳階付きの建物であったこと
3.奈良・平安時代の瓦が出土したことから、伽藍は修理されつつ、平安時代まで存続したこと
4.創建(そうけん)時に葺かれた瓦が大量に出土したこと、が明らかとなりました。
つまり、平城京の薬師寺は、藤原京の薬師寺(本薬師寺)を移築したものではなく、本薬師寺に倣って造られたことが確定したのです。しかし、本薬師寺の三尊がどのようなものであったのかは依然、不明のままです。
・・・さて、平城京の「薬師寺」へ。
《薬師寺「南門」》
薬師寺の金堂や東西塔が位置する「白鳳伽藍」の南端に設けられた薬師寺の山門です。南門の北側すぐにはそれ以上の規模を持つ真新しい★「中門」が建っており、南側から見ると門が二重に建つ形となっています。昭和以降の勢いのある復興事業によって多数の建築が再建された薬師寺は、その規模に比べると昔から残された建築物は少なくなっており、国宝に指定されている建築は東塔・東院堂、また重要文化財に指定されている建築は境内社の若宮社、また境内の南側にある「八幡神社」社殿、そしてこの「南門」のみとなっています。数少ない近現代以前の「薬師寺」の面影を残す南門は、室町時代の永正9年(1512)に建立された四脚門であり、かつては★「西門」として機能していましたが、現在の南門の位置にあった「南大門」が焼失したこともあり、その礎石上に移設されてきた存在となっています。すなわち、元から小さな「南門」と大きな「中門」という構図であった訳ではなく、この場所には中門以上に巨大な「南大門」がかつては堂々とそびえ立っていたということになります。
《薬師寺「龍王社」》
薬師寺の白鳳伽藍の南東端、境内では珍しく穏やかな佇まいを見せる「東院堂」の南側に隣接。訪れる人も少なく、知名度は決して高くはない存在ですが、現在奈良国立博物館の所蔵となっている金色の「龍神像」をかつてはお祀りしていたほか、龍神信仰のみならず天武天皇の皇子であり、謀反の疑いを掛けられて自害することになった悲劇の存在として歴史に伝わる存在である★「大津皇子」の怨霊、「悪龍」となった皇子を鎮めるための「大津龍王宮」としても機能していたとも言われ、大津皇子に少なからずゆかりのある薬師寺における「関連スポット」の一つとなっています。なお、例祭(龍王社祭)は毎年7月26日14時から実施され、こちらは周辺地域の方々の参列の下行われる五穀豊穣をお祈りする祭事となっています。
《薬師寺「若宮社」》
薬師寺白鳳伽藍の南西端、西側の回廊沿いにその他の境内社である「弁財天」や「平木大明神」などと共に鎮座する小さな神社です。境内社の中では東に徒歩2分ほどの位置にある「龍王社」と並ぶ規模を持つ若宮社は、小さいながらも鎌倉期~南北朝時代にかけての造立と考えられている立派な社殿建築(重要文化財)を持ち、その「龍王社」と同様に天武天皇の皇子であり、謀反の疑いを掛けられて非業の死を遂げた★「大津皇子」ゆかりの神社、大津皇子をご祭神としてお祀りする神社とも考えられています。大津皇子は後世には「怨霊」伝説に関わる存在として鎮魂の対象となりますが、そのような役割を反映してか、龍王社が白鳳伽藍南東端に、そして若宮社が南西端に左右対称に建つ形となっており、御霊を鎮めるための因縁を感じさせる空間配置となっています。
《大津皇子の変》
★「懐風藻」では、大津皇子は新羅僧行心より、「あなたの骨相が人臣としての人相ではなく、このまま長く臣下の位にあれば、必ず非業の死を遂げるであろう」と告げられ、これを機に謀反計画を練り始めたといいます。また★河島皇子が朝廷にその計画を密告したと書かれています。
★「日本書紀」によれば、9月9日に天武天皇が崩御されると、24日南庭で殯をし、発哀したとき、大津皇子が草壁皇太子に謀反を企てたと書かれます。10月2日には謀反の疑いで大津皇子が逮捕され、翌日3日には★訳語田(おさだ)の舎(いえ)で早くも殺されたのです。30数名逮捕されたといいますが、舎人の礪杵道作(ときのみちつくり)と新羅沙門行心(しんらのほうしこうじん)がそれぞれ伊豆と飛騨に流されただけで他は皆ゆるされました。
★「万葉集」は、大津皇子が伊勢齋宮の姉★大伯皇女に秘かに会っていたことを伝えています。
★「日本書紀」は、あまりのことで吃驚した妃★山辺皇女が「髪を乱し、走り出し殉死した」とその悲劇を伝えています。