《薬師寺「天武忌」》
https://www.nara-yakushiji.com/event/tenmuki.html
薬師寺創建を発願された第40代天武天皇は朱鳥あけみどり元年(686)9月9日、56歳で崩御されました。薬師寺では★「小倉遊亀」画伯にご奉納頂いた天武天皇・持統天皇・大津皇子の御絵像を食堂内にお祀りし、天武天皇のご遺徳を偲ぶ「天武忌」を厳修致します。
天武天皇の殯宮儀礼がはじまるその日に、皇位継承争いに敗れ去った大津皇子。薬師寺で行われている「天武忌」において、天武天皇、持統天皇のみならず大津皇子の供養がなされるのはそのためである。持統天皇は、草壁皇子(日並皇子)にどうしても皇位を継承させたかった。そのこともあって、死に追いやられた大津皇子を、薬師寺では手厚くお祀りしているのである。「薬師寺縁起」の大津皇子伝承に基づくものであるが、敗れ去りし人びとをも祀ることによって、その加護を願う宗教心意が働いているのであろう。花会式においても、大津皇子は「大津聖霊」として大切に祀られている。非業の死者を追善することは、日本の宗教文化の特質の一つである。『万葉集』には、皇位継承争いに敗れ去った有間皇子や大津皇子、さらには長屋王の挽歌も多く収載されている。時が経つと日本人は彼我の区別なく、追善供養をするようになる。むしろ、非業の死者の怒りの気持ちを鎮め、逆にその力によって加護を求めようとする心意も存在するようである。これは、日本の宗教文化に受け継がれた伝統でもある。
・・・奈良そごう美術館の開館一周年を記念して開催された「小倉遊亀」展。展示されていた持統天皇・天武天皇・大津皇子の三像を描いた絵は、その後「薬師寺」に寄贈されたわけですが、
《奈良そごう美術館》(奈良市美術館)
630-8012奈良市二条大路南一丁目3番1号/0742-30-1510
奈良そごう5階に1989年(平成元年)10月2日、同百貨店開業と同時に開館した美術館。そごうグループが破綻し、2000年(平成12年)12月25日に奈良そごうが閉店するに先んじて、前日の12月24日に閉館した。その後、この建物にイトーヨーカドー奈良店が2003年(平成15年)7月10日に開業し、同年10月2日イトーヨーカドー奈良店5階に「奈良市美術館」がオープン。しかし、2017年9月10日にイトーヨーカドー奈良店は閉店した。2018年4月、ミ・ナーラ(M!Nara)としてオープンした。
イトーヨーカドー閉店後一ヶ月経ち、モンベル、島村楽器が再オープンした。新施設名は仮称「奈良平城プラザ」とされていたが、公募・審査により「ミ・ナーラ」と決定し、2018年4月24日にオープンした。「ミ」には「美しい」「観る」「実り」「味わう」「未来」「皆で」の六つの意味を込めている。店内には食料品店や雑貨店など約70店舗が入居、4階の室内型テーマパーク「奈良祭都」には忍者ショー忍者体験が楽しめる「NINJA TOWN」や大和郡山市の特産にちなむ「金魚ミュージアム」、6階の1/3ビアガーデンは地産地消の食材にこだわり、7階には宿泊施設もある。また5階と6階の2/3にはラウンドワンが入居する。
https://www.mina-ra.com/shop/index.jsp?bf=1&fmt=6&shopid=50210
新しい商業施設「ミ・ナーラ」がオープンし、館内の奈良市美術館もリニューアル。奈良市観光大使のAKB48 チーム8 奈良県代表の大西桃香さんにもご来館いただきました。
●奈良市制120周年記念 奈良市美術館再オープン記念展「奈良とベルサイユ~悠久の美を求めて~」
前期「奈良百景展」平成30年4月24日(火)~5月6日(日)
後期「ベルサイユ百景より大石良太作品展」平成30年5月11日(金)~27日(日)
基本的には所蔵品はなく、年に数回開催される企画展以外は基本的に市民ギャラリーとして開放しています。
《参考》「奈良そごう」設計:奥村組
https://www.okumuragumi.co.jp/works/jisekisyu/indexc7.html
奈良そごうは、そごうの創業者・十合伊兵衛の出身地ということもあって、グループ各社の中でも豪華絢爛を極めていた。各フロアには大理石や絨毯を敷き詰め、国内外の有名ブランドを誘致。1階フロアの中央には、法隆寺の夢殿を模した★「浮夢殿」を設置。博物館法に基づく★美術館まで設けられていた。「国宝級の文化財まで展示できる」と水島は豪語していた。
《参考》建築用ドアハンドル [ネオイズム] ユニオン造形文化財団
https://www.artunion.co.jp/portfolio/detail/DH-13630.html
奈良そごうは、市役所の移転に伴って、市街地再開発の一環として計画された商業施設。だが、出店予定地が平城宮の跡地の南側、奈良時代の皇族★長屋王の邸宅跡地に該当していたため、考古学関係者の間で「文化財の破壊だ」という声が上がった。事実、建設の過程で「長屋王家木簡」と呼ばれる奈良時代初期の貴重な文字史料が見つかっている。遺跡の上に建てられたため、デパートでありながら地下売場が造れなかったという。
https://bunshun.jp/articles/-/5821
1986年(昭和61)から、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われていましたが、翌年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が確認されて注目されました。その中で、1988年(昭和63)8月に発掘していた左京三条二坊八坪の東南隅で大量の木簡が見つかり、「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡があることから、ここが長屋王の住居であったという重要な証拠となります。ここから見つかった木簡は、約3万6千点に及び、「長屋王家木簡」とよばれるようになりました。その木簡には、邸宅内にいた人々に米飯を支給した日々の伝票が多く、その支給先として、長屋王の家族や使用人等がみられ、長屋王家の所領から食料などを進上する際の木簡もあります。これらは、当時の王家の日常生活や王家を取り巻く環境を浮かび上がらせる貴重な資料となり、古代の日本語の実態解明にも役立ち、国語学・国文学にも大きな影響を与えました。しかし、多くの研究者や地元の反対があったにも関わらず、建設は続行され、遺構の多くは破壊されました。現在は、敷地の一角に設けられた記念碑のみが、長屋王邸跡であることを示しています。
【長屋王】
飛鳥時代から奈良時代に活躍した皇族政治家です。天武天皇の孫で、高市皇子の長男とされていますが、生年ははっきりせず、684年(天武天皇13)とする説と676年(天武天皇5)とする説があります。704年(慶雲元)に無位から正四位へ昇進し、709年(和銅2)に宮内卿に叙任されて公卿に列し、翌年に式部卿、718年(養老2)に大納言、藤原不比等没後の721年(養老5)には右大臣となって、勢力を拡大しました。724年(神亀元)に聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり、王族政治家として政治の実権を握り、藤原氏に対抗する勢力となります。728年(神亀5)には、父母や天皇などのため、それぞれ大般若経600巻を書写させたり、社会の安定化を図るため、公民の貧窮化や徭役忌避への対策を行い、開田策を実施するなど律令制維持を図る諸策を進めました。しかし、漆部君足らに謀反をくわだてていると密告(藤原氏の陰謀と言われている)され、朝廷から謀反の疑いを受けて軍隊に邸宅を囲まれ、729年(神亀6年2月12日)に、妻子とともに自害します。(長屋王の変)詩歌を好み★『懐風藻』に詩3編、『万葉集』に5首が掲載されていました。
・・・奈良そごうが閉鎖すると、★「長屋王の祟り」といった言葉がまことしやかに流布されたという。
※宮内庁治定「長屋王墓」/奈良県生駒郡平群町梨本字前758番地
http://www.town.heguri.nara.jp/web/kankou/bunkazai/bunkazai04-34.html
※宮内庁治定「吉備内親王墓」/奈良県生駒郡平群町梨本字前773番地
http://www.town.heguri.nara.jp/web/kankou/bunkazai/bunkazai04-35.html