風の王国(18)大津皇子1 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・さてさてcomicの話にドップリつかってしまいましたが、主役でもある「大津皇子」についてまとめてみましょう。

 

【大津皇子】(663~686)

天武天皇の第三皇子。母は大田皇女(天智天皇の長女)。同母姉に大伯皇女(大来皇女)、異母兄に高市皇子・草壁皇子、異母弟に忍壁皇子らがいる。山辺皇女(天智天皇の皇女)を娶り、粟津王をもうける。

663天智 2年 娜の大津(九州博多付近)で生まれる。1歳

         日本軍が唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で敗戦。

         朝鮮の百済滅亡。

664天智 3年 唐の郭務宗ら来日。                  2歳

667天智 6年 斉明天皇埋葬に伴い、墓前に母大田皇女を葬る。

         近江大津に遷都。                    5歳

668天智 7年 天智天皇正式即位。 高句麗滅亡。    6歳

671天智10年 天智天皇崩御              9歳

672天武 1年 壬申の乱勃発。大分君恵尺の手引きで近江大津京を脱出。

         伊勢国朝明郡で父天武に合流した。    10歳

673天武 2年 姉、大伯皇女を齋王とし伊勢に送る。   11歳

679天武 8年 吉野会盟に参加。                 17歳

680天武 9年 高市皇子と飛鳥寺の僧弘聡の死を弔問。 18歳

683天武12年 国政に参画する。           21歳

685天武14年 爵位改定に伴い草壁皇子に次ぐ浄大弐を授かる。23歳

686朱鳥 1年 8月草壁、高市皇子とともに封4百戸を加えられた。24歳

同        9月天武天皇崩御

同       10月大津皇子の変。謀反の罪で死を賜る。

 

 

《大津皇子の像》著★保田與重郎/1937

秋の日の暗い午後、と云ってももう懷中電燈の光が部屋の中では明々と見えるくらゐな、夕暮に近い時刻であった。私は奈良博物館の第三室の南側の陳列箱の前に暫く前から立ってゐた。閉館間際の入場者たちは騷々しく行き來し、その人影さへ仄暮れてゐるので、私はまつたく呆然とこの一つの小さな作品のまへに佇んでゐる。見慣れた作品のなかで初めて目に止まった一つの作品であった。晩秋のなほも心細く疲れた夕暮ゆゑか、その作品は私を感傷させた。しかも、それはなんと哀愁ににほふ作品であらう。大津皇子像との説明を付けた、神像形の小さい、まったく小さい作品であった。

 

 

《参考》桜井市立図書館

http://www.library.sakurai.nara.jp/original/map/map.html

 

《保田與重郎のくらし―京都・身余堂の四季》写真:水野克比古/刊:新学社2007

http://www.sing.co.jp/info/book/yasuda01.html

戦中戦後と一貫して志を変えず、孤高の文人として日本の美と歴史を語りつづけた文芸評論家保田與重郎(やすだよじゅうろう 明治43年~昭和56年)。保田與重郎は昭和33年、王朝ゆかりの景勝地である京都の鳴瀧に山荘を構え「身余堂(しんよどう)」と命名、そこを終の棲み家として、文人伝統の志操と風儀を守りつづけた。身余堂は、建物から什器一切まで、陶芸界の巨匠河井寛次郎の高弟であった陶工上田恆次(うえだつねじ)の制作設計になる。民家のもつ重厚と洗練した造形美をあわせもつ名建築であり、かの佐藤春夫は「そのすみかを以て詩人と認める」として、東の詩仙堂と並べて「西の身余堂」と絶賛した。それを伝え聞いた川端康成は、「詩仙堂よりも保田邸のほうがずっと優れている」と断じたという。本書『保田與重郎のくらし―京都・身余堂の四季』は、これまでひそかに語りつがれてきた名邸身余堂の全貌を、写真界の第一人者である水野克比古の作品を中心にひろく紹介する一冊。保田夫人をはじめ、ゆかりの人々の文章も併せて収載。

 

 

《NEWS》2015.4.24産経WESTより

保田與重郎/憲法9条を守れ…日本の神々を守るための絶対平和論

小高い丘の上にある★文徳天皇陵を中心とした鳴滝一帯(右京区)の丘陵は、三尾(さんび)山と呼ばれる。現在は陵とその西側にある門徳池をかこむように新興の住宅がびっしりと並んでいるが、かつては松や竹の林が生いしげる山野であった。

※京都府京都市右京区太秦三尾町

http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/055/index.html

昭和33(1958)年暮れ、文芸評論家の保田與重郎が陵と池をはさんだ台地の上に山荘を建て、実家のある奈良県桜井市から引っ越してきた。「如何なるけものか住みつらん」というありさまで、もちろん周囲には住宅などはなかった。それだけに眺めはよかった。南には太秦の田園地帯がひろがり、目をあげれば、京都市街の大半、はるかには石清水や生駒まで見わたせた。西には小倉山や愛宕山の尾根がくっきりと刻まれていた。土地は100坪で、ここに建坪40坪の木造平屋中2階建ての山荘を造った。庭に面してL字型の書院造り風の建物で、大小あわせて7つの部屋が配置された。柱や梁(はり)、鴨居(かもい)、天井はすべて紅殻(べんがら)塗り、調度品や家具、食器は当代一流の名工の作。庭の植木はこれまた一流の庭師によって、紅梅の老木、八重の枝垂れ桜、モクセイ、モクレンなどが植えられた。凝りに凝ったこの山荘は「身余堂」と名づけられた。紀州・熊野の神託歌の「思ふこと身に余るまで鳴滝の--」から採られた。翌34年の春、紅梅が花をつけ、つづいて枝垂れ桜がみごとに咲きみだれた。その美しさに酔った保田は釈迦の降誕日である4月8日、茶会を開くことを決めた。最初は知人を招こうかと思ったが、気が変わった。エッセー「藍毘尼青瓷茶会(らんびにせいちゃかい)」によると、招かれたのは文徳天皇ゆかりの在原業平のほか、芭蕉、吉田兼好、西行、加藤清正、それに江戸期の文人、松永貞徳の計6人である。保田が敬愛する、いわば霊界の賓客を相手に茶会を開いたのである。茶器や書などの調度品は、陶芸家の河井寛次郎や画家の棟方志功ら超一流の作品をそろえた。エッセーによると、「来会者の話ぶりは真面目で話題は真剣なものだが、かざりけがないので自ら笑ひの間にすゝんだ」とあり、座談は延々10時間におよんだ。芭蕉は嵯峨でひとつの蚊帳(かや)で何人も寝たため、寝苦しかったと回想し、兼好は足利尊氏について人間としての興味をあまり持てないと話した。西行はしきりに源頼朝をほめ、貞徳が秀吉のいちばんよいところは親切な点だと持ちあげると、清正は思わず涙ぐんだ。霊界の賓客との茶会という、考えようによっては神がかったセッティングはもちろん、保田という稀有の文人の資質にからんでいる。戦前、「日本浪漫派」を主宰し、祝詞にも似た難解で異様な文体で書かれた「日本の橋」「戴冠詩人の御一人者」「万葉集の精神」といった作品は、小林秀雄とならんで多くの若者たちを惹きつけた。戦後は一転、「軍国主義者および極端な国家主義者」に該当するとして公職追放され、新聞や雑誌などへの執筆を禁じられた。追放中、京都で結社「祖国社」をおこし、月刊誌「祖国」の刊行をはじめ、無記名のエッセー「祖国正論」を連載した。いわば時務論だが、保田の思考方法は戦前とほとんど変わらない。たとえば憲法9条を擁護したうえで、「これだけ(憲法9条)が日本人の生きてゆく道です。そうしてそれが、わが民族神話の伝える、神々の生活の基本型だということです」とまとめる。左翼陣営のイデオロギーに満ちた擁護論とはことなり、日本の神々を守るための絶対平和論なのだ。戦後、多くの作家や学者、思想家が転向していったのに反し、戦前・戦中・戦後と一貫した保田の思想は昭和40年代になり、高く評価されはじめた。全集も刊行された。文徳天皇陵のほそい参道に立った。白い玉砂利が春の陽をうけて、まぶしいほどに輝いている。左手には門徳池のよどんだ水の面がゆれ、木々にかこまれた右手の台地上には瀟洒(しょうしゃ)な高級住宅が建っている。風雅をきわめた「身余堂」はもちろん、いまはない。保田がその鋭い嗅覚でさぐりあてた「神々の匂い」はどこからも漂ってこなかった。

 

 

《参考》オムロン創業者記念館 [立石一真創業記念館]

616-8236京都市右京区鳴滝春木町5-20

https://www.g-mark.org/award/describe/45834?token=b8DYIX9pzf

 

『天翔る白日・小説大津皇子』著:黒岩重吾/中公文庫1986

皇位を継ぐのは誰か―。壬申の乱後に即位し、新国家造りをめざす天武天皇の宮廷に渦まく愛憎と権謀。文武に秀で自由濶達な大津皇子に強い期待と深い猜疑の眼が集まり、誇り高い青年皇子は恋と政治闘争に身を燃やしつつ、悲劇的な結末に追い込まれてゆく。古代飛鳥に展開する歴史と人間の凄絶なドラマ。

 

 

《おもいのたま(持統天皇)》《天武天皇》《大津皇子》作:小倉遊亀/蔵:薬師寺

★奈良そごう美術館の開館一周年を記念して開催された「小倉遊亀」展。持統天皇・天武天皇・大津の皇子の三像を描いた絵が展示されていた。その後、これらの絵は薬師寺に寄贈された。小倉遊亀は大津の出身ではあるが、奈良女子高等師範に学び、大和の風物をこよなく愛し、飛鳥時代を代表する三像を描き、薬師寺に奉納したのであろう。ふくよかなお顔の持統帝、威厳に満ちた天武帝に比べると、大津の皇子はいかにも悲劇の主人公のように、眉間に皺を寄せ悲しげである。この三枚の絵は平山郁夫の玄奘三蔵の障壁画と共に、薬師寺に末永く伝えられる事であろう。

 

・・・続いて、薬師寺について調べることにします。