風の王国(9)発掘 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・謎は深まるばかり、ちょっと頭を整理してみましょう。

 

 

【仁徳天皇】(257?~399?)

https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/021.html

『日本書紀』では神功皇后摂政57年〜仁徳天皇87年/『古事記』では83歳で崩御となっている。仁徳天皇は、応神天皇の第4子として誕生した。母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、幼い頃から聡明かつ容姿端麗で、壮年になると心広く恵み深い人であったといわれている。諱(いみな:個人の正式名称)は、『日本書紀』では大顦鷯尊(おおさざきのみこと)、『古事記』では大雀尊(読み方同じ)とされている。

応神天皇の崩御後、弟の皇太子・菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)は、「天下に君として万民を治める者は、民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くなければならない。容姿も優れ、仁孝の徳もある兄を於いて自分は天皇になることはできない」と大顦鷯尊に位を譲ろうとした。大顦鷯尊は、菟道雅郎子皇太子の他に、皇位を狙うもう一人の兄王・大山守皇子(おおやまもりのみこ)との板挟みになるが、弟に加担し兄王を征伐する。弟はそれでも即位せず自害したため仁徳天皇として即位する。

 

・・・そもそもが、血なまぐさい「権力争い」ドロドロした「人間(血縁)関係」、様々な疑問の発端は「仁徳天皇」にありそうですね。さらに、具体的な資料を調べてみましょう。

 

 

《現代語訳『堺鑑』》著:衣笠一閑宗葛/現代語訳:久次米晃

本書は1684(貞享元)年に刊行された堺最初の地誌である。

●仁徳天皇陵【舳松領】

この陵は和泉・河内・摂津三国の境にあり、大小路の東端から八町ほど離れている。人々は大仙陵と呼んでいる。仁徳天皇は己亥の年に崩御した。宮殿は難波(なにわ)の高津(たかつ)にあり、平野明神という号であった。全国から集められた人々の手でこの陵が築かれたが、尾張からの人々の到着が遅かったために、その工事区間が谷状のままに残ってしまい、今は「尾張谷」と呼ばれているという。この俗説の真偽は明らかでない。山の大きさは、全周七百二間、山の高さ、南が十四間、北が十六間四尺、中央が十間五尺である。この陵からの方角で他の陵の位置が示されることが多い。秀吉公は度々この陵周辺で狩猟をし、仮の住居も設けたが、その跡を今は茶屋山と地元の人は呼んでいる。この近くの万代(もず)村という所に履中・反正両天皇の陵がある。

 

 

1684年(貞享元)★『堺鑑』には豊臣秀吉が当古墳でしばしば猟を行っていたと記されている

 

1685年(貞享2)後円部の盗掘坑が埋め戻された

 

1698年(元禄11)元禄の修陵で後円部墳頂に柵を設置

★元禄山陵図:1697年(元禄10)以降、江戸幕府が天皇陵の探査と整備を行った際に細井知慎によって作られた報告書。

 

1722年(享保7)享保の修陵時に一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置

 

1853年(嘉永6)後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更

★聖蹟図志:1854年(嘉永7)11月の序を有する。銅版画で細部に至るまで緻密に描かれているという。津久井清影による陵墓図。

★安政山陵図:1855年(安政2)4月の日付がある。岡本桃里が大和国の31の山陵を描いたもの。文久の修陵以前の図。

 

1864年(元治元)文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。

★文久山陵図:「文久の修陵」における山陵の絵図。朝廷の御用絵師である「鶴澤探眞」が描いた。各天皇陵に対する大規模な修陵の前後を対比させた図を描いている。

 

1865年(慶応元)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。

次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ★「灌漑」用水を引いていた。

 

・・・「灌漑」ということを重視した古墳論もあり、興味そそられます。

 

 

《参考》

・山陵遥拝帖:1921年(大正10)に山陵崇敬会によって発行された天皇陵の写真集。

・陵墓地形図集成:1999年(平成11)宮内庁保管の陵墓地形図を書籍として発行したもの。

・神武天皇御陵真景:奥野陣七主宰する報国社によるもので明治23年4月以前のものと考えられる。神武天皇域内の様子が克明に記述されているという。

・皇朝歴代史:歴代天皇陵の所在地等を記した冊子。奥野陣七著。

 

1872年(明治5)の前方部斜面の崩壊により埋葬施設が露出したことを受けて、堺県県令★税所篤等による緊急発掘が行われた。大仙陵の清掃を政府から命じられた際、陵内に小屋を作り、1年間作業していたが、政府に怪しまれ、小屋の撤去を命じられる。のちに米国ボストン美術館に大仙陵発掘とされる装飾品などが保存されていることから、これが陵から出たものとするならば、県令自ら盗掘をしていたのではないかと、考古学上の風説になっている。ただしこれは税所の没後、藩閥政治に対し批判的なスタンスだった事で知られる★尾佐竹猛の座談会での発言(昭和2年(1927年)、文芸春秋7月号に掲載された「柳田国男・尾佐竹猛座談会」)がその根拠となっており、明確な物証が存在しているわけではない。また、尾佐竹は専門の歴史学者ではなく、彼の歴史関係の著作については、その根拠の脆弱さを作家★松本清張が痛烈に批判している。また江戸時代からすでに古墳の盗掘が広く行われていた事にも留意する必要がある。また、仁徳天皇陵は5世紀中ごろに造られたものだが、2011年に行われた宮内庁書陵部の調査で、ボストン美術館所蔵の出土品が6世紀第1四半期の物であることが判明している。

 

2018年10月15日、宮内庁は、今月下旬から堺市などと共同で大山陵古墳(仁徳天皇陵)を発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓を宮内庁が外部機関と共同で発掘するのは初めて。同年11月22日、採掘調査中に埴輪や石敷きが発見された。

 

 

《NEWS》2018.11.22産経新聞より

仁徳陵の調査結果「何らかの方法で公開」堺市長が表明

宮内庁と堺市による仁徳天皇陵(大山古墳、堺市堺区)の共同発掘調査結果を受け、同市の竹山修身市長(当時)は22日、宮内庁が公開しないとしている調査結果を、博物館での展示など、何らかの方法で市民らに公開する意向を表明した。実現に向け、宮内庁に働きかけるという。市役所で記者団の質問に答えた。竹山市長は11日に発掘現場を視察。「ほんのわずかな時間だった」というが、「初めて仁徳天皇陵古墳の調査に入らせていただいたことは貴重な機会だった」と位置づけた。調査結果では、円筒埴輪(はにわ)列などが確認されており、「埴輪列や石敷きが良好な状態で残っており、感動した」と振り返った。今回の調査は、古墳の墳丘を囲む2つの堤のうち内側の堤である第1堤の3カ所で行われたが、宮内庁は「一般公開はしない」との方針を示している。これに対し、竹山市長は「別の場で、市民の皆さんに発表できるようにしたい」と述べ、何らかの形で調査結果を公開できるよう、宮内庁に働きかけていく意向を明らかにした。そのうえで、「たとえば市博物館などで、『埴輪列はこんな形で出土した』ということを、(市民らに)見せられるような展示も考えていきたい」とした。今回の調査は、歴代天皇や皇族の陵墓で宮内庁が外部機関と共同で発掘調査を行った初のケースになった。竹山市長は「今後も同様の調査があれば、また(堺市も)加えていただきたいと思っている」と発言。世界文化遺産登録をめざす百舌鳥・古市古墳群のうち堺市の百舌鳥古墳群で、同様の調査に協力していく考えも示した。

 

 

★仁徳天皇陵古墳(大山古墳)発掘調査写真展示

平成31年2月19日~3月3日/場所:堺市博物館地階

https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/tenji/nintoku-paneru.html

平成30年10月23日から12月5日にかけて、陵墓の保全工事の資料収集のために行われた、宮内庁による仁徳天皇陵古墳の第1堤の発掘調査に市職員を派遣し、調査に協力しました。この調査で撮影された写真をパネル展示します。

 

・・・残念ながら見に行けなかったので、いろいろな場所で展示してほしいものです。