enoco(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・そもそも「20世紀美術コレクション」を管理・活用しているのは「enoco」です。

 

 

◆【大阪府立江之子島文化芸術創造センター/enoco】◆

550-0006大阪市西区江之子島2-1-34/06-6441-8050

アートやデザインなどの創造力で、大阪という都市を元気にすることをめざして★2012年4月に開館。ギャラリーや多目的ルームのレンタル事業を行うほか、★大阪府の美術コレクションの管理と活用、企画展やセミナー・ワークショップなどの自主事業に加え、地方自治体やまちづくり団体の個別相談にも対応するなど、クリエイティブな発想とネットワークで都市や社会が抱える様々な課題の解決に取り組んでいます。

enocoは2012年にオープンした新しい施設ですが、建物は古い歴史をもつ近代建築です。★1938(昭和13)年に建てられたものを、コンバージョン(用途変換)しました。そしてenocoのある江之子島というエリアも、大阪の近代の歴史にとってとても重要な場所です。「江之子島」という町名の通り、かつてこの地は文字通りの島でした。水都大阪といわれるように、かつて大阪の中心部、特に西区には、何本もの堀川が流れていました。江之子島は木津川と百間堀川とに挟まれた、中之島を小さくしたような中洲だったのです。木津川は現在もそのままですが、戦後になって東側に流れていた百間堀川が埋め立てられ、島でなくなりました。1874(明治7)年、初の本格的な★大阪府庁舎がこの江之子島に建てられました。enocoのすぐ北側です。西洋の古典様式に倣った重厚な建築は、「江之子島政府」と呼ばれて名所となりました。★大阪市庁舎も、最初は江之子島に設けられました。この地は、かつて大阪の行政の中心地だったのです。そして木津川の対岸には、★外国人の暮らす川口居留地がありました。洋館が建ち並ぶモダンな街は、新しい文化の発信地となりました。1926(大正15)年、大手前に新しい大阪府庁舎が完成して行政機能は移転し、空き家となった江之子島の建築には、★大阪府工業奨励館(現:大阪府立産業技術総合研究所)が設けられました。最新の工作機械や実験機器が揃えられ、大阪の中小企業の工業の近代化に貢献しました。enocoの建物は、この工業奨励館の附属棟として1938(昭和13)年に建てられた工業会館です。残念ながら、元の府庁舎は戦争の空襲で焼失してしまいました。残ったこの増築棟は、大阪における数少ない戦前期のモダニズム建築として、貴重な存在です。

旧称:大阪府工業奨励館附属工業会館/建設年:1938年(昭和13年)/構造・規模:鉄筋コンクリート造4階建、地下1階/設計:大阪府営繕課/施工:大林組/改修設計・施工:長谷工コーポレーション

 

・・・この「enoco」に興味を持ったのは、「大阪博物場」を調べていた頃です。

 

 

《参考》「マイドームおおさか」敷地の変遷(詳細)

https://www.mydome.jp/summary/transition/detail.html

・1868年(明治元年)の明治維新により、奉行所は廃止され、大阪裁判所となりました。その後、同年5月、初代大阪府庁が置かれました。庁舎は、「西町奉行所」の建物がそのまま使用されました。初代大阪府知事は醍醐忠順、二代目知事に土佐藩士の後藤象二郎が就任しました。

・1874年(明治7)に大阪府庁が江之子島へ移転した跡地に、「大阪博物場」が1875年(明治8年)設立されました。その後の1878年(明治11年)には、「府立教育博物館」を併合し、産業見本市、図書館、博物館、美術館、動物園、植物園、舞台、公園がミックスした★「総合産業文化施設」となりました。

 

《参考》「近代日本の技術革新を支えたミュージアム」/文:三宅拓也

「大阪府立商品陳列所」は、1890年(明治23)に開所した本邦初の商品陳列所である。欧米の商業博物館を模範として計画されたが、初期においては★工業試験を、移転した大正期以後においては発明考案の補助を行うなど、市民の技術革新をも支援した。大阪府立商品陳列所がこれらの活動を行うに至った背景には、農商務省が「興業意見」に示した勧業政策の存在を指摘できる。商工業ミュージアムともいえるその活動は、当初農商務省が思い描いていた理想の陳列所像であり、近代日本の技術革新を間接的に支えた重要な存在であったといえる。施設計画の立案に先立ち、建設委員会は欧米における商品陳列所や商業博物館の制度を調査している。大阪府立商品陳列所は「主に我物産の輸出を増進し又外国品を輸入するの便利を図り兼て内地商業の発達を助け府下の工業を拡張改良すること」を目的とし、その大部分はブリュッセル商業博物館のそれと同様である。しかしここで注目すべきは最後の一節であり、大阪府立商品陳列所は工業を拡張改良するという目的を果たすため「分析試験」という独自の機能を持つに至った。1890年(明治23)大阪府立商品陳列所は貿易を主眼に置いた商業博物館を模範としながら★工業奨励をもうひとつの使命として、堂島河畔の★「朝暘館」跡の地に華々しく開所した。

 

 

・「大阪府立商品陳列所」は、1890年(明治23年)に北区堂島に創立されましたが、1909年(明治42年)の北区の大火災により、陳列所が類焼してしまいます。商品陳列所を再建するにあたり、1917年(大正6年)3月15日に堂島から本町橋へ移転しました。設計は、広島県物産陳列館(現原爆ドーム)の設計者であるチェコスロバキアの建築家、ヤン・レッチェルが行ったことがわかっています。

・1724年(享保9)に大坂の商人たちが学問所「懐徳堂」を中央区今橋に設立しましたが、1869年(明治2)に閉校。その後、1916年(大正5)にこの地に「重建懐徳堂」を再建されましたが、1945年(昭和20)3月14日の大空襲で焼失してしまいました。

・1930年(昭和51月1日 大阪府の産業行政機関整備・強化のため、「大阪府立商品陳列所」は名称を「大阪府立貿易館」と改められました。その後の1943年(昭和18)3月には、戦時体制の下、大阪府立貿易館・大阪市貿易課・大阪商工会議所貿易課が行ってきたすべての貿易関係業務を集約し、南方資源調査などに当たることとなり、「大阪南方院」と改称されます。1945年(昭和20)12月31日 大阪南方院は解散され、翌1946年(昭和21)1月1日 大阪府立貿易館が復活しました。大阪府の機構改革に伴い、1987年(昭和62)11月、商品陳列所以来97年の歴史を持つ大阪府立貿易館は廃止されました。

1969年(昭和44)12月大阪万博の前年、大阪府商工業振興審議会は産業貿易センターの必要性を答申。1980年(昭和55)5月、審議会は「大阪産業ビジョン80」の中で具体的プロジェクトの1つとして再度、産業貿易センターの建設を答申。1982年(昭和57)大阪府、大阪商工会議所が共同で、展示場を中心に、高水準の情報提供機能や国際交流機能、中小企業振興機能が盛り込まれたプランを作成します。その後、1984年(昭和59)に施設の運営母体となる財団法人大阪中央地場産業振興センターが設立されました。そして、1985年(昭和60)大阪中小企業振興センター(マイドームおおさか)の建設が開始されます。途中、3か月ほど、埋蔵文化財発掘調査のため、建設工事が中断されましたが、1987年(昭和62年)9月「マイドームおおさか」が開館します。

 

・・・再度「大阪博物場」について振り返りましたが、今更ながら「大阪」そのものの歴史がここにあると痛感するとともに、もっと広く知られるべきだと思います。

 

 

《参考》いろはかるたで語る「大阪の橋」/FUJITSUファミリ会関西支部より

https://jp.fujitsu.com/family/sibu/kansai/17koramu/Vol01.html

水運で栄え「八百八橋」といわれるくらい たくさんの橋がつくられた大阪。人の往来や物流を支えた橋は、商人の町・大阪の礎でもありました。新シリーズ、いろはかるたで語る『大阪の橋』は、風刺漫画や似顔絵の大好きな島本貴子さんが描く「いろはかるた・大阪の橋」シリーズ(各48枚)を一部お借りして大阪の町人たちが大切にしてきた橋にまつわる風物や文化を楽しく解説します。

https://jp.fujitsu.com/family/sibu/kansai/17koramu/Vol17.html

 

 

・・・素敵なガラスレリーフ、ぜひ実物をご覧ください。