・・・秀吉には古墳を破壊した前科があるということらしいので、調べてみました。
《NEWS》2017.9.23産経WESTより
中身を暴こうとすると天変地異が起きた?「塚穴古墳」の怪伝説
大阪外環状線の傍らに土饅頭がある。上には石塔が立っており、石室が口を開けている。ちょっと異な感もあるが、古墳のように見える。『大阪府全志』巻4(1922)の高向村の記述に「樹木鬱葱(うっそう)として茂り、塚上に五輪塔及び十三層の石塔あり。…里人は当墳を以(もっ)て、高向王(たかむこのおおきみ)の墓なりと伝へ、先年其(そ)の伝説を確かめんとして発掘せんとしたるに、山鳴り風起りし為(た)め、畏れて中止せしといふ」とある。葬られたと伝わる高向王は、第31代用明天皇(?~587年)の孫・高向王か。貴人の墓をあばこうとしたところ、天変地異が起こったのである。1966(昭和41)年、河内長野市教育委員会によって発掘調査がなされた。『河内長野市史』1巻(1994)には以下のようにある。
〔1〕盛り土の中に、江戸時代の瓦が混じっている。
〔2〕石材にはクサビの跡があり、元あった古墳の石材を割って積み直している。
〔3〕現在の石室の床面には、長方形に加工された花崗(かこう)が用いられている。
このような知見から、再構築された「古墳」であることが分かった。さらに「大坂築城に際しこの古墳を破壊し石が運び出されたが、途中で怪異が生じ元に戻された」と、『大阪府全志』と似た伝承を記している。★豊臣秀吉による大坂城築城の際に、石材を得るために古墳を解体した。あまりに大きな石だったのでクサビを入れて割り、運び出そうとしたが「怪異が生じ」、元のように石室を組み直したと。先人の墓をあばくのは良くないということを、塚穴古墳の歴史は伝えてくれる。
石川の左岸、段丘上にあります。天野街道に面して横穴式石室が開口していました。伝承では豊臣秀吉の大阪城築城にともない、古墳を破壊して石を運び出したところ、疫病がはやり、人々は恐れをなして石室を元に戻したといいます。内部を調査したところ、近世の蔵骨器が4個、五輪石、一石宝篋印塔が多数出土し、墓地として利用されていたことがわかりました。
・・・秀吉のみならず、戦国武将たちは戦いに有利な古墳を根城としている例が多い。当然、古墳の破壊は免れなかったであろうことは想像に難くない。
《ウィキペディアより》
★『堺鏡』(1684年(貞享元年))には★豊臣秀吉が大仙陵古墳でしばしば猟を行っていたと記されている。また『堺鏡』には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として認識されており、現在でも近隣市民からは親しみをこめて「仁徳さん」と呼ばれている。また尊皇思想の高揚にあわせて整備や管理強化がたびたび行われている。1685年(貞享2年)に後円部の盗掘坑が埋め戻されたことを手始めに、元禄の修陵(1698年(元禄11年))で後円部墳頂に柵を設置、享保の修陵時(1722年(享保7年))には一重濠と二重濠の間の堤に番人小屋を設置、1853年(嘉永6年)には後円部に設置されていた勤番所を堤に移転するとともに後円部の柵を石製に変更、1864年(元治元年)には文久の修陵の一環として前方部正面に拝所を造成している。また、この時に墳丘西側で途切れていた一重濠と二重濠の間の堤を接続させる工事が行われ、一重濠と二重濠が切り離されている。翌、1865年(慶応元年)には朝廷より勅使が参向し、現在へとつながる管理体制となった。次第に管理が強化されていったが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。また、当古墳所在地である大鳥郡舳松村と北隣の中筋村は大仙陵池から耕地へ灌漑用水を引いていた。
《NEWS》2018.7.19日本経済新聞より
150年前、堺は「県」だった/奈良も合併、知事驚く(もっと関西)
今から150年前、堺は「県」になった。県域は現在の大阪府東南部まで拡大、奈良県まで合併する勢いだった。だが、堺の県知事は奈良合併を事前に知らず、盟友・大久保利通への手紙に「驚愕(きょうがく)千万かつ迷惑」と書いている。謎多き「堺県」の歴史と今日への影響を探った。堺県が誕生したのは1868年。堺市博物館は今月8日まで企画展「堺県とその時代」を開いた。今の堺市が県だったことはどの程度知られているのか。来館者10人に尋ねてみた。「以前から知っていた」と答えたのは4人。このうち、実家が奈良県の男性は「奈良はかつて堺県だったと教わった」という。堺市民の夫婦はそろって「学校で習った」。そこで堺市中学校社会科の副読本を見ると確かに出てくる。69年に河内、71年に和泉、76年に奈良県が堺県に編入され「広大な面積の県でした」と説明している。「郷土の文化や歴史を学べる『堺かるた』にも出てきます」と堺市博物館学芸員★矢内一磨さん。「い」の札が「和泉河内大和あわせて堺県」と豪快だ。ではなぜ、71年の廃藩置県に先立って堺が県になったのか。地域社会の歴史に詳しい神戸大学・人文学研究科長の奥村弘教授は「幕府の直轄領だったから」と話す。中世以来、港湾都市などとして栄えた堺を幕府が重視。明治新政府も国内統治上の重要な拠点と認めて県にしたという。奈良までのみ込んだのはなぜか。当時、堺県令(県知事)の★税所(さいしょ)篤は大久保、西郷隆盛と並び「薩南の三傑」と称された人物。薩摩藩の力で強引に拡張したのだろうか。「税所が大久保に送った書簡が残っています」と話すのは、奥村教授の教え子で神戸大大学院生の若手研究者、津熊友輔さん。税所にとって奈良合併は寝耳に水だったようで「驚愕千万」。「迷惑」はせっかく堺県の運営が軌道に乗ったのに、という思いのようだ。奥村教授は「当時は中央集権体制を固め、行政コストを削減するために全国的に県の統合が進んだ。大久保が親しい税所にも知らせず、秘密裏に合併を進めた可能性がある」とみる。税所は善後策も記した。現在の堺市にあった県庁を、奈良に近い★誉田(現在の大阪府羽曳野市)に移し、県名を誉田に変えることまで考えたという。「誉田県」は幻に終わったが、矢内さんは「堺と奈良の歴史的な結びつきも見逃せない」と言う。そこで長い歴史と伝統をもつ堺山之口商店街を訪ねた。寛永年間の創業で、刃物や工具を販売する★「小久商店」。13代目の平野圭司・代表取締役の母、周子さんは「父も主人も奈良出身。従業員も奈良から来る人が多かった」と語る。明治創業で時計や宝石を扱う★「萬字堂本店」5代目の万代勇美子さんも「以前は『養子は奈良、嫁は和歌山』と言われていた」と話す。人的、経済的な交流の深さも堺・奈良合併の一因だったのだろう。一時は巨大化した堺県だが、81年には財政基盤の強化を必要とした大阪府に編入され、あっけなく幕を閉じた。その後、奈良は87年に大阪府から独立、県としての復活を果たす。一方、堺県の復活運動も80年代前半に見られたが、実現しなかった。13年と短命だった堺県は何を残したのか。73年に日本最古の公立公園としてオープンした★浜寺公園がその一つだ。80年には堺県内に★奈良公園も開園した。博覧会を開いたり、独自の教科書を発行したりするなど「地方自治の実験的な試みも多い」(矢内さん)。住民の意識への影響もありそうだ。当時の堺市長、竹山修身さんは「明治時代に県だったことから堺の誇りが生まれ、150年保持されてきた」と話す。堺は89年の市制・町村制で堺市となり、2006年には政令指定都市になっている。
・・・幻の「誉田県」、学芸員の矢内さん、山之口商店街などの話も掲載されており、貴重な情報です。五木さんの「風の王国」を読む限りでは、税所篤さんのことはあまり良いイメージを受けなかったのですが、大きな業績を上げておられることも事実です。ただ、かなりの★「好古(考古)癖」があり「税所コレクション」も尋常ではなかったようです。
宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった★岡倉覚三(天心)により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高いという。また、実年代は★「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるという。
・・・ということですが、古墳の「築造時期」と「出土品」は必ずしもすべて一致するというわけでもなく、そもそも「築造時期」の特定そのものも確実なものだと言い難い部分があるような気もする。まあ、疑い出したらキリはありませんが、それらの「疑問」からしか「学問」や「芸術」は発展しないのも事実です。
★参考図書
・「文化財の社会史~近現代史と伝統文化の変遷」著:森本和男(2010)彩流社
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1536-3.html
・「古墳文化小考」著:森浩一(1974)三省堂新書
・「巨大古墳の世紀」著:森浩一(1981)岩波新書
・「巨大古墳~治水王と天皇陵」著:森浩一(2000)講談社学芸文庫
●「狐闇」著:北森鴻(2002)講談社
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000203800
魔鏡を競り市で手に入れたことで、宇佐見陶子の運命は変わった。市に参加していた男が電車に飛び込んだのを皮切りに周囲で命を落とす者が続出。陶子は絵画の贋作作りの汚名を着せられ、★骨董業者の鑑札を剥奪されてしまう。狡猾な罠を仕掛けたのは誰か。満身創痍の捜査行は日本の歴史の断層に迫っていく・・・
《参考》映画『嘘八百』続編が2020年新春公開へ、中井貴一×佐々木蔵之介が幻の茶器を巡って再びタッグ
https://www.fashion-press.net/news/47004
映画『嘘八百』は、中井貴一演じる目利き古物商・小池則夫と、佐々木蔵之介演じる陶芸家・野田佐輔がタッグを組んで、一攫千金を狙う“開運お宝”コメディ。2018年1月に公開され、話題を呼んだ。人気作の続編は、大阪・堺に加え古都・京都まで舞台を広げ、新たなストーリーを綴る。利休の茶の湯を継承し「天下一」と称された武将茶人“古田織部”の幻の茶器を巡って、小池則夫と野田佐輔が再び集結。★知的好奇心をくすぐる骨董トリビアを交えながら、ユニークな物語を描き出す。また、シリーズ最新作にはマドンナ役で、映画『ラブ×ドック』に出演した、広末涼子が参戦。2人と幻の茶器に深く関わってくる着物美人の志野役を演じる。
・・・またまた楽しみな映画、待ち遠しいです。
【柏木貨一郎】(1841~1898)
明治時代の古美術鑑定家、収集家、工匠。名は政矩。号は探古、探古斎。江戸(東京)出身。神田和泉橋の糸屋・辻家に生まれる。幕府の大工棟梁・柏木家の養子となり、9代目を継ぐが、まもなく幕府が倒れた。明治維新後は文部省に勤務し、町田久成らとともに正倉院をはじめ古社寺の宝物調査にあたった。町田が博物館行政から離れた後、官職を辞したようである。古美術の鑑定家、収集家として知られ、龍池会の創設にも関わった。また、三井集会所(1898年)、益田孝邸、渋沢栄一邸など和風建築や茶室の設計を行った。著作に「集古印史」などがある。1841年、上根岸の自宅から王子の渋沢栄一邸に向う途中、★法隆寺の古材で作った下駄が線路に挟まり、それを取ろうとして汽車に接触し死亡した。
・・・なんという最期であろうか。さて、★古川躬行(堺の菅原神社の神官・国語学者)の執筆、★柏木政規?政矩?(諸陵寮の役人)の作図による『壬申十月大仙陵より現れし石棺の考へ 同図録』とその添図『明治壬申五月七日和泉国大島郡仁徳天皇御陵南登り口地崩出現ノ石棺并石郭ノ図』および甲冑の図としてまとめられた。ただし、この記録は関東大震災により大半が焼失したため発掘の過程や程度などの細部をうかがい知ることはできない。ということであるが、
【古川躬行】(1810~1883)
幕末明治期の国学者,神官。号は汲古堂。江戸生まれ。黒川春村の『考古画譜』(日本画の遺作中心の総目録)を改訂編纂,『増補考古画譜』として完成したのは黒川真頼と躬行であり,その随所に「躬行曰」と記してその見識を示した。横笛,琵琶にも堪能であったという。明治6(1873)年枚岡神社(東大阪市)大宮司,8年内務省出仕。10年大神神社(桜井市)大宮司を経て,15年琴平神社(香川県)に神官教導のために呼ばれ,同地で没した。<著作>『散記』『喪儀略』『鳴弦原由』>
《仁徳天皇大仙陵石郭之中ヨリ出シ甲冑之圖》
明治5(1872)年に発見された仁徳天皇陵古墳(大山古墳)★前方部にあった、遺骸や副葬品を納めた竪穴式石室内にあった遺物の内で甲冑について詳細に描いたものです。冑は歩揺(ほよう)を伴う小札鋲留眉庇付(こざねびょうどめまびさしつき)、甲は横矧板鋲留(よこはぎいたびょうどめ)で、いずれも金銅製の豪華なもので、5世紀後半頃のものと思われます。現在、古墳は宮内庁管理であり、その実態が明らかでない部分が多い中で本資料は仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の埋葬時における副葬品の一端を伺い知る事ができる一級の資料といえるでしょう。なお、東京★八王子市郷土資料館に所蔵されている「石棺并石郭圖」は、明治5年当時の堺県令・税所 篤が画師★柏木政矩に描かせたものであることから、これも同一人物の作である可能性があります。
◆【八王子市立郷土資料館】◆
192-0902東京都八王子市上野町33/042-622-8939
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p005312.html
★祝「百舌鳥・古市古墳群」世界文化遺産登録決定!「仁徳天皇御陵石棺図」を特別公開
7月6日、「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)が世界文化遺産に登録されました。これを記念して、当館が所蔵する落合直澄家文書から、「仁徳天皇御陵石棺」を描いた2枚の絵図を特別公開します。1枚目は石棺の正面図と墳丘の断面図、2枚目は石室と石棺を上から描いた平面図です。この絵図は、明治5年(1872)に古墳の一部が崩壊した際に描かれた図の★写しと考えられています。八王子出身の国学者★落合直澄が所有したことで本市に伝わりました。堺市博物館が石棺を復元する際にもこの図が活用されています。現在では見ることのできない古墳の内部を描いた貴重な資料であり、世界文化遺産への 登録を祝する意味で下記のとおり特別公開いたします。
・会場:郷土資料館1階展示場 特設展示コーナー
・会期:令和元年(2019年)6月26日(水)~8月6日(火)
【落合直澄】(1840~1891)
武蔵国多摩郡駒木野(東京都八王子市裏高尾町)に生まれる。駒木野関所関守俊雄の4男。母は瀧子。兄は落合直亮。兄と共に尊王運動を行い、戊辰戦争の下野の戦いにおいて功績があった。明治2年には、宣教権少博士となり、以後豊受大神宮禰宜、度津神社宮司、出雲大社少宮司、大教正をつとめる。その後、東京・京都・宇都宮の神宮教本部長を務め、明治22年には皇典講究所講師となった。幼時より漢籍・詩文を学び、国学を御巫清直・堀秀成・富樫広蔭に学ぶ。公務の傍らで古書の考究を行い、著作には『古今沿革図説』、『三元生成図』(慶応元刊)、『三大考後辨』(慶応2刊)、『新三大考』(慶応2年刊)、『美女森社伝記』、『武烈天皇聖徳考』(慶応3年)などがある。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E8%90%BD%E5%90%88+%E7%9B%B4%E6%BE%84
・・・ここで、またまた新しい疑問が、絵図は、明治5年(1872)に古墳の一部が崩壊した際に描かれた図の★写しと考えられています。ということは、「柏木政矩」さんが「元絵図」を描いて、他の人が「写し」たのか?それとも誰かが描いた「元絵図」を「柏木政矩」さんが「写し」たのか?
さらに★柏木政矩(かしわぎまさのり)という画家が石室に入り、内部の様子をスケッチ風に作図した。その図面が、★大阪城天守閣にある大阪市立博物館に保存されている。
・・・大阪市立博物館にも「図面」があるの?「元絵図」「写し」「写しの写し」「レプリカ」?謎は深まる。