・・・次なる鍵をにぎる人物は、
【役小角】(えんのおづぬ /おづの /おつの)
舒明天皇6年(634年)伝~大宝元年6月7日(701年7月16日)伝
飛鳥時代の呪術者である。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。
※優婆塞=僧ではない在家の信者)
※聖(せい/ひじり)
知徳の優れた完全な人格を表し、また宗教的には神聖性を表現する文字である。仏教でも菩薩(ぼさつ)や阿羅漢(あらかん)を賢聖(けんしょう)という。これはまた帝王の徳も表すので聖王、聖帝といい、日本では「ひじりのみかど」と読まれた。しかし★「ひじり」は火を「しる」(支配する、管理する)意で、古代には、聖なる火を管理する宗教家をさしたものと推定される。しかし日本の古代仏教では、官寺・諸大寺に住む僧侶(そうりょ)に対して★半僧半俗の民間僧侶(沙弥(しゃみ)、優婆塞(うばそく)などともいう)を聖とよんだのは、彼らが自らを「ひじり」と称したからである。中世には念仏(ねんぶつ)聖や勧進(かんじん)聖、遊行(ゆぎょう)聖として民間仏教の担い手となった。しかし神聖の聖の意で高僧をさす場合もあった。
姓は君。★修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
・大津皇子/663年(天智天皇2年)~686年10月25日(朱鳥元年10月3日)
・草壁皇子/662年〈天智天皇元年〉~689年5月7日〈持統天皇3年4月13日〉
・・・まさしく、この若くして亡くなった皇子たちが生きた時代に活躍した修験者が「役小角」である。
《参考》「役行者霊蹟札所会」
http://www.ubasoku.jp/index.htm
・・・小松庸祐(★法楽寺住職)さんが会長を務めておられます。法楽寺は、★「慈雲尊者」ゆかりのお寺です。また、どこかで紹介したいと思います。
http://www.horakuji.com/index.htm
大和国葛城上郡茅原郷(茅原村)(のち掖上村茅原、現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女。 生誕の地とされる場所には、★「吉祥草寺」が建立されている。
《吉祥草寺》
639-2241 奈良県御所市茅原279/0745-62-3472
本山修験宗の寺院。山号は茅原山、院号は金剛寿院。別称は役行者御誕生所。世界で初めて萌えキャラクターを信仰対象として祀る試みが行われている。2017年(平成29)2月17日、役小角奈と役追儺(役ついな)という2人の萌えキャラクターを公認し、本堂にパネルが設置された、さらに同年10月24日には役小角奈、11月12日には役追儺に対して本山修験宗総本山の聖護院門跡から山伏を招き入魂の儀が行われ、不動明王のもとで修業する菩薩(神)という扱いになり、信仰対象として祀られることになった。そのため、本尊の五大尊や役行者と並び、小角奈と追儺の御朱印の授与も行われている。2018年(平成30年)10月21日には小角奈と追儺の入魂一周年を記念する「小角奈祭」が行われた。
・・・最近行ってないので、ぜひ役小角奈と役追儺に会いたいものです。
17歳の時に「元興寺」で孔雀明王の呪法を学んだと伝わる。その後、★葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、★吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(韓國廣足)がいる。
文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に「箕面山瀧安寺」の奥の院にあたる★天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。
《箕面山瀧安寺》
562-0002箕面市箕面公園2-23/072-723-1885
http://www.nanokaichi.com/ryuanji/ennogyoujya/ennogyoujya.html
中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。★聖護院に寺宝として残されている。
《聖護院》
606-8324京都市左京区聖護院中町15/075-771-1880
日本人は昔から山には神々が宿ると信じ、山の神を信仰して来た山岳信仰、自然崇拝に源を発した民族信仰を持っています。これは日本の国土が山に覆われ、四季折々に変化する大自然と信仰が結びついていたからです。山自体をご神体(法体)として拝むことに始まり、山の中、つまり★ご神体の中に入って修行することにより呪術的な験力を得る事を望んだのです。また仏教が伝えられると仏教と融和し、神道・儒教・道教・陰陽道等をも融合して仏教的神道的色彩の濃い日本独自の神仏習合・権現信仰の色彩が強い修験道が完成されて来ます。修験道では今から約1300年前に誕生された★役行者神変大菩薩を開祖と仰ぎ、聖護院では平安期の高僧、第5代天台座主智證大師圓珍を中興の祖と呼んでいます。修験道は山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という★出家・在家を問わない菩薩道、即身即仏を実修する日本古来の宗教です。
《参考》「修行」/金峯山寺HPより
http://www.kinpusen.or.jp/ascetie/index.html
●「蓮華会」は、金峯山寺の三大行事の一つで、7月7日は★役行者が産湯をつかったと伝えられる大和高田市奥田にある弁天池の清浄な蓮の花を蔵王権現に供える法会です。蛙飛び行事は、大青蛙を乗せた太鼓台が蔵王堂へ練り込み、法要の後、蛙飛びの儀式が行われ、最後に導師の授戒によってめでたく人間の姿に戻ります。
毎年7月7日蓮華会、7月7日~9日 蓮華奉献入峯
10時 大和高田奥田蓮池にて★蓮取り行事。正午より大護摩供
12時 六田初花権現にて大護摩供
12時半 竹林院前、蛙太鼓台出発
15時 行列、下千本出発
16時 蔵王堂にて蓮華会・蛙飛び法要
17時 蔵王堂境内にて採灯大護摩供
・・・「蛙飛び行事」は何度か見学してますし、「捨篠池」にも行ってますが、「蓮取り行事」そのものを見たことがありません。今年こそと、決意しています。
《奥田蓮池のひとつ目の蛙》
https://www.city.yamatotakada.nara.jp/city/rekishi/densetsu.html#kaeru
役行者の母トラメ(刀良売)が奥田の蓮池で病気を養うているとき、夏のある朝、トラメが池の中にまつってある捨篠(すてしの)神社に詣でると白い蓮の花が咲いていて、葉には金色に光った蛙がいた。トラメは1本の篠萱(しのかや)を引き抜いて、蛙に投げると、蛙の目にあたって片目になった。池の中ににげた蛙は、もとの土色の蛙となって浮いてきて、五色の露も消えてなくなり、一茎二花の蓮も、もとの蓮になってしまった。しかも池の蛙はそれから一つ目になった。トラメはそれから重病になり四十二歳で死んだ。母をなくした役小角は発心して修験道をひらき吉野山にわけ入り蔵王権現をあがめ、蛙を祭って追善供養をした。以来、毎年七月七日に吉野の山伏が行者堂に来り、香華を献じ、蓮池の蓮108本を摘み、吉野山から大峰山間の沿道の堂に供えている。(絵本:大和高田の民話「捨篠池の一つ目蛙」)
《役行者産湯の井戸》
奥田「善教寺」の 本堂前の右側、つまり北門を入ったすぐ左側にサクラの木がある。もと役行者産湯の井戸の跡という立札を建ててあったが今はない。この辺りに井戸があり、役行者の母が産湯の水を汲んだところといわれている。役行者の母トラメはこの寺の境内にすんでいたといわれている。舒明天皇の六年(六三四)正月元日、捨篠神社にトラメが安産をいのっていると、ふしぎや池の中からホラ貝のふえの音が聞こえてきた。姙褥の体に出産の近いのをさとって、かたわらの井戸水をくみ口をすすぎ、ふたたび神さまを拝んで家に帰ると、たちまちに一子が生まれた。角麿という父の名の一字をとって小角 (おずぬ)と名づけた。このときの産湯は、今、善教寺にある古井戸だといわれている。
《善教寺》
635-0052奈良県大和高田市奥田485/0745-52-7604
境内はもと「捨篠院」(役行者創建)の旧跡、浄土真宗本願寺派(興井山)文明15年(1483年)。
・・・いろんなところで「産湯」を★つかっていますね。