風の王国(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・さて、「風の王国」で鍵となる人物は、まず

 

 

【大津皇子(おおつのみこ)】

663年(天智天皇2年)~686年10月25日(朱鳥元年10月3日)

飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子。母は天智天皇皇女の大田皇女。九州の那大津で誕生。『日本書紀』によれば天武天皇の第3子とされる(『懐風藻』では長子とされる)。同母姉に大来皇女。妃は天智天皇皇女の山辺皇女。母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女(いつきめ)とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の★草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年★24。

※「磐余(いわれ)」

奈良盆地桜井市中部(阿部・池之内)から橿原市南東部(池尻)にかけての古地名。天香具山北東山麓をさす。石村・石寸とも表記する。

《参考》万葉歌碑の紹介/桜井市HPより

https://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/machidukuribu/kankouka/manyokahi/kahisyokai/1393995969392.html

 

・・・生方たつゑ「大津皇子」角川選書、永井路子「裸足の皇女」文藝春秋、黒岩重吾「天翔る白日」中公文庫、町田俊子「大津皇子」幻冬舎、上島秀友「小説大津皇子―二上山を弟(いろせ)と」青垣出版、山路麻芸「白鳳の絶唱―大津皇子の生涯」春秋社、折口信夫さんの「死者の書」についてはあらためて紹介します。

 

 

【草壁皇子(くさかべのみこ)】

662年〈天智天皇元年〉~689年5月7日〈持統天皇3年4月13日〉

即位することなく★28歳の若さで薨じた。明日香の岡寺の近くに草壁皇子が育ったという旧岡寺跡(岡宮跡)があります。ここが義淵僧正によって建立されたというもともとの岡寺のようです。義淵は草壁皇子の所縁の地を寺にしたのでした。現在の岡寺の正面にある治田神社(奈良県高市郡明日香村大字岡964)辺りです。陵墓比定地は「眞弓丘陵(岡宮天皇陵)」、260mほど南にある「束明神古墳」とする説もある

 

《万葉集》巻第2/165~166番

(二上山に移葬されたとき★大来皇女が作った歌)

●うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む

●磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに

 

 

《大津皇子の墓》

https://www.city.katsuragi.nara.jp/index.cfm/14,2705,53,215,html

大阪府と奈良県の境にある二上山★雄岳頂上付近に、墓とされる場所があります。(宮内庁名で「大津皇子二上山墓」)。しかし、葛城市側の麓にある★「鳥谷口古墳」が実際の墓であるとする説もある。奈良・薬師寺には大津皇子坐像<奈良国立博物館寄託>(重要文化財)が伝わっている。

  

『大和名所図会』(1791年刊)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_05326/index.html

「二上山墓 大津皇子の墓」と、それまでなかった記載が突如現われています。

 

 

《NEWS》2019.6.13産経新聞より

【万葉賛歌】その時代(3)「謀略」に消えた2皇子

「万葉の時代」はまた、政治的な謀略の渦巻く時代でもあった。とりわけ皇位をめぐる争いは悲劇的な結末を生み、のちの世の人々から深く愛惜されることとなる。最初の悲劇の主は、有間皇子(ありまのみこ)である。「乙巳(いっし)の変」(645年)のあと即位した第36代孝徳(こうとく)天皇の遺児。ライバルの中大兄皇子は年長の従兄(いとこ)という間柄だ。有間皇子の運命は父帝と中大兄の間に確執が生じたときから決定づけられていたともいえる。653年、中大兄は母、皇極(こうぎょく)上皇(のちの斉明(さいめい)天皇)とともに難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)を去り、飛鳥へ戻った。孝徳天皇は翌年、難波で一人寂しく崩御したのだった。先帝の嫡男とはいえ外祖父(阿倍内麻呂(あべのうちまろ))も亡くした有間皇子が、政権内で孤立を深めたことは想像に難くない。日本書紀によれば、重祚(ちょうそ)した斉明女帝が中大兄とともに牟婁湯(むろのゆ)(和歌山県の白浜温泉)に湯治に出かけたおり、中大兄の腹心の蘇我赤兄(そがのあかえ)が皇子に近づき、謀反を持ちかけたという。「斉明天皇の政治には、三つの失敗があります…」この言葉に皇子は大きくうなずき、「兵を用いるべき時が来た」と答えたとある。ときに有間皇子、まだ19歳だった。やりとりは中大兄に急報、捕縛された有間皇子は白浜に送られ、中大兄から尋問を受けた。謀反の理由を問われ「天と赤兄が知っている」とだけ答えたという。皇子は藤白坂(ふじしろさか)(和歌山県海南市)で絞首された。《岩代の…》の歌は護送の途中、白浜の手前の岩代(みなべ町)で皇子が詠んだ一首である。松の枝を結ぶのは旅の無事を祈る習俗だが、彼自身、再びこの松を見るとは思っていなかったのではないか。みなべ町岩代には現在、「結び松記念碑」が立ち、万葉ファンの聖地となっている。

 

 

この28年後に起きたのが、★「大津皇子(おおつのみこ)の変」である。ライバルの草壁皇子(くさかべのみこ)とともに天武天皇の息子で、年齢は大津皇子が1歳年少。「博覧にしてよく文をつくり、力が強く剣戟(けんげき)に秀でていた」(「懐風藻(かいふうそう)」)という。この事件が一層涙を誘うのは、大津と草壁の母同士が姉と妹(大田皇女(おおたのひめみこ)と持統天皇)だったことである。天武天皇の在世時、争いは表面化しなかったが、686年9月、天皇が亡くなると対立は一気に噴出した。1カ月もたたない10月2日、大津皇子は逮捕され、翌日、死を賜(たまわ)った-と日本書紀にはある。遺体を二上山に葬ったおり、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が《うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む》と詠んで、最愛の弟の死を悼んだ。