はじめに
・・・自宅(羽曳野市古市)近くを「高野街道」や「竹内街道」がはしり、司馬遼太郎さんの「街道をゆく」に刺激を受けつつ街道を巡り始めました。やがて「葛城アート」にも参加するようになり、街道とアートが色濃く結びつき、息づく伝統文化そして大自然が画題を占めるようになってきたところです。
《風の王国》著:五木寛之1985
●1巻:翔ぶ女/深夜の★仁徳陵に、密かに寄りつどう異形の集団とは何か?トラベル・ライターの速見卓は、取材で初めて★二上山を訪れた。二上山で速見が見たのは、この世の者とは思われない速さで山を疾駆する「翔ぶ女」。そして謎に満ちた「へんろう会」の人々。彼らはいったい何者なのか?二千年の大和の闇の部分を巡る道、二上山の南麓から★葛城・金剛の山裾をぬって風の森峠までのルートは、大和の<闇の細道>にあたる。朝日さす神の山★三輪山に対して、西の二上山は、日の沈む浄土の山。山頂には、悲劇の皇子★大津皇子の墓があり、この世とあの世の境の山。その日から、速見の想像を絶する人生が動き出していく。
・・・私が興味関心を抱いてきた(★印)ことが網羅されており、驚きをもって読み始め、ようやく五木寛之さんの「風の王国」を読了しました。そこで、あらためてこれまでの、さらにこれからのアートを探っていきたいと思い、このシリーズをスタートさせます。
●2巻:幻の族/速見卓は射狩野総業創立60周年のパーティ会場で、密かに愛する「翔ぶ女」との再会を果たした。「翔ぶ女」こと葛城哀に、都内から伊豆山まで約120キロを20時間以内で歩き通すという条件で、すべての謎を明かすことを約束された速見。伊豆の古い旅館で「へんろう会」の真実がついに明かされる!謎の異族たちの秘密とは? そして歴史の闇に葬られた現代国家の暗部までもが暴かれていく。ヒロイン、葛城哀に導かれ速見が見たものは何か?ロマンチック・ミステリーは、いよいよ佳境へ!
●3巻:浪の魂/巨大勢力と対立する速見と哀の選んだ道は?美貌のシンガー、麻木サエラは、巨大な勢力に追いつめられて行く。サエラが生き延びる道はあるのか。謎の一族に同化していく、主人公の速見卓。やがて射狩野グループ・オーナー、猪狩野冥道と対峙した速見は、初めて本当の「山窩(サンカ)」の歴史を知る。封印されてきた歴史の闇が紐解かれる。射狩野グループと「へんろう会」との骨肉の争いは一触即発の臨戦状態に。速見と哀が選択する道は?そして、一族の未来は?
《休筆》2018.5.13 週刊朝日より
五木寛之の壮絶な半生…「二十歳までは生きないつもりでした」
https://dot.asahi.com/wa/2018051000049.html?page=1
――作家生活の中で2度、3年ずつ休筆。もしかしたらそこで「別の人生」を歩んでいたかもしれない。最初は、最も忙しかった1972年、40歳の頃に休筆(1972~1974)しました。その間の1973年に★『面白半分』編集長を半年間務める。週刊朝日の大橋巨泉さんとの対談で「そろそろ仕事を休みたい」って言ったんです。そしたらそれをメディアが拾って、「休筆宣言」が流行語みたいになってえらく騒がれました。一生書かないつもりではなく、ゆっくり考える時間が欲しかったんです。お世話になっていた小説雑誌の編集長には「五木さん、流行作家というのは『流行』というところにアクセントがあるんだから、また戻ってきてやりますと言われても、もう椅子はないよ。その覚悟はあるのか」って言われたんですよね。僕は「また新人賞に応募しますから」って答えました。本気でそう思っていたんです。もともと最初からあまり欲はなくて、本を1冊書きたいとは思っていたけど、どうしても職業作家になりたかったわけじゃない。直木賞(1967『蒼ざめた馬を見よ』)をもらったときも、ああそうなのか、という感じでした。最初の休筆のときは『戒厳令の夜』っていう長編を手土産に戻ってきましたが、戻れなかったら古本屋か、あるいは★ジャズ喫茶でもやってたかもしれませんね。★2度目の休筆は、80年代前半でやっぱり3年(1981~1984)ぐらい。龍谷大学の聴講生となり★仏教史を学びました。これだけ長くやってこれたのも、途中で休んだ期間があるからかもしれない。ぶっ通しでやっていたら、どっかでくたびれていたでしょう。計画的に休んだわけではないけど、結果オーライになって、自分はラッキーだったと思います。人より体力があるわけじゃないから、言葉や文章を道具として使って生きていくしかない。ひょっとしたら、★詐欺師という道もあったかもしれませんね。でも、堂々とウソをつく度胸がないからダメかな。
・・・この「風の王国」は、2度目の休筆後に発表されたもので、「仏教史」を学ぎれていたことも影響しているかもしれません。仏教・浄土思想に関する著作も多い。
《参考》隠された日本(中国・関東)「サンカの民と被差別の世界」著:五木寛之2005
私は、隠された歴史のひだを見なければ、“日本人のこころ”を考えたことにはならないと思っています。今回は「家船」漁民という海の漂泊民から★「サンカ」という山の漂泊民へ、そして、日本人とは何かという問題まで踏みこむことになりました。それは、これまでに体験したことのなかった新しいことを知り、自分自身も興奮させられる旅でした。
・・・移動、漂泊、放浪の民を「サンカ」と呼称し書き記すことについて、慎重でなければならないと思っている。ただ、五木寛之さんのスタンスに寄り添い倣って、この表現(呼称)を用いることにする。
●あの人たちはどういう人なのか、という疑問。
十数年前、私は★二度目の休筆をした。休筆後にはじめて書いたのが『風の王国』という小説だった。その最初のページにはこんな言葉が書きつけてある。
一畝不耕(いちぼうふこう)一所不住(いつしょふじゅう)
一生無籍(いつしようむせき)一心無私(いつしんむし)
それまでにも、移動、漂泊、放浪の民の系譜に触れた小説はいくつか書いた。『深夜美術館』や『戒厳令の夜』などがそうだ。そして、当時、『風の王国』を書くに当たって、サンカと呼ばれた人びとのことを何年間かずっと調べつづけていた。(後略)
●「『それでも生きねば』という生へのこだわり」
★沖浦氏は「幻の漂白民・サンカ」を書かれるにあたって実際に「サンカ」と呼ばれてきた人びと、「最後のサンカ」と呼んでもいい古老と末裔たち、にも会っている。そして、意外にも彼らに会えたのには、「風の王国」が一役買っていたというのだ。(後略)
・・・「風の王国」をもとに「アート」に出会うため、このブログを書きつつ「サンカの民と被差別の世界」を読み深めているところです。
自らサンカと名乗る人びとがいまも存在するということ。しかも、彼らが『風の王国』の熱烈な読者だったということに。私は、いわば小説家としての想像力によって書いているにすぎない。しかし、その作品によって★元気づけられたという人がひとりでもいれば、物書きとしてはこれほどうれしいことはない。それが、思いがけず、「『風の王国』のメッセージは、間違いなくサンカの本体に届いた」と聞かされたのだ。まさに作家冥利につきる思いだった。そのとき、沖浦氏から「ぜひその人たちに会ってほしい」ともいわれた。実際に、その話を聞いた少し後、府中を訪れることになったのである。幻の漂泊民「サンカ」といわれてきた人びとに会うために。
・・・「何を書くのか」「何故書くのか」、この葛藤は「アート(造形)」も同様である。
《参考》「瀬降り物語」監督:中島貞夫1985
https://www.toei-video.co.jp/catalog/dutd03385/
野性に生き、愛に燃え山河をめぐる<漂泊(さすらい)>の民。 男も女も―天空の下を旅している。かつて(昭和10年代の末頃まで)関東以西の地方に、一般社会の人々と隔絶して、山野をさすらいながら生活を送る山の民がいた。彼らは農村近くの川原に瀬降(セブ)りという天幕を張り、箕作り、箕直しを主な生業としていた。その社会は彼ら独自のもので、他を寄せつけず、アユタチと呼ばれる大親分(オーヤゾー)を頂点に、クズシリ(国知)、クズコ(国子)、ムレコ(群子)の各親分(ヤゾー)が、各地の瀬降りを取り仕切り、その生活は、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていた。もしそのハタムラを破るものがいれば、厳しい制裁が待ち受けていた。彼らが理想とする、誇り高き社会を守るために・・・。物語は、戦雲の色濃くなり始めた昭和13年頃を背景に、一族で群子(ムレコ)の親分(ヤゾー)と呼ばれる男とその息子を中心にして、自然の摂理には決して逆らわず、常にそれと一体となって暮らしていた山の民たちの、風俗、生活様式、儀式などを、四季の移り変わりの中で紹介しながら、大地に根ざして生きる人間の逞しさ、哀しさを格調高く謳いあげていく。
CAST★萩原健一/藤田弓子/河野美地子/早乙女愛/永島暎子/光石研/斉藤喜之/内藤剛志/小倉一郎/内田朝雄/林家珍平/小林稔侍/室田日出男/殿山泰司
・・・「瀬降り」とは、彼らが行く先々の川原に張った天幕のことで、山の民を描く映画のため、原生林の残る人里離れた山奥で、スタッフ・キャスト全員で四国の山中に長期間篭り、自らが山の民となり追体験しながら映画製作を行うという方式がとられた。藤田弓子、河野美地子、早乙女愛、永島暎子の4人の女優がヌードになるなど体当たりの演技を見せた原始的な自然に囲まれた「サンカの愛と性」といった内容で、中島貞夫のたいへんな力作だったが、興行成績は振るわなかった。「ショーケン」追悼の思いもあって、DVD鑑賞しました。
【中島貞夫】(1934~)
1964年に『くノ一忍法』で監督デビューし、同年二本目の『くノ一化粧』を撮った後、岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が、中島を本意でない作品でデビューさせたことを気にして「何か一本だけやりたいものを撮らせてやる」というので、本企画を提出した。中島の千葉の実家は醸造関係の仕事を営んでおり、戦前子供のころ、毎年冬になると箕直しをする同じ山窩が家に来ていたのを覚えていて、戦後も★三角寛の小説を読み山窩に興味を持っていた。1964年当時は高度経済成長期でもあり、各地で自然破壊が問題となっていた時期で、そうした時代背景から、人間と自然の関係を今一度見つめ直してみたいというテーマがあった。この頃は三角がまだ健在で三角と何度も話し、三角が山窩を撮ったフィルムを見せてもらったりした。しかし三角の小説に出てくるような猟奇的な部分は映画でやるには難しいと考え、そこは薄めて倉本聰と共同で脚本を書き、少年と少女の淡い恋の話を中心に、なぜサンカがいなくなったのかといった内容でシナリオを書き「瀬降りの魔女」(後年『キネマ旬報』でシナリオのみ掲載されたときは『サンカ』というタイトルに改題)というタイトルで岡田に提出し了承された。主演は春川ますみと西村晃を予定し、神奈川県相模湖をロケ地に決め、プレハブを建てるための整地作業を進め、ロケ期間50日ということも決定していたが、滅多に脚本を読まない大川博東映社長がたまたま脚本を読み★「わけのわからない脚本だ」とクランクイン寸前に製作を中止させた。中島の落胆は激しく2、3ヶ月ふて寝した状態であった。何とか立ち直り、ふて寝状態でやることがないからボチボチ京都市内で取材しながら書いたのが中島の出世作となった1966年の『893愚連隊』。その後も旺盛な映画作りを続け、山の民の話は心の片隅に残ってはいたが、もうこの企画は実現できることはないと思っていた。それから★約20年が経ち、東映社長になった岡田に時折、別の企画を提出してもいたが、1983年に蘇我馬子を題材とする古代史の企画を提出した際、岡田から「それはよその会社にお願いしてこい。そんなのやるなら前にボツになった山窩モノをやらないか、山ン中篭ってやってみるか?」と言われ「ぜひやらせてください!」と答え、20年ぶりに中島念願の企画が陽の目を見ることになった。岡田がボツ企画が復活させた理由は、この年今村昌平監督の★『楢山節考』がカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しヒットしたからである。
1964年の原型からは大きく改変し、時代背景を山窩を消滅へと導いたとされる国家総動員法が施行された1938年に変えた。中島には★権力が一番嫌うのが「さすらい」であるという考えがあった。四季を画面に捉えるべく、一年を通じての話に変更。登場人物をより人間の原像に近づけるように、全て、大自然に寄り添い、大自然の中に生きる人間の像を鮮明にするように試みた。
・・・映画づくりも紆余曲折、だから?深みのある映画になっています。三角寛さんについては、いずれどこかで紹介したいと思います。
《NEWS》2019.4.11朝日新聞デジタルより
かくまったのが縁、寂聴とショーケン「別れようもない」
ショーケンこと萩原健一さんが2019年3月26日に亡くなって、早くも二週間が過ぎた。その間、私はショーケンの追悼文を書きかけては胸に迫ってきて、涙があふれ書けなくなってしまう。仕方がないので、彼と一緒に仕事をした雑誌を繰り返し読んで気をまぎらわせている。ショーケンは生前、私とつきあっている間、いつも私のことを「おかあさん」と呼んでいた。毎朝早く電話がかかり、疳(かん)高い声で「おかあさん、お早よう」と呼びかける。「うるさいなあ、まだ寝てるよ」「もう六時すぎだよ。年寄りのくせにいつまで眠るの。あんまり眠ると、早く呆(ぼ)けるってよ」そういうショーケンは毎朝五時から一時間半も歩きつづけている。自慢のスタイルを保つためだそうだが、毎朝の電話で彼が私に伝えたいのは、二人の女性の噂話(うわさばなし)をしたいためであった。二人ともショーケンの熱烈なファンで、ひたすらショーケンと一緒に歩きたいために、毎朝やってくるという。一緒に歩くのは他にも男女十人くらいがいるらしい。(以下、有料記事)
・・・「瀬降り物語」、ショーケンだからこそ(のため)の映画でした、みなさんも是非。