・・・やっぱり、ミホの「曜変天目」も紹介しておきましょう。
《ミホミュージアムの「曜変天目」》
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000351.htm
中国・宋時代 11-12世紀/高:6.5-6.6cm 口径:11.8-12.1cm 高台径:3.9cm
耀変天目として著名なものと言えば、静嘉堂文庫美術館蔵、藤田美術館蔵、大徳寺龍光院蔵の三点であるが、長く紹介されなかったために一般にほとんど知られていない耀変天目がこの作品である。したがって、かつて世界に三碗のみと言われていた耀変天目が★四碗存在していることになる。耀変天目については『君台観左右帳記』の「土之物」に「建盞の内の無上なり」とあるように、福建省の建窯で大量に焼かれた建盞の一種であるが、偶然窯中で油滴や建盞とは異なる美しい結晶が生じたものである。この作品の場合も耀変独特の輝きをもつ斑文が見込みを中心に現れている。ことに先にあげた三碗の場合は結晶体が数点寄った状態であるが、この天目は斑文がそれぞれ独立した状態で発色している。器形は他の耀変天目や建盞と共通するもので、高台も端正に削られ、建盞独特の極めて細かい胎土が見られる。前田利常以来、前田家に伝来し、前田家の道具帳にも詳しい様子が記載されている。箱蓋表の銀粉字形「曜変」の文字は小堀遠州の筆と言われ、青貝の天目台と二重蔓牡丹唐草金襴の袋が添っている。★『大正名器鑑』所載。
《参考》「大正名器鑑」
高橋義雄(茶人号:箒庵)が、大正15年(1926年)に刊行した茶器辞典。昭和12年(1937年)には普及版として再版されており、いずれの版も国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。高橋義雄は、文久元年(1861年)に水戸藩士高橋常房の四男として生まれ、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出された。明治11年(1878年)ごろ水戸の漢学塾・自彊舎に通っており、その後福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京。明治14年(1881年)慶應義塾に入学して1年間ほど学んだ後、明治15年(1882年)に福澤率いる時事新報の記者になった。のち前橋の商人下村善太郎と知り合い、彼の援助を受けて渡米、その際にデパート経営に興味を持ち帰国後三井銀行へと入社し大阪支店長。明治28年(1895年)には三井呉服店の理事となり諸改革を行い三越の近代化を推めた。のち三井家の重役として腕を揮った。明治44年(1911年)51歳のときに実業界を引退して茶人となり、この「大正名器鑑」や「東都茶会記」などの茶道に関する著作を残した。益田孝、原三渓らと交友関係にあった。昭和12年(1937年)77歳で死去。 多くが国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている。
・・・さてお土産は、ミュージアムグッズも少し購入しましたが、やっぱり「信楽焼」へ。急須や茶碗を購入して、さらに「甲賀の里」から「伊賀の里」へ。
《名阪上野「忍者」ドライブイン》
518-0034三重県伊賀市大内2017番地/0120-141-487
松尾芭蕉と伊賀流忍者のふるさとへようこそ!「名阪上野忍者ドライブイン」は関西方面から三重県への玄関口となっております。かわいいマスコットキャラクターの忍にゃんが皆様をお出迎え!
・・・このドライブインは、昔々から必ず立ち寄るスポットなんですよねえ。「忍者」にもハマっている孫へのお土産も買いたかったし、連れ合いは「赤福」私は、
・・・「赤福」は売り切れでしたが、ほんと久しぶりなんです「かえるまんじゅう」。そしてオチは「忍者トイレ」、くるっと回転する隠しドアがあるとかないとか。