階段(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「階段」が好きですなんて言うと変人みたいに思われるかもしれませんが、村野建築における階段など本当に素晴らしいです。

 

《参考》明治大学理工学部建築学科OKOLAB.netより

村野藤吾の建築における階段とその思想―形態・素材・装飾に着目して―/文:米沢慶介

http://okolab.net/

1964年★新建築に掲載された「日生を語る」と題した対談では「わたしは非常に階段と手摺にはやかましいのですよ」と言い、「動線の美学」にて、階段について村野は「非常にやかましく事務所で言っています。これから先まだいくらか仕事ができると思いますので、よりいいものを作りたいと思います。」と語っている。以上のことからも村野藤吾の設計した階段には、村野藤吾建築の表現において重要な要素であることがわかる。(以下略)

 

《参考》NHK「美の壺」file303「階段ときめきの舞台」

https://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file303.html

 

 

・・・そもそも「階段」に興味を持った原点は、「階段遊び」です。

 

 

《じゃんけんグリコ》

http://www.froebel.ne.jp/yasuhiro/jyugyou/katudohasobi/jyankenguriko/jyankenguriko.html

主に屋外の階段で行われる、じゃんけんから派生した遊びのひとつ。日本の子どもの遊びとして広く知られている。または、グラッツェとも言う。進む際には「グ・リ・コ」と一音節ずつ明確に発声、発声するごとに一歩ずつ進む。「チョコレート」の場合は拗音の「ョ」を一音と捉え、「チヨコレイト」または「チヨコレエト」と発音して6歩、「パイナップル」はそのままでも良いが、慣習的に「パイナツプル」と促音の「ッ」を「ツ」に置き換えて発音されることが多い。3歩の「グリコ」で勝つよりも、6歩の「チヨコレイト」「パイナツプル」で勝ち進むほうが進行の効率が良いため、できるならばそれらの手を出して勝つことが望ましい。しかし6歩の勝ち手であるチョキとパーの両者ではチョキが勝るため、そのチョキに対抗する意味でグーの勝負にも価値がある。勝ち手に優劣を持たせることによって、じゃんけんが本来持つ駆け引きの特性が強調されている。

http://www.eiken.or.jp/eiken-junior/enjoy/welcome/detail03/detail_10.html

調べてみると地方差もあるらしく、グーで勝った際に「グリコのおまけ」で7歩、あるいは「グリコのおまけつき」で9歩進める、という地域もあるようです。発祥は定かではありませんが、話は戦前にさかのぼります。

1922年(大正11)大阪の三越百貨店で栄養菓子「グリコ」を販売。開発・販売したのは江崎商店。

1931年、会社は東京に進出。

1933年(昭和8)2月16日、大阪朝日新聞に「東京でハヤるジャンケンのよび方」広告が載る。この広告でグーが「グリコ」として紹介されると、「グリコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」という字数の数だけ進むという遊びに、関西の子どもたちが変化させ、それが全国に広まっていったそうです。戦前の昭和8年、チョコレートやパイナップルは子どもにとって特別な食べ物でした。そして、この広告を考えたのは★岸本水府、本名龍郎(1892~1965)です。三重県に生まれ大阪で育ちました。大正・昭和初期の川柳作家で、今でいえばコピーライターでもありました。でも、最初からグリコに勤めていたわけではありません。大阪成器商業を卒業して親の跡を継いで大阪貯金局に奉職。川柳に没頭し明治42年、水府の名前で投稿を始めます。大正2年西田当百らとともに川柳同人誌「番傘」を創刊。その後、貯金局を辞め大阪朝報社の記者、桃谷順天堂に化粧広告文案員(コピーライター)として引き抜かれます。コピーライターとしての実力が評価され、大正10年頃、福助足袋に引き抜かれ昭和6年まで務めます。

https://www.glico.com/jp/

その後、グリコの社長、江崎利一氏に引き抜かれます。広告部長となった岸本水府はいろいろなアイディアを出します。新聞の空きスペースを利用し、「豆文広告」を出しました。ヤスメーグリコ タベナサイ、ダレニモヤレヌ ダイジノグリコ、グリコガアルノデ オルスバン、ケンカハオヤメ グリコハオタベ、グリコタベタベ カクレンボ。そんな中、名作コピー「一粒300メートル」が生まれます。

 

 

《参考》『道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代/上巻・中巻・下巻』著:田辺聖子

http://www.osaka-univ.coop/event/book/review/201901/professor/professor.html

 

★食べると遊ぶ-子どもの「夢の小箱」

https://www.glico.com/jp/enjoy/contents/omocha01/

「食べながら遊び、遊びながら食べている。どちらか一方だけでは満足しない、それが子どもの世界」。『食べる』と『遊ぶ』を子どもの二大天職と考えた創業者・江崎利一が考えついたのは、その2つを一体化することでした。栄養菓子グリコが健康な身体をつくり、おもちゃが豊かなこころを育んでくれますように。子どもを想う気持ちから、おもちゃ入りグリコは誕生しました。だから、 オマケじゃなくて「おもちゃ」。大正~昭和、平成と、これまでの歴史の中で生み出されたおもちゃは約3万種類、その数なんと約55億個!一つひとつの素材やテーマは、その時代の経済や文化、家族の暮らしぶりを映しだす鏡。その極小の世界は、子どもの頃の自分に戻れるタイムマシンのようなもの。「あ、そういえばこのおもちゃ、どこかで見たかも」あなたの家の片隅に、机の引き出しの奥に、小さなおもちゃが眠っていませんか?キャラメル栄養菓子「グリコ」に、発売当初は「絵カード」を、やがて1927年(昭和2)から小さなおもちゃが入れられました。最初は市販の豆玩具(まめがんぐ)が中心でしたが、1929年(昭和4)に「おもちゃ小箱」が登場し、オリジナルのおもちゃへと徐々に発展、封入できるおもちゃの種類も増えていきます。中でも人気を呼んだのはメダル。歴史上の英雄などのヒーローをモチーフとした銅製のメダルは子どもたちの間でコレクションすることが流行となり、グリコのおもちゃを広く知らしめる存在となりました。さらに、Glicoは良質なメダルを子供たちに届けようと、1930年(昭和5)には造幣局に頼み込み、60万個を発注!“おもちゃ”に真剣に向き合う意気込みに、造幣局の方々も驚きを隠せなかったそうです。造幣局の年史をめくると、華やかな勲章や金貨の歴史と並んで「グリコのおもちゃを製造」という項目を発見!そこにはメダルのおもちゃとグリコのパッケージがお行儀よく並んで紹介されているのでした。このレトロなおもちゃは★江崎記念館で見ることができるので、気になった人はぜひ行ってみてください。

 

・・・「じゃんけんグリコ」から「階段飛び」へ。小学校の頃、体力テストがあったりして跳び箱や鉄棒(けんすい)が盛んでもありました。跳び箱では何段跳べたかが話題で、階段では何段目から飛び降りられたかを競ったものです。

 

 

《参考》わが国の体操の歴史-特に昭和初期までの器械体操について-/文:村山鉄次郎

1893(明治26)年には、体操教員の養成の場として飯田町に体操練習所を設置し、このほか講演会や幻燈会を催すなどして体育の啓蒙を図るとともに、『文武叢誌』(体育雑誌)の刊行も行った。日本体育会の主目的の一つに、練習場の設置があるが、例えば当時の練習場の設備はといえば、鉄棒、棚、木馬、手摺、★跳び台(12階段)、梁木、回転鐙、遊動円木などであった。これらの設備を使って兵式体操(柔軟体操・器械体操)と銃剣術(銃槍術ともいう)を教えたものである。

 

《参考》「新版器械体操之図」(国利画)/文:大久保英哲

明治 20 年頃の作といわれ、その石垣の形状等から見て陸軍戸山学校を題材としたものという。また、その器械は上左から 1「城壁」、2「手摺(平行棒)」、3★「跳下台(俗称:十二階段)」、4「木馬」、5「跳縄(高跳びのバー)」、6(なぜかこれについては記述がない:大久保)、7「鞦韆(ブランコ)」、8 「梁木」、9「手摺」、10「水平桿(鉄棒)」、11「回 旋鐙 ? ママ 」、12「棚」、13「板壁 ? ママ」(番号は大久保による)と紹介されている。

 

《参考》佐倉兵営跡 (戦争の遺構)「跳下台-ちょうかだい」

http://obatasndsyo.cocolog-nifty.com/ess/2009/08/post-d3c1.html

 

・・・「階段から飛び降りる」という行為について調べますと、「器械体操」につながるものだったことがわかりました。実は、高校時代「器械体操部」に入っていたのです、なるほど。

 

 

・・・大人になって「螺旋」に興味惹かれるようになりました。

 

《DNA》NS遺伝子研究室より

http://nsgene-lab.jp/dna_structure/double-helix/

DNA構造の基本は、ポリヌクレオチド鎖である。このポリヌクレオチド鎖が2本集って、いわゆる『二重らせん構造』が形成される。20世紀の三大発見とは「アインシュタインの相対性理論、フレミングの抗生物質、ワトソン&クリックのDNA二重らせん構造解明」といわれる。DNA二重らせん構造は、1953年、分子模型を構築する手法を用いてジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによって提唱された。当時、DNAが遺伝物質であることの証拠は既に発表されていた。例えば、アベリーらによる肺炎双球菌の形質転換実験(1944年)やハーシーらによるブレンダー実験(いわゆるハーシーとチェイスの実験、1952年)からの証拠である。しかし、複雑な遺伝情報を単純な物質である DNA が担っているという考えには批判も多く、タンパク質こそが遺伝物質であろうという意見も強かった。二重らせんモデルの提唱によって、遺伝がDNAの複製によって起こることや塩基配列が遺伝情報を担っていることが見事に説明できるようになり、その後の分子生物学の発展にも決定的な影響を与えた。1962年、この研究により、ワトソンとクリックはモーリス・ウィルキンスとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 

★「DNAのワトソン先生、大いに語る」/著:ジェームス・D・ワトソン /翻訳:吉田三知世/日経BP社2009

DNA研究でノーベル賞を受賞したワトソン博士(1928年~)が赤裸々に語る自叙伝的エッセイ集です。1976年にワトソン博士がハーバード大学との兼職をやめるまでの研究人生の時期ごとに分けた各章で、よりよい研究のための教訓や流儀を吐露しています。各章の最後には、6~7点の教訓がまとめられ、特徴的な自叙伝となっています。内容は、DNAやバイオロジーの専門的な詳しい解説部分よりは、研究者のあり方や研究の進め方について、彼の考え、信条を率直に語っています。1962年のノーベル賞受賞に関わるエピソード、受賞後に書いた『二重らせん』の裏話など、エピソードが多数盛り込まれています。

<忘れられない教訓 抜粋>

第1章:1自分より大きなやつや犬とはけんかするな2ボールにはできるだけスピンをかけろ ほか

第2章:1大学とは、どのように考えるかを学ぶところである2「なぜ」(考え方)を理解するほうが、「何」(事実)を覚えるよりも大切だ ほか

第3章:1博士論文のための研究では若い指導者に付け2若いやり手には傲慢だという評判が立てられがちだ ほか

第4章:1できるだけ早くファーストネームで呼び合うようにしろ2ありふれた考えは、賢明な精神をも支配している ほか

第5章:1それによって自分は特別な人間だとの思いが持てるような、大きな目標を抱け2面白そうな題が付いているセミナーでは、最前列に座れ ほか

第6章:1明らかに時代に先んじているテーマを選べ2目に見える成果が数年以内に出せると感じる場合にのみ、その問題に取り組め ほか

第7章:1自分の研究の内容を講義に盛り込め2学生たちが持っている、データを超える力に挑め ほか

第8章:1教えることが、難しい問いに取り組むことになる場合もある2講義は生真面目であってはならない ほか

第9章:1根本的な真実は誇張しても損なわれない2軍が関心を抱いているのは、科学者が何を知っているかであって、科学者がどう考えているかではない ほか

第10章:1燕尾服は貸衣装にせず、自前で準備せよ2あなたの名声を頼って持ち込まれた請願には署名するな ほか

第11章:成功は褒賞によって正当に評価されるべきだ2怒りは仲介者を通して吐き出せ ほか

第12章:1誰よりも先におもしろい話を語る人間になれ2賢明な編集者は、高額の前金よりも重要だ ほか

第13章:1熱中するものが二つあるとしたら、一つ多すぎる2 ゴルフには手を出すな ほか

第14章:1あなたが学者としての経歴のなかで頂点に到達する前に、指導者の立場に就くという困難な仕事を引き受けよ2寛容な独裁者たれ ほか

第15章:1 人々を

 

・・・目次を見ただけでも、科学の世界がドロドロしたものである感じです。彼は発見までのいきさつを暴露した『二重らせん』を出版します。科学者たちが周囲を欺いて情報を盗み見たり、ライバルに成果を隠したりした姑息な手段を、生々しく記したこの本は、賛否両論を巻き起こしました。「科学のイメージを壊した」「科学者だって人間だ。その神話を崩した画期的な書だ」よくも悪くも、世界的なベストセラーとなったのでした。日本でも「STAP細胞」騒動は記憶に新しく、事件後に発表した手記『あの日』はベストセラーとなり、2016年5月26日発売の『婦人公論』に、対談記事が掲載された。まるで、「螺旋」は「迷宮」です。