・・・女流写真家★山沢栄子さんを知ったのは「ドーンセンター」ホールの壁画(陶板)でした。
《大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)》
540-0008大阪市中央区大手前1丁目3番49号/06-6910-8500
http://www.dawncenter.jp/top/index.jsp
男女共同参画社会の実現に寄与することを目的として、大阪府が主体となり、1994年(平成6)4月1日に大阪府立女性総合センターとして設立された。乳幼児を抱える女性に配慮された親子室を完備した500席収容のホールを持つ。2009年(平成17年)4月1日に現在の名称となった。
★第17回女性芸術劇場「光をあつめて」
大阪が生んだ日本の女性写真家のパイオニア・山沢栄子をモデルにしたオリジナル作品
◆会場:ドーンセンターホール
◆日時:2012 年3月 23 日(金)24 日(土)25 日(日)
◆演出:深津篤史(桃園会主宰・劇作家・演出家)
◆脚本:高橋恵( 虚空旅団主宰・劇作家・演出家)
◆日替わりゲスト(関西の各分野の女性パイオニアが出演)
23日:玉岡かおる(作家)24日:大崎喜子(元オリンピック水泳日本代表、国際水泳殿堂入り)白井文(前尼崎市長、現グンゼ株式会社取締役)25日:竹中恵美子(経済学者、大阪市立大学名誉教授)
◆出演:片岡百萬両(ミジンコターボ)北村守(スクエア)杏華(兵庫県立ピッコロ劇団)条あけみ(あみゅーず・とらいあんぐる)武田暁(魚灯)得田晃子、中村京子、原綾華(桃園会)村尾オサム(遊劇体)雪之ダン、飛鳥井かゞり(猫会議)大石洋満、諏訪いつみ(満月動物園)速水佳苗、春野恵子(浪曲師)宮川国剛(トイガーデン)吉川育江
【あらすじ】大正時代末期。絵画の勉強のため単身渡米留学した日下部祥子。しかし、彼女がアメリカで出会ったのは“写真”だった。帰国後、祥子は大阪でスタジオを開き、「人間の内面を写し取る」写真を次々と発表。成功をおさめる。が、晩年事故によりカメラを持つことを断念する日が訪れるのだった。大正―昭和―平成と、旺盛な探究心で写真に人生を捧げた姿を愛用のカメラ・グラフレックスが語る一代記。モダン都市 大阪が、戦争で一変。女性の自立と真実、女性の写真家の戦争前中後の一生を描いています。家族のカメラ、戦争で埋まっていたカメラ、大切な写真を撮り損ねた。
【山沢栄子】(1899~1995)
大阪生まれ。1926年、27歳で単身渡米し写真を学ぶ。1929年大阪に戻り、大阪堂島ビルにポートレートスタジオを開設、1935年★そごう百貨店内の3Fのスタジオに移転。関西の文化人や経済人、新劇女優山本安英の舞台写真を手掛けるなどポートレート分野で活躍。60歳を過ぎてから抽象写真に取り組み、新しい世界を開拓、最晩年はコラージュの創作に挑み、生涯、表現の自由を求めた。
《参考》「大阪国際写真センター(OICP)」
・1986大阪市より第3回「咲くやこの花賞」を受賞した★畑祥雄が、写真文化の普及活動を本格的に始める。ニューヨークに本部のある国際写真センター(ICP)(会長コーネル・キャパ)の広報担当アン・ドーティ女史の滞在をサポートしたことがきっかけで、★大阪国際写真センター(OICP)の名前が決まる。「アメリカ現代写真講座」を大阪府立文化情報センターと共同主催で始め、3年にわたり計24回開催する。文部省よりモデル事業として補助金を受ける。大島靖大阪市長との写真談義から、畑祥雄が★「花博写真美術館」構想を発表。キヤノン、日本経済新聞社、大日本印刷などの協賛を得て、花の万博にパビリオン・花博写真美術館の出展計画を正式発表。
・1987花博写真美術館出展委員会を浅沼清太郎氏を理事長に迎え発足、畑が理事に就任する。
梅棹忠夫館長より写真・映画等の保存と運用をする「映像銀行」の研究が教示される。
《参考》「花博写真美術館」
http://www.larueestverslimage.com/
1990年に聞かれた国際花と緑の博覧会」には多数の記念館、パビリオンが立ち並んだ。 その中でもビッグイベントとなったのが「花博写真美術館」であった。「花博写真美術館」は東洋で初めて開催きれた大国際園芸博覧会のメインとなり国内から300点以上の作品、海外からも 300点以上の素晴らしい写真作品を収集して写真を通じて未来の子どもたちに残したい自然、 伝えたい希望をメッセージとして世界中に発信した。ここに写真美術の夢が花咲いたのであった。 また、このイベントでは現在主流になっている★デジタルカメラが公開、使用されたことも初の試みであった。
http://www.caso-gallery.jp/exhibition/2008/080325osaka-pref-photo.html
花博写真美術館出品作品から構成される「花博写真美術館コレクション」は、大阪府現代美術コレクションとして所蔵されています。
http://pmc.opho.jp/utility/bizyutsu/
所蔵作品のうち38点が、枚方市にある「大阪精神医療センター」に貸し出され展示されています。
・1988画像データベースの実験「写真銀行」構想を発表、写真の収集・保存・整理・運用の実施計画を研究する。花博写真美術館の写真収集ディレクターに伊藤俊治氏を指名、「美しい地球」展が企画立案され、オリジナルプリントの購入プロジェクトに発展する。
・1989写真文化普及を目的とした「リバティ表現大学写真講座」を大阪国際写真センター企画により開講。(主催:大阪人権歴史資料館)。主要講師陣に伊藤俊治・飯沢耕太郎氏を迎え、毎年約80人の受講生が写真を学ぶ。文化庁の近現代美術館研修会で畑祥雄が写真の保存・整理の講師を担当。(於 京都国立近代美術館)
・1990「花博写真美術館」を実現、会期中に約130万人の入館者があった。閉館後、収集作品は大阪府が計画中の「現代芸術文化センター」に寄贈。その中の現代美術館に写真セクションを作ることを岸大阪府知事と約束する。
・1991★「山沢栄子」展を企画・プロデュース。東京・朝日会館と大阪近鉄ABCギャラリーで開催。大阪展後、日本写真専門学校の30周年記念事業として、全作品を大阪市(大島靖市長)に寄贈、「大阪市立近代美術館」の主要作品として収蔵される。
NHK番組で特集★「山沢栄子の世界」を共同プロデュースする。同時に、ニューヨークの写真芸術家バーバラ キャスティンが制作したビデオ作品「20世紀の世界の偉大な5人の女性写真家たち」の山沢栄子編を共同プロデュースする。
・1992畑祥雄と中川繁夫の写真集コレクション等を中心に約5000冊の蔵書による「写真図書館」を開設、館長に中川繁夫が就任。大阪国際写真センター・写真図書館を運営する(有)写真文化研究所を設立登記。
・1993ユージン/アイリーン・スミス共同制作の★「水俣」作品の著作権管理をアイリーン・スミスさんより委託される。「水俣」作品の国内及び世界へのディレクト権を持つ。
・1994★ドーンセンター(大阪府立女性総合センター)ホール壁画に★山沢栄子作品をOICP(畑 祥雄・綾 智佳担当)がプロデュース・ディレクションする。
・2009専門図書館を活用した街づくりに協力要請を受け、阪急逆瀬川アピア3の2Fに移転、「★宝塚メディア図書館」としてリニューアルオープン。
2015大阪府茨木市に移転、「一般社団法人★大阪国際メディア図書館」と名称登記変更。
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《大阪国際メディア図書館》
567-0811茨木市上泉町1-15 土方ビル1F/072-627-1091
創設者で写真作家の畑祥雄と、初代館長で編集者の中川繁夫による蔵書の寄託を受け、1992年に開館した「写真図書館」を基盤とし、写真を中心に映像・美術・デザイン・音楽・サイエンスに関する国内外の写真集・作品集・展覧会カタログ・評論集・雑誌・ビデオ・CD-ROM・DVDなど約33,000点を所蔵、一般公開しています。一般書店や公立図書館では入手が難しい海外の貴重な資料も重視しながら、独自の視点でセレクトした資料とともに、当図書館の活動に賛同いただいた個人や団体からの寄贈・寄託による貴重なコレクションも受け入れながら運営しています。定期的にワークショップやイベントを開催し、地域ならびに他機関との組織的な連携で、より一層の発展をはかりながらメディア表現の集積地としてのライブラリーをめざしていきます。
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2017《写真家のパイオニア★「山沢栄子」に再び世界が注目》
http://medialib.jp/other/11085/
~80年代★大阪国際写真センターとして山沢栄子の作品制作をサポート~
山沢栄子は1899年に生れた19世紀の人であることにまず驚かされる。女子美術大学で日本画を学び、26歳で貨物船に乗り西洋絵画の勉強のため米国留学に留学した。そこで、生涯の師となるコンソエロ・カネガ女史に出会い写真を学ぶ。帰国後は、写真の本場仕込みの新しいカメラを使う写真スタジオを大阪の堂島に開設。そこには、小説家の菊池寛、建築家★村野藤吾、経済人の佐治敬三などが性格描写に優れた山沢写真のファンになり、当時の著名人や文化人などが好んで写されに訪れた。また、女性解放運動のリーダであった平塚雷鳥らの活動に女性の自立への関心から賛同し自分のスタジオを会合場所に提供、運動のリーダであった小西綾とも出会い晩年まで親交を続けた。その後も、具体美術協会やデモクラート美術協会で盛り上がる関西モダニズムの画家達との親交を深めながら写真作品を創る。特に、サンパウロビエンナーレの日本代表になった画家の津高和一(大阪芸術大学教授)との友情や日本迎賓館の設計者である建築家の 村野 藤吾 からは信認が厚く村野建築の最後の作品である大阪上本町の都ホテルのロビー天井を抽象写真で表現した。残念なことは、大阪空襲で山沢栄子のスタジオと戦前の貴重な写真作品などは焼失、戦後はフィルムの入手のためGHQのアメリカ兵のポートレート写真を撮りながら写真活動を続けた。当時の写真家では珍しく浜地病院やロックペイントがパトロンになり山沢栄子の制活動を支え続けたのは、戦後の日本の写真界の主流であった雑誌ジャーナリズムやカメラ雑誌のコンテスト写真に興味を抱かず、芸術家としての生き方を貫いた先駆者でもあった。60歳を過ぎ営業写真や商業写真を辞め、アメリカ旅行を機にアブストラクト写真に傾注していく。80年代には米国のコンスドラクト写真の第一人者であるバーバラ・キャスティンが写真の抽象派と女性の表現者の先駆者として世界に紹介し、一躍、世界の写真史に登場する。足の骨折とカメラの重さに悩む最晩年には、ペーパーコラージュで抽象イメージな作品を創り続け個展を開くなど96歳まで創作活動を続けた。80年代の作品制作をサポートし、大阪と東京の新作展覧会をアートディレクションしたのが大阪国際写真センターの 畑 祥雄(現・大阪国際メディア図書館・館長)が、制作の合間にアトリエの撮影テーブルで紅茶を飲みながら交わした対話から日本を代表する写真家でモダニストの山沢栄子から聞いた創造精神を2017年9月29日にJPS展の記念講演で伝える。
《参考》「なにわ塾叢書」ブレーンセンター
昭和の遺言書。賢人たちのメッセージ。『なにわ塾叢書(既刊83巻 1981~2002)』
http://www.bcbook.com/story5-history1.html
大阪府開催による「なにわ塾」の貴重な対話講座を編纂。大阪を土壌として、全国規模で通用する文化再生と創造のシリーズ。なにわ塾は、多彩な人材を生み出した「適塾」「懐徳堂」の伝統と精神を今に生かし、自由と進取の気風に満ちた文化創造の場。(1980年開講)講師には、経済・社会・学術・芸術など、幅広い分野を網羅する各界の優れた先達が登場。コーディネーターには、専門領域にとらわれず、斬新な問題意識でなにわ文化の活性化に取り組む人々を起用。
講座創始時の委員:木村重信(大阪大学名誉教授)・小松左京(作家)・里井達三良(大阪商工会議所副会頭)・末次攝子(ジャーナリスト)・能村龍太郎(太陽工業(株)会長)・元木健(大阪大学名誉教授)・山田俊雄(成城大学名誉教授)
講座終了時の委員:木村重信(大阪大学名誉教授)・熊谷信昭(元大阪大学総長・名誉教授・塾長)・末次攝子(ジャーナリスト)・能村龍太郎(太陽工業(株)会長)・津田和明(サントリー(株)副社長)・萩尾千里(関西経済同友会常任幹事・事務局長)
《参考》「新なにわ塾」
http://www.pref.osaka.lg.jp/bunka/news/shinnaniwa.html
大正・昭和時代を中心に、大阪の足跡を「光と影」「栄光と挫折」の両面から振り返る講座を開催し、
さらに★叢書として刊行することにより、かつて「学問と文化のまち」と言われた大阪の魅力を学ぶ契機とするものです。
《対話講座「なにわ塾」叢書4「建築をつくる者の心★村野藤吾」》
村野藤吾(建築家)。みずみずしい創造力と情熱、ヒューマニズムあふれる村野建築哲学、21世紀の都市・文明、特に大阪の将来を考える道標となる書。聞き手・長谷川堯(武蔵野美術大学助教授)さりげない、ひかえめな語り口にもかかわらず、言葉が、生き物かなにかのように蠢き、飛び跳ねているのを見た。半世紀をこえる長い時間にわたって、建築家として経験を厚く積み重ね、また社会人として熟慮をくりかえしてきた人にのみふさわしい切れ味と闊達さをもつ言葉がいたるところできらめいた。そしてその奥に潜む真実の重さに身動きも出来なくなるような驚きと感動を味わいもした。そうした緊張に満ちた対話の記録がここにおさめられている。1980年の初秋から暮れにかけて、合計4回、日本建築界の長老、村野藤吾先生にお話を聞く機会を、「なにわ塾」によって与えられた。この本はその時の録音をもとに、参加した塾生たちの手によってすべてまとめられ完成した。このような稀有なチャンスを与えられた、村野藤吾先生をはじめ、大阪府、「なにわ塾」関係各位への深い感謝を込めて編集されたものである。
《対話講座「なにわ塾」叢書10「私は女流写真家―山沢栄子の芸術と自立」》
山沢栄子(写真家)の講話。女流写真家の草分け的存在である氏が、男尊女卑の風潮のなか渡米し、劇的な出会いの中から写真に開眼した半生と、作品世界が語られる。聞き手・浜地和子。★ブレーンセンター1983
・・・「なにわ塾」、現在は「新なにわ塾」になっています。叢書の出版が★「ブレーンセンター」(★新宮晋さんのモニュメントがあるビル)そして、★村野藤吾さんも講話されていましたし、今回とりあげた★山沢栄子さんと知り合いで、山沢さんのスタジオが村野さん設計の★「そごう」にあったなんて、好きな人たちがみんなつながっているとは驚きで嬉しいことです。