文房四宝(1) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・芭蕉に「浦島」の句がありましたので、紹介しておきます。

 

★白炭やかの浦島が老の箱/芭蕉

延宝5年、芭蕉34歳の時の作。芭蕉は、この年に俳諧宗匠として立机(プロの俳諧師になること)したらしい。この年22句が現存する。炭には黒炭と白炭がある。黒炭はクヌギや楢などを竈で乾溜した後、酸素を絶って徐々に冷やして製造する。他方白炭は、乾溜後粉末や土を掛けて急速に温度を下げて作る。後者は★茶の湯などに使われ高級な燃料であった。表面が白くコウを吹いたようになるところから白炭という。さて、一句は白炭はあっという間に白く出来上がることから、玉手箱を開けて瞬間に白髪になった浦島太郎の髪のようだという。

 

 

《参考》「枝炭」/茶道入門HPより

http://verdure.tyanoyu.net/sumi07.html

枝炭(えだずみ)は、亭主が客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用いる、躑躅(ツツジ)などの細い枝が二股・三股になった小枝を焼いたもので、普通はこれに胡粉(貝殻を焼いて作った白色の顔料)を塗り白い色にしたもので、★「白炭」(しろずみ)ともいいます。枝炭は、白く塗らない焼いたままのものを「山色」(やまいろ)といい、武家茶に好まれます。枝炭は、炭置の景色と、火移りが早いため、導火の役割もしています。枝炭には、枝が二本のものと三本のものがあり、用い方は流儀により異なります。枝炭は、元来は「光瀧炭」(こうたきずみ)という、炭を赤熱した状態で窯から引き出し灰をかけて消して作った白い炭を用いていましたが、古田織部が細い躑躅などを焼いて胡粉を塗るようになったといいます。『茶譜』に「白炭は、和泉国光瀧と云所より焼出で、又河内くに、さやまと云所より焼出すを瀧炭と云説も有、尤さやまより出る炭も一段吉、光の瀧炭は、鼠色に粉の有白炭也、焼色也、利休も光瀧に増白炭は無之と云し也、右光瀧は、ゆびの太さほどにして小枝有之、或は二つに割も有之、夫より次第にほそいも有、其焼色薄白く灰色なり」「古田織部時代の白炭は小枝有之、細い躑躅などを炭に焼て、胡粉を水溶て上へ塗故、其色白粉のごとし、小堀遠州時代まで用之人多し、然ども如此炭に胡粉を塗て白するは初心なり、焼色の光瀧は勝たり」「小堀遠州時代の白炭は、織部時分の胡粉塗のしら炭に、種々品を替て取合て用之、或は竹の小枝、或は松葉を手一束に結、或は松笠、如此色々の物を集て炭にやき、胡粉を塗、胡粉に墨を入て鼠色に塗、或は埋木の灰を塗て、赤土色して用之、偏に彩色人形を見るごとし、遠州以降は、世にも初心成物と知て不用捨る」とあります。『茶湯古事談』に「白炭ハ上古より和泉のよこ山にてやき出し、公卿官女手にとられてもよこれぬゆへに禁中にて用ひられし由。万葉集のうたに、いかにしていかにやかはやうつミなる横山すミの色のしろさに「よ」。 定家卿のうたに、いつミなるよこ山炭の白けれハとふて(と)もつかすとふ事もなし」「又河内国千釼破よりも白炭やき出し、同国光滝寺の谷よりも白炭をやき出せり、是をハ今の世に光の滝炭共いえりとなん」とあります。『嬉遊笑覧』に「白炭ハ本草にも出、むかしよりこゝにも用ひし物と見えて、新撰六帖に源光俊、何としていかにやけばかいづみなる横山ずみの白くなるらん、今は此處河内なるにや、光の瀧より出づ、本朝食鑑に、白炭は躑躅の木を炭となし、再び火におこし、灰に埋めて白霜を生ずといへり」とあります。

 

 

《参考》京都の公家や茶人に人気があった滝畑の炭/河内長野市の歴史遺産より

https://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/sanpo/rekishi/kinse/kinse30.html

最近、家庭で木炭を日常使用することはなくなりました。時々、キャンプや自宅の庭でのバーベキューや茶道で使うか、焼き鳥屋や焼肉屋などの飲食店で使われているぐらいです。木炭の歴史は古く、弥生時代にはすでに使われていました。市内では古墳時代の終わりごろに、この木炭が焼かれはじめていました。そして、中世から近世にかけて盛んに、木炭を焼く煙が上がっていました。特に、江戸時代になると★滝畑の白炭(焼成の最後に1千度以上にあげ、真っ赤になった炭材を窯から出して、灰をかけて消火し炭にしたもの。備長炭と同じ)や花炭(竹・柿・松葉を炭にしたもの)、枝炭(茶道で火を起こすのに用いる炭)は、その品質と技術、芸術性から全国的な名声を得ました。特に茶道の普及とともにその需要は絶えませんでした。寛永15年(1638)ごろから、京都鹿苑寺(金閣寺)長老鳳林承章は滝畑村の領主である★狭山藩北条家と親交があり、白炭を贈られています。北条家は公家にも贈答品として贈っています。このことから、京都の公家や茶人の間で有名になりました。そして、承章は北条家に頼み、滝畑村から炭焼き人を呼び寄せました。それが慶安元年(1648)の2月16日です。滝畑村からは炭焼きの六右衛門がやってきて、鹿苑寺の裏山で炭焼窯を築いて同月22日には花炭を焼き、多くの見物人を驚かしています。この窯の白炭は時の関白や千宗旦に送られました。また、六右衛門は請われて関白の所領内で白炭を焼いたり、承応3年(1654)には大原の梶井門主慈胤法親王に呼ばれています。この梶井門跡寺院が今の三千院です。このように、都で名声を得た白炭ですが、狭山藩は元禄6年(1693)、使用を藩の贈答品としてのみに限り、商品化を禁止しました。しかし、滝畑村では白炭以外にも黒炭も焼いており、これが主な商品で上質なことから茶道や鍛冶用の炭として珍重されました。★「河内鑑名所記」には、光(香)滝炭として、炭焼きや炭を担いだ人などの風景が描かれています。滝畑以外でも伊勢神戸藩領の天見・清水・流谷村でも盛んに焼かれていたようです。これは、山間部の多いこの地の特産品でもありました。

 

《参考》「河内鑑名所記」/著:三田浄久(1608-1688)延宝7年(1679)刊、6巻6冊

記事:光瀧寺 山号ハ福玉山 行満和尚開基 本尊ハ不動 両脇ハ今金剛せいたか 即行満和尚天竺震旦日本三国の土を以作給ふ霊像也 塔あり 又五丈落る瀧あり 瀧の畑村 泉長寺 観音有 此谷よりくハうのたき★炭うりに出る也

 

 

・・・「老の箱」という表現がとても素敵です、さらに「老」に関する句を調べてみますと、

 

姥桜さくや老後の思ひ出(いで)21  

★白炭やかの浦島が老の箱34  

めでたき人のかずにも入(いら)む老のくれ42  

蛎(かき)よりは海苔をば老の売もせで44  

白髪ぬく枕の下やきりぎりす47  

衰(おとほひ)や歯に喰いあてし海苔の砂48  

炉開や左官老行(おいゆく)鬢の霜49  

老の名の有共(ありとも)しらで四十から50  

鶯や竹の子藪に老を鳴51  

此秋は何で年よる雲に鳥51  

・・・そして、「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」51が最後の句です。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2010_10_02.html

 

・・・「白炭」は茶の湯に使われるわけですが、茶の湯や骨董の世界で「箱」が重要な意味を持っているということは、プログ「シルバー」にも書いたところです。「茶道(茶室)」同様、「書道(書斎)」にも様々な箱があります。

 

《文房四宝》

元来、文人の書斎を文房といい、書斎で書画に用いる用具をも文房と称した。そのうち特に大切な筆、硯、紙、墨を文房四宝と呼ぶ。すでに中国では漢代の頃から、これらの★文房具を鑑賞し、図賛を作って愛用する習慣があった。唐代になって、この四宝を文房の必需の用具として、さらに良質の精巧なものが制作されるようになった。五代の頃の、南唐第3代の主、李煜 (りいく) が制作した澄心堂紙、および李廷珪墨、竜尾硯は最も名高い。宋初には蘇易簡が★『文房四譜』を著わして四宝の源流、製造法、詩文などについて詳説した。

 

 

《参考》「文房四譜」/作:蘇易簡

http://ourartnet.com/Siku/Zibu/0843/0843_149_009/pages/001_jpg.htm

序:聖人之道、天地之務、充格上下、綿亙古今、究之無倪、酌之不竭、是以君子「學、然後知不足也」。然則士之處世、名既成、身既泰、猶復孜孜於討論者、蓋亦鮮矣。昔魏武帝獨歎於袁伯業、今復見於武功蘇君矣。君始以世家文行貢名春官、天子臨軒考第、首冠群彥、出入數載、翱翔青雲、彩衣朱紱、光英里閈、其美至矣!而其學益勤、不矜老成、以此為樂。退食之室、圖書在焉、筆硯紙墨、餘無長物、以為此四者為學所資、不可斯須而闕者也。由是討其根源、紀其故實、參以古今之變、繼之賦頌之作、各從其類次而譜之、有條不紊、既精且博。士有能精此四者、載籍其焉往哉?愚亦好學者也、覽此書而珍之、故為文冠篇以示來者。東海徐鉉

http://ourartnet.com/Siku/Zibu/0843/0843_149_009/pages/121_jpg.htm

 

別に文房四友(ぶんぼうしゆう)という言い方もある。これらは文房具の中心であり、特に賞玩の対象となった。この四つの文房具の中でも特に硯が重んじられ、多くの文人に愛でられる対象となった。使用しても消耗することがなく、骨董価値が高かったためである。次に墨・紙という順で、筆は新しくないと実用的でないので骨董的な価値に乏しく、愛玩の対象とはあまりならなかった。唐代においても硯や墨の優劣について論じたという記録があるが、南唐文化の影響を色濃く受けた宋代以降に文房四宝が語られることが多くなった。硯は端渓硯が最も有名であるが、歙州硯も同じくらい賞玩され、墨も歙州に名工と評される李超・李廷珪父子が名を馳せ、張谷もこの地に移ってきた。紙についても、歙州にて澄心堂紙という極めて良質の紙が産出された。宋初には硯・墨・紙について、歙州は代表的な生産地となっていた。これは南唐の国王である李中主・後主の親子2代にわたる工芸優遇政策によるところが大きい。工人に官位を与え俸禄を優遇したため、優秀な人材が集まり、技術が高度化して、優れた製品を継続的に生産できるようになったのである。南唐期の文房四宝は歴代皇帝に珍重され、復元が試みられた。また、葉夢得・唐詢・欧陽脩・蘇軾・米芾・蔡襄など著名な文人、書家も重用した。

 

・・・大好きな榊莫山さんも「文房四宝」について書いておられます。

 

 

《文房四宝「墨の話」》著:榊莫山/角川選書1981

https://www.kadokawa.co.jp/product/199999851038/

「墨」は作られた日から微妙に変化をつづけ、硯、水、紙との組み合わせで神秘的なまでに墨色を変えていく。実用品としての墨は三十年から五十年で最も冴えた墨色を示し、百年で鑑賞、愛玩用へと役目を変える。一方、紙にえがかれた墨の色は、千年たっても亡びることがない。こうした複雑な墨の特性を平易に説き、手作業による墨作りの様子や、著者愛用、愛玩の名墨の数々を紹介。軽妙な語りで「墨」の魅力を余すところなく伝える。

●文房四宝「筆の話」著:榊莫山/角川選書1981

羊などの獣毛、鳥の羽毛、木や草や頭髪など、筆はさまざまな素材で作られる。筆をもつ楽しみは、こうした個性を前に、書風や書体を考え、筆と息のあった書をものすることかもしれない。多種多様な筆をもつ筆者が、手に入りにくい貴重な筆や珍しい筆を含め、日常に使う筆を、それを用いた書と共に紹介する。さらに、購入する際の選び方、紙に向かうときの構え、使用後の手入れと保存など、筆とのつきあい方についても丁寧に説く。

●文房四宝「紙の話」著:榊莫山/角川選書1981

白い紙と、黒い墨。東洋の深遠な世界。筆、墨、硯の働きの痕跡は紙に宿ることで、千年の時を超える。気まぐれで、いたずらな紙の神秘にふれる話。

●文房四宝「硯の話」著:榊莫山/角川選書1981

人肌を慕い、水を恋う、石。硯は自分との相性で選びたい。惚れこんだ硯で墨を磨るときの、澄みきった気分から美しい墨色は生まれる。魅惑的な石のぬくもりにふれる話。

・真っすぐ前ばかり見とっても、何も見えてこんで。人生、大事なことは横っちょの方に転がってるもんや。

・思い通りにできる、っちゅうのは、決まっていっぱい失敗した後や。

・花ある時は花に酔い、風ある時は風に酔う。

《参考》「花アルトキハ花ニ酔ヒ」/著:榊 莫山/東京新聞出版局1997

「人生には道草が大事」と野の書を求めて日本書芸院などを脱退し、自分の世界を切り開いた書家の自伝。反骨の人、莫山のへそ曲がり★道草人生。

 

・・・いいですねえ「道草人生」、私もそうありたいと思っています。