リバークルーズ(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・個人的には「住友病院」の建物がすきです。

 

《住友病院》設計:日建設計

530-0005大阪市北区中之島5丁目3番20号/06-6443-1261

http://www.sumitomo-hp.or.jp/

大正10年(1921年)7月、住友グループの社会貢献活動の一環として、地域の方々に質の高い医療を提供することを目的に「大阪住友病院」が開設されました。以来90有余年、平成12(2000)年9月には新病院を建設し、21世紀の病院に相応しい「新しい住友病院」として生まれ変わりました。以降も、常に高度で良質な医療が提供できるよう、スタッフと設備を充実し、院内の各種体制の充実を図りながら今日に至っています。

http://www.nikken.co.jp/ja/work/projects/O930227.html

建築物は大阪府第12回みどりの景観賞で景観賞、照明学会の照明普及賞優秀施設賞を受賞した。大阪の中心「中之島」に位置する住友病院(499床)の移転新築である。中之島の景観への配慮と、隣接する大阪国際会議場との隣棟間隔を確保するために、土佐堀川沿いの眺望が広がる敷地南側に円弧形病棟(高層棟)を、中之島の緑道に接する北側に低層の診療棟を配置した。

http://nspacedesign.co.jp/project?item=920

2棟間を3層吹抜けの玄関アトリウムで繋いだわかりやすい施設構成とし、外光が入り、緑や水を身近に感じられる明るく潤いのある空間づくりをめざした。1フロア60床の病棟(1看護単位、個室率45%)は、ナースステーションと2つのナースコーナーを設けベッドに近い看護と小単位化等、将来の病棟運営の変化に対応できる計画とした。また最上階に配したセキュリティーの高いVIP用の特別病棟や、日帰り手術、日帰りドックの新設等、新しい医療サービスを提供できる病院とした。

 

 

・・・倉方俊輔さんは、黒川紀章さんの大ファンということで、解説にも熱がこもっていました。

 

【黒川紀章】(1934~2007)

槇文彦、★磯崎新、谷口吉生らと共に丹下健三の門下生である。1959年(昭和34年)に建築理論メタボリズムを浅田孝、大高正人、槇文彦、菊竹清訓、粟津潔、栄久庵憲司、川添登らと提唱した。1960年(昭和35年)、メタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加。社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。1986年に建築界の★ノーベル賞と言われるフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞した。

《参考》「フランス芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts)」

1648年にルイ 14世のもとで画家、彫刻家、建築家のための王立美術団体として設立され、フランス美術界の最高権威を示す機関となった。 66年にはローマにアカデミア・ディ・フランチアが創設され、ローマ大賞の制定により、受賞者にローマ留学の特典が与えられた。 1795年にフランス学士院を構成する5つのアカデミーの一つとして改組され、新団体は 1816年にルイ 18世によって、Académie des Beaux-Artsと命名されて現在にいたっている (アカデミー・フランセーズ ) 。日本の芸術院をはじめ、世界各国の美術アカデミーの範とされた。

https://www.jaeic.or.jp/other_info/zaidan_information/center-index/qua_bknum/kaigai/kikansi6.html

1671年、フランスは王立アカデミーの一つとして建築アカデミーを創設し、その付属学校としてヨーロッパ最初の建築家養成のための教育機関を設立しました。その後1819年、建築と絵画・彫刻の学校が統合され、総合的な芸術家養成機関としての国立美術学校(エコール・デ・ボザール)は、約150年にわたってフランスの建築家を輩出してきたのです。

 

 

《1999大阪府立国際会議場》

愛称はグランキューブ大阪。大阪国際会議場は通称。府と大阪財界が出資して設立した株式会社大阪国際会議場が指定管理者となっている。地上13階、地下3階の鉄骨造、建物の高さは104.51mである。設計は★黒川紀章による。メインホールは最大2、754人の収容が可能でその他会議室やイベントホールが設けられている。なお、隣のリーガロイヤルホテルとは1階の連絡通路で繋がっており、機能補完が可能である。2000年に日本で開催されるG8サミット(主要国首脳会議)誘致のため大阪国際貿易センターの跡地に大阪府が建設し、2000年4月に開業した。結果的にサミットは沖縄県他(九州・沖縄サミット)で開催される事になったが、2001年に世界観光機関(WTO)総会、2002年の世界水フォーラム、2004年の国際ロータリー大会、2008年6月のサミット財務相会議などの国際会議の会場となった。他にもコンサート、展示会などが開かれている。

 

《NEWS》2019.3.6テレ朝ニュースより

磯崎新氏にプリツカー賞★“建築界のノーベル賞”

建築界のノーベル賞ともいわれるアメリカのプリツカー賞に磯崎新さん(87)が選ばれました。日本人として8人目の快挙となります。今年で46回目を迎えるプリツカー賞が5日に発表され、大分市出身の磯崎さんが選ばれました。磯崎さんはつくばセンタービルや北九州市立図書館といった代表作で知られるほか、ロサンゼルス現代美術館をはじめ、海外でも数多くの作品を手掛けてきました。審査員は東洋と西洋のスタイルを融合させた斬新なデザインを評価したうえで、「伝統にとらわれず、進化に挑み続けてきた」と磯崎さんを称賛しています。日本人のプリツカー賞の受賞は安藤忠雄さんや丹下健三さんらに続いて8人目で、授賞式は5月にフランスで行われる予定です。

 

【磯崎新】(1931~)

CIAM以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。

http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/713/

1980年代以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのようなプラトン立体を多用することで知られている。現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。

夫人は彫刻家の宮脇愛子さん。1970「大阪万博」では、建築家★磯崎新さん(お祭り広場担当)や黒川紀章さん(空中テーマ館担当)、デザイナーのコシノジュンコさん(ユニフォームデザイン担当)、横尾忠則さん(せんい館担当)など当時の若手芸術家がこぞって参加していました。もちろん、「具体」もです。

https://www.tsurumi-ryokuchi.jp/guide/index.html

1990「国際花と緑の博覧会」では、ハナミズキホール(水の館ホール)花博記念ホール(陳列館ホール)が、磯崎新さんの作品です。

 

《参考》「プリツカー賞 (The Pritzker Architecture Prize) 」

アメリカのホテルチェーン「ハイアットホテルアンドリゾーツ」のオーナーであるプリツカー一族が運営するハイアット財団 (The Hyatt Foundation) から建築家に対して授与される賞である。王立英国建築家協会が授与するRIBAゴールドメダルやアメリカ建築家協会が授与するAIAゴールドメダルに比べて歴史は浅いが、1988年に『ニューヨーク・タイムズ』の記事で「建築家にとってこの賞は、科学者や作家たちにとってのノーベル賞のようなものだと書かれて以降、「建築界のノーベル賞」と紹介されることもある。

 

・・・〇〇のノーベル賞という表現は、いろいろなところで使われますね。

 

 

《「堂島大橋」リニューアル工事》

https://www.doujimaohashi.com/

大阪市では、堂島大橋(福島区福島3丁目から北区中之島5丁目)の改良工事のため、平成30年2月12日(月曜日・振替休日)から平成32年1月31日(金曜日)(予定)の間、堂島大橋の車道の通行止めを行います。長期間に渡り、ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解とご協力をいただきますようお願いいたします。

太平洋戦争末期の大阪大空襲にも耐えたが、架橋から90年が過ぎて老朽化が著しい。地盤沈下などの影響で桁下の空間が狭くなり★船の航行に支障をきたしており、床板や床組みなどを全面的に交換して長寿命化を図る。幹線道路を長期間通行止めにして改修する異例の工事となる。

 

《ロイヤルホテル(現リーガロイヤルホテル)》設計★吉田五十八研究室、竹中工務店

http://nspacedesign.co.jp/project?item=920

https://www.tanseisha.co.jp/works/detail/59011

【吉田五十八】(1894~1974)

1923年に東京美術学校建築科を卒業、25~26年欧米に留学。帰国後、東京美術学校教授。建築設計に従事、日本古来の数寄屋造の伝統に現代的感覚を生かし、独自の様式を確立した。東京歌舞伎座の改築や、明治座 (1958) 、日本芸術院会館 (58) 、五島美術館 (60) 、大和文華館 (60) など多くの名作を設計。 52年日本芸術院賞受賞、64年文化勲章受章。東京芸術大学名誉教授、芸術院会員。

《参考》TOTO通信より

https://jp.toto.com/tsushin/2016_newyear/feature0_4.htm

吉田五十八と村野さんは同世代の、とても仲のよい仲間同士でした。おもに吉田五十八は東京で、村野藤吾は関西で活躍し、お互いを意識していたと思いますね。吉田五十八が亡くなった後、村野さんは「吉田流私見『吉田五十八先生の一周忌を迎えて』」(『建築雑誌』75年3月号、日本建築学会)という追悼文を書いています。これはなかなかすごい文章でして、追悼文なのに、ある種の吉田五十八批判になっているんですよ。そこで村野さんは、東京の職人が隅々まで非常に正確に仕上げることに感心し、そこに吉田五十八の影響を感じたと書いているのに、続く後々の文章では、正確な仕事には味気がない、遊びや自然味もない、といったことを主張しています。逆に村野さんの流儀は、自然や遊びを意図した好みだと言っているのです。

 

《中之島バンクス》

https://www.nakanoshima-banks.com/

http://www.clippinjam.com/volume_33/cf_interview_01.html

【間宮吉彦】(1958~)

http://www.infix-design.com/

1958年、大阪府生まれ。1978年、芦屋芸術学院デザイン科に学ぶ。卒業後、設計事務所への勤務を経て、1989年、(株)インフィクス設立。以降、数多くのカフェやクラブの空間設計で注目を浴びる。現在は大阪府との共同プロジェクト★「中之島バンクス」のプロデュースのほか、2010年の上海万博に向けて、日本産業館のデザインを進めている。大阪芸術大学デザイン学科教授。著書に『SPACES & PROJECTS X 100』(文藝春秋社、2004年)など。

 

 

《大阪市庁舎》設計:日建設計

http://www.nikken.co.jp/ja/archives/history/07_03.html

建築を設計するということは、様々な歴史的時間の蓄積を受け止め、遠い未来へ新たな意図と共に投げる営みと言えるでしょう。それぞれのプロジェクトによって、過去を受け取る比重が大きい建築と、未来へ投げる比重が大きい建築とがありますが、どのプロジェクトでも、過去と未来の狭間で新しい建築としての生命が与えられています。ここでは、過去を受け止めながら新たな未来へ投げかけた2つの異なった事例として、大阪市庁舎と日本電気本社ビルを紹介します。

《中之島 LOVE CENTRAL》設計:インフィクス/施工:ハウゼ・クリエイト

530-0047大阪市北区西天満2-1-18/06-6362-1000

http://www.infix-design.com/project/detail/199/

https://love-central.jp/

DREAMS COME TRUEの思いが詰まったイタリアンレストラン「sumile」(スミレ)は、ニューヨークで誕生したDREAMS COME TRUEの思いが詰まったレストラン。吉田美和のソロワークとしてリリースされたファーストアルバム「beauty and harmony」シンボルフラワーであるスミレの花をモチーフに、人々の笑顔 = Smile(スマイル)を願い「sumile」と名付けられました。フロアは、全席 川面を望み、大阪の歴史的建造物「大阪市中央公会堂」も眺められるベストビュー。

 

 

・・・いや~充実したあっという間の「リバークルーズ」でした。今後。このような企画が、本格的に開始されることを期待します。ありがとうございました。