シルバー(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「シルバー」と称するにふさわしい画家・熊谷守一さんについて、もう少し詳しく。

 

《NEWS》2018.11.15共同通信より

熊谷守一の油絵、質入れ疑い/京都の美術商を逮捕

預かっていた画家熊谷守一の油絵を勝手に質に入れたとして、京都府警下鴨署は11月15日、業務上横領の疑いで、美術商「M&R」の代表取締役で、韓国籍の金竜男容疑者(54)=京都市北区=を逮捕した。「質入れしたことは間違いないが、代金を払ったので横領ではない」と供述している。逮捕容疑は2013年9月28日ごろ、買い手をあっせんする委任契約に基づき、最低販売価格2600万円の条件で別の美術商(71)から預かっていた油絵を、京都市内の質店に900万円で質入れし横領した疑い。下鴨署によると、油絵はツバキを描いたもの。金容疑者は、15年1月ごろ絵を第三者に売却した。

 

 

《NEWS》2018.1.11産経ニュースより

熊谷守一展/目に見えるものの背後にある秩序とらえる

http://kumagai2017.exhn.jp/

シンプルな色彩と★赤茶色の輪郭線で構成した油彩画。虫や草花を描いたヘタウマのような絵画は、一度見たら忘れられない。独創的な油彩を制作した洋画家、熊谷守一の没後40年を記念した展覧会が東京国立近代美術館(東京都千代田区)で開かれている。熊谷を主人公にした映画も5月から公開予定。ますます注目が集まりそうだ。ユーモラスで見ていると幸せな気分になる。のんびりとうたた寝をする「猫」や華やかに咲く花、その足元でうごめくカタツムリを描写した「ハルシヤ菊」。生きる喜びと、小さな生き物を見守る優しいまなざしを感じる。ほのぼのとしていて平和だ。そんな朗らかな作品で知られる熊谷だが、20代は「光と影」をテーマにアカデミックで暗く重厚な作品を制作していた。代表作「蝋燭(ローソク)」は、画面全体が闇に包まれ、わずかに人の顔が見えるだけだ。絵画教室を開いたが、生活は苦しく、ようやく絵が売れ始めたのは★50代後半で初めて展覧会を開いてから。年齢を重ねるごとに、形は徐々に簡略化され、色彩は明るくなっていった。熊谷らしい赤茶色の輪郭線と平坦な作風を完成させるのは★70代半ばになってからだった。決して順風満帆な人生ではなかった。私生活では昭和3年、2歳だった次男が急死し、7年には1歳の三女が病死した。さらに、22年には肺結核を患っていた長女が20歳で死去するなど、戦争をはさみ身近で大切な人の死に次々と直面した。70代半ばには体を壊し、遠方へ出かけることができなくなった。東京都豊島区にある樹木が生い茂る自宅で、庭の虫や草花を観察する日々…。97歳で亡くなるまでの約20年間、ほとんどの時間を自宅で過ごした生活ぶりやヒゲを伸ばした風貌から、しばしば仙人と呼ばれた。こうしたイメージとは異なる新しい見方をするのは同美術館企画課の蔵屋美香課長だ。「仙人のイメージばかり注目されますが、科学的な思考を持ち、目に見えるものの背後に隠された秩序を見いだそうとしていたのではないでしょうか」熊谷は鋭い観察眼で自然界を冷静に見つめていた。たとえば「雨滴(うてき)」。庭の水たまりに雨が落ちる瞬間をとらえた。水玉は高速度カメラでとらえたように見える。色彩学を研究し、音の振動数の計算にも熱中。時計の分解修理に精を出し、カメラを自作した。「機械が大好きな理系の人」と蔵屋課長は言う。同じ図柄の作品が多いのも特徴。スケッチした図をトレーシングペーパーでなぞり、それを転写していたというのだ。体を悪くするまでは、お気に入りの山を題材に、しばしば“実験”を試みている。熊谷は「同じものを何度も描くうちによいものが生まれる」と語っていたという。感性だけではなく、試行錯誤しながら綿密に計算して創作していたようだ。晩年、熊谷の家を訪れた随筆家★白洲正子(1910~98)は、エッセーでこう書く。「もっともわかりやすくて、わかりにくいのが、熊谷守一の作品であり、その人間ではないかと私は思う」

https://buaiso.com/ki/shop/by-genre/interior/3056.html

5月公開予定の映画「モリのいる場所」(沖田修一監督)は、熊谷と妻との絆をユーモアたっぷりに描きつつ、とらえどころのない画家の姿を浮き彫りにする。

http://mori-movie.com/

名誉や金銭への欲もなく、生涯現役で人生を終えた。200点を超える作品を集めた回顧展は、奥が深く、不思議な熊谷作品の魅力を伝えている。「熊谷守一生きるよろこび」展は、3月21日まで、月曜休。

 

 

【熊谷守一】(1880~1977)

http://kumagai-morikazu.jp/

日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け★「画壇の仙人」と呼ばれた。

 

・・・「いぶし銀」とニュアンスは違いますが、「仙人」という響きも素敵ですね。

 

1898年(明治31)共立美術学館入学。1899年(明治32年) 召集、徴兵検査で乙種合格(前歯が7本抜けていたため甲種では不合格。日露戦争では徴兵されなかった)。

1900年(明治33)東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいる。

1913年(大正2)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は「馬」他3点のみ。

1915年(大正4)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品する。

1929年(昭和4)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。

1932年(昭和7)後々池袋モンパルナスと称される地域の近く(現在の豊島区千早)に80坪に満たない土地を借り、家を建てる。

1938年(昭和13)同じ二科会会員の濱田葆光のつよい薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。熊谷守一の最初の個展は、意外にも墨絵(日本画(毛筆画))であった。

1947年(昭和22) 二紀会創立に参加。

1951年(昭和26) 二紀会退会。無所属作家となる。

1956年(昭和31)76歳 軽い脳卒中で倒れる。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えた。晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送る。(熊谷守一自身が「約30年間 家から出ていない」などの言葉を残しているが、実際はこの脳卒中以降というのが正しい。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉を残しているが実際はずっと狭かった。)

1967年(昭和42)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47)の勲三等叙勲も辞退した。1976年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に「熊谷守一記念館」が設立される。2015年に「熊谷榧つけちギャラリー」としてリニューアルオープンし、守一作品は同市付知町内に開館した「熊谷守一つけち記念館」へ寄託。現在は、熊谷守一の次女である画家★熊谷榧をはじめ、付知ゆかりの作家三尾公三、牧野伊三郎、三尾暁峰などの作品を展示している。

1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没した。墓所は多磨霊園。

1985年に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる(2007年に豊島区に寄贈し区立の美術館となる。

http://kumagai-morikazu.jp/

2004年には長男・黄(こう)が★『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈。

《熊谷守一の猫》/刊:求龍堂 2004

猫の“気配”をここまで描いた画家がいただろうか。近代日本洋画史に超然たる画風を築いた獨楽の画家・熊谷守一。猫の自由さを愛し、猫が猫らしく生きられるように心をくだき、ともに暮らした日々のなかで描かれた“絶妙なる猫姿”。ネコにくらべてイヌは人間の言うことに気をつかうので、それほど好きではありません(熊谷守一)油彩、水彩、メモの走り描きにも描かれた猫たちを一堂に掲載。ファン垂涎の「猫だけの画文集」。巻末に子息が語った「父と猫と家族と」も掲載。

 

2015年に中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立される。

http://www.morikazu-museum-tsukechi.jp/

 

・・・竹内栖鳳は「しゃっきりの猫」、長谷川潾二郎は「ぐっすりの猫」、そして熊谷守一は「ほのぼの(ほんのり)の猫」。それぞれの猫が素晴らしい。

 

《熊谷守一クロッキー集「鳥獣虫魚」》/刊:神無書房1975

http://www.nonohana-tsukasa.com/kannasyobou/

夫人との日課である碁を取材にきた碁専門雑誌の記者をして「こんなヘタクソな碁は見たことがない!」と驚愕させたエピソードがなかなか良い感じの熊谷守一(1880年4月2日~1977年8月1日)のクロッキーを集めたもの。おおよそ昭和25年から40年頃にかけてのもので、猫や牛、ウサギ、ナツミカンや桃、ナマズなどが描かれている。限定860部のうち★第13番。1975年刊に新たに作品を追加、再編集した新版・普及本は2000年に出版されています。

 

・・・カエルの「鳥獣戯画」が好きですから、熊谷さんの「鳥獣虫魚」を購入しました。

 

 

《参考》「万作の会」

http://www.mansaku.co.jp/index.html

2014.6.11練馬文化センター内・展示コーナーの狂言装束が展示替えになりました

野村万作が名誉館長を勤める練馬文化センターでは、万作愛用の狂言装束などを展示するコーナーが常設されています。このたび、展示されている狂言装束が展示替えになりました。今期は画家★熊谷守一の作品を肩衣にあしらった「守一宵月肩衣」をはじめとする、太郎冠者装束一式が展示されています。こちらのコーナーは、会館の開館時間内であれば、どなたでもご覧になることができます。狂言師が実際に使用している装束を、間近でご覧いただける展示となっております。お近くにお越しの際はぜひお立ち寄り下さいませ。 

★展示場所:練馬文化センター(練馬駅北口徒歩1分)1Fロビー展示コーナー

http://www.neribun.or.jp/nerima.html

NHKのEテレ「 にほんごであそぼ 」で野村萬斎さんが“ 合点れろやひょろろんひょろろん ”とやっていた時に着けていた肩衣の柄も、熊谷守一さんの「宵月」でした。

 

 

《「ほとけさま」書:熊谷守一》/蔵:白洲正子

https://buaiso.com/ki/shop/by-genre/interior/3056.html

正子旧蔵品、熊谷守一の書「ほとけさま」の模しです。書との出会いについては★「鶴川日誌」/刊:PHP文芸文庫にも記されています。

武相荘での日々を綴った「鶴川日記」をはじめ、「東京の坂道」「心に残る人々」の3篇を収録。白洲家のたおやかで温かな昭和の暮らしがよみがえる。「農村の生活は、何もかも珍しく、どこから手をつけていいか、はじめのうちは見当もつかなかった」——。本書は、名随筆家として今なお多くのファンを持つ著者の知性と感性が光る珠玉の随筆集。往時の町田市鶴川での幸福な日々と人々との交流を描いた「鶴川日記」。山の手育ちの著者が憶い出に残る坂を再訪する「東京の坂道」。梅原龍三郎・芹沢銈介そして祖父と過ごした日々を綴る「心に残る人々」を収録する。

 

おととし(昭和四十八年)の春、知人を介して、★熊谷先生に字を書いて頂いた。何でもいい、お好きな言葉を、とお願いしたら、平仮名で「ほとけさま」と書いて下さった。今さら先生の書を云々するのも気がひけるが、それはおのずから頭が下がるような無心な字で、正に日本の「ほとけさま」はこういう姿をしていると、合点させるものがあった。(中略)私に下さった「ほとけさま」は、「すぐ書いたのだが、かけて、眺めている間に鼠に喰われてしまった。それでまた書き直したので長くかかった」と、さも面白そうに笑われた。黒田(辰秋)さんのお盆はお気に入ったようで、しばらく黙ったままで撫ぜていられる。奥様が不思議がって、「あなた、何しているのです」と尋ねると、「どっちが上だか下だか考えているのだ」といわれた。/鶴川日記より

 

・・・白洲ご夫妻も「いぶし銀」ですよねえ。