《俳号「芭蕉」の由来》
江戸深川に構えた庵の号を、当初は「草庵」といったが、そこに植えた★芭蕉の木が立派に生長して名物となったことから弟子達がこの庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになると、これを受けて、天和2年(1682年)、師匠は戯れに自らを「芭蕉」と号するようにもなった。このように、「芭蕉」は戯号(戯れに使う号)である。
・・・「芭蕉の木」について調べてみました。
《バショウ》(芭蕉・学名:Musa basjoo)
バショウ科の多年草。英名をジャパニーズ・バナナと言うが、中国が原産といわれている。高さは2~3mで更に1~1.5m・幅50cm程の大きな葉をつける。花や果実はバナナとよく似ている。熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東地方以南では露地植えも可能である。主に観賞用として用いられる。花序は夏から秋にかけて形成される。実がなることはあまりないがバナナ状になり、一見食べられそうにも見えるが、種子が大きく多く実も綿のようで、タンニン分を多く含む種株もあるため、その多くは食用には不適である(ただし追熟させればバナナ同様食用になりうる実をつける)。琉球諸島では、昔から葉鞘の繊維で★「芭蕉布」を織り、衣料などに利用していた。沖縄県では現在もバショウの繊維を利用した工芸品が作られている。
http://kougeihin.jp/item/0133/
《芭蕉布》/宇治紬物語より
https://tumugi-monogatari.com/culture/data.php?num=901
産地:沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉
特徴:芭蕉は、花を観賞する花芭蕉、バナナの実芭蕉、そして繊維を採る糸芭蕉(イトバショウ)があります。芭蕉布は、バショウ科の多年草イトバショウから採取した繊維を使って織られた布のことをいいます。芭蕉は沖縄県および奄美群島の特産品で、おおよそ500年の歴史があるとされ、琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていました。芭蕉布は薄く張りのある感触から、夏の着物、蚊帳、座布団など多岐にわたって利用されてきました。
変遷:琉球王朝時代は、庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた芭蕉で、各家々で糸を栽培していました。芭蕉布の柄は★縞、格子のほか絣があり、番匠金(ばんしようがね)(大工のかね尺の模様)もよく使われました。製織は高機を使いますが、古くは居座機も使用されていました。芭蕉は沖縄をはじめ、奄美大島の特産でもありました。この地方は亜熱帯で高温多湿であるため、粗く通風性のある芭蕉布が好まれ、古くから着用されてきました。とくに琉球王国時代には、紬、花織などとともに課税の対象となったことから、生産は拡大されましたが、農民は機織りの過酷な労働を強いられ苦しんだと言われています。現在では生産量は極めて少なく、沖縄本島喜如嘉を中心に、竹富島に産出し、夏の着尺地、座布団地などに使われています。1974年には沖縄県大宜味村喜如嘉の芭蕉布が国の重要無形文化財に指定されました。また、1976年(昭和51)に喜如嘉★芭蕉布保存会が、2000年(平成12)に同じく喜如嘉★平良敏子氏が国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
《喜如嘉「芭蕉布」保存会》
【平良敏子】
http://www.vill.ogimi.okinawa.jp/toshiko_taira/
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2011_10/series_05/series_05.html
《NEWS》2018.5.23朝日新聞デジタルより
沖縄)「芭蕉布」人間国宝97歳、フランスTV局が取材
沖縄県大宜味村喜如嘉で暮らし、重要無形文化財「芭蕉布」保持者で人間国宝の平良敏子さん(97)が15日、フランスの民間テレビ局「TF1」のドキュメンタリー番組の取材を受けた。平良さんは「取材を受けるよりも、良い物を作ろうと芭蕉布を織っている時の方が緊張する」とほほ笑みながら、カメラの前で人間国宝の技を披露した。番組内容は、沖縄の長寿を取り上げる25分間のドキュメンタリーで、平良さんのほかにも村内に住む高齢者の生活を追った。取材したオーレリアン・シャパラン記者によると、フランスでは62歳の定年を過ぎた後も仕事を続ける人は珍しく、平良さんのように生涯現役の高齢者は、フランス国民にとって興味深い存在だという。
《芭蕉布》作:山之口貘
上京してからかれこれ
十年ばかり経っての夏のことだ
とおい母から芭蕉布を送ってきた
芭蕉布は母の手織りで
いざりばたの母の姿をおもい出したり
暑いときには芭蕉布に限ると云う
母の言葉をおもい出したりして
沖縄のにおいをなつかしんだものだ
芭蕉布はすぐに仕立てられて
ぼくの着物になったのだが
ただの一度もそれを着ないうちに
二十年も過ぎて今日になったのだ
もちろん失くしたのでもなければ
着惜しみをしているのでもないのだ
出して来たかとおもうと
すぐにまた入れるという風に
質屋さんのおつき合いで
着ている暇がないのだ
【山之口貘】(1903~1963)
薩摩国(移住当時、後大隅国)口之島から、琉球王国へ移住した帰化人の子孫。本名・山口重三郎。現在の那覇市泉崎で、300年続く名家に生まれた。父は銀行の支店長を務めたが、カツオ節製造に手を出して財産を失う。19歳で上京した貘は仕送りを得られず、帰郷。22歳で再び上京し、書籍問屋や鍼灸学校、くみ取り屋などで働きもしたが、知人宅や公園、土管の中、ビルの空き室に寝泊まりする生活を34歳で結婚するまで送る。1937年12月、茨城県生まれの小学校長の五女で32歳の安田静江と結婚し、アパートに落ち着く。長男は早世したが、44年、長女泉(愛称ミミコ)が誕生。一家は疎開先から東京に戻った48年以降、貘の死まで練馬の知人宅の6畳に間借り暮らしを続けた。寡作で、生涯に残した詩は197編4冊の詩集を出した。
http://ryubun21.net/index.php?itemid=11937
フォーク歌手★高田渡が『生活の柄』『結婚』『鮪に鰯』など、山之口の詩の多くを歌った。また、大工哲弘、石垣勝治、佐渡山豊、嘉手苅林次らのミュージシャンと共に山之口の詩に曲をつけたアルバム『貘-詩人・山之口貘をうたう』を作成した。山之口貘さんの詩に出会ったのは、ボクが十八の頃、一年程本棚の片隅に眠っていた。・・・気がつくと貘さんのトリコになっていた、いつの間にか歌っていた。< ラングストン・ヒューズ詩集 >の名訳者で詩人・木島始さんはヒューズ本人に一度も会わずだったそうで。「今想えばそれで良かったのかも知れない?!」と。ボクは今、やっと山之口貘さんに逢えた様な気がしています。ステキな詩は反芻(はんすう)しながら生きていくと思っています。(高田渡)
http://altamira.jp/takadawataru/index.shtml
http://yamaoji.web.fc2.com/m_wataru_baku.html
★「山之口貘文庫」/蔵:沖縄県立図書館
https://www.library.pref.okinawa.jp/archive/Data/cat37/library07.html
《参考》「詩とはなにか」作:山之口貘/青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/001693/files/55175_51973.html
《参考》「黄色地経縞二の字ずらし鍵文様絣芭蕉衣裳」/那覇市歴史博物館より
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item1/1962
芭蕉地の単衣裳。単衣裳とは裏地を付けずに仕立てた着物。黄色地に大きく経縞を配し、縞の間に二の字ずらしと鍵模様を経緯絣で表している。縞には白・青・紺・朱色を用い、アクセントを加えている。王国時代、大柄の絣は高貴な身分の者以外は身に付けられなかった。
《島人ぬ宝》作詞作曲:BEGIN
僕が生まれたこの島の空を
僕はどれくらい知っているんだろう
輝く星も 流れる雲も
名前を聞かれてもわからない
でも誰より 誰よりも知っている
悲しい時も 嬉しい時も
何度も見上げていたこの空を
★教科書に書いてある事だけじゃわからない
大切な物がきっとここにあるはずさ
それが島人ぬ宝・・・
・・・「縞模様」は、「島(沖縄)模様」でもあります。