・・・屋根瓦「甍」の次は、壁の瓦です。
《神田練塀町》
練塀(ねりべい)とは、瓦と練土を交互に積み上げ、上野瓦で葺いた土塀のことです。瓦と土の織りなす★縞模様が美しい塀で、関東ではとくに武士たちに好まれていたようです。江戸時代のこの界隈は、練塀が一帯に広がる武家地でした。ことに南北に神田から下谷まで通じる道には、立派な練塀の屋敷が多かったため、★「下谷練塀小路」と呼ばれていました。古い史料を見てみると「町の南隅の河野某の屋敷の練塀が立派だった」とあります。また、ここには、歌舞伎『天衣粉上野初花』や講談『天保六花撰』で有名な御数寄屋坊主、河内山宗春も住んでいたといわれます。練塀町が正式な町名になったのは、明治5年(1872)のことです。明治11年(1878)、町はいったん下谷区(現在の台東区)に編入されます。その後、昭和18年(1943)に南半分が神田区に編入され、昭和22年(1947)、千代田区ができたときに神田練塀町になりました。さて、明治23年(1890)、町内に国鉄の秋葉原貨物駅ができ、おもに東北地方からの物資の受け入れ口になりました。平成17年(2005)には常磐新線が完成し、電機の町はさらに大きな変貌を遂げました。平成18年3月/練塀町町会
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/bunka/bunka/chome/yurai/neribe.html
★「秋葉原UDXビル」発掘石垣の再利用
101-0021東京都千代田区外神田4-14-1/03-5298-4185
秋葉原UDXの建設に先立ち、平成13年に東京都埋蔵文化財センターによる発掘が行われました。旧神田青果市場の基礎の下からは60mに及ぶ江戸時代中期頃の石垣が姿を現し、解体調査のうえその一部を当ビルのランドスケープデザインとして再び生かすこととなりました。ひとつひとつ丁寧にクサビ状に加工されたこれらの石は重厚なもので当時この地にあった武家屋敷の土台を支えたものであったと考えられています。発掘された石垣の一部は、秋葉原UDXの築堤石垣と駅前広場側のモニュメントとして再利用されています。
《参考》「下谷練塀小路」著:正岡容/青空文庫より
https://www.aozora.gr.jp/cards/001313/files/47645_58845.html
《日本三大塀》
●「信長塀」/神話時代から存在しいていた「熱田神宮」は、三種の神器の一つ「草薙剣」を祭っている。永禄3年(1560)織田信長は桶狭間に今川義元を破った。出陣の朝、熱田神宮に必勝祈願をし、討死濃厚の戦に勝った。お礼に築地塀を奉納した。「信長塀」といわれ、土と石灰を油で練り固め、瓦を積み重ねて建造された優雅で力量感に満ちている。
456-0031愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1-1/052-671-4151
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/
●「太閤塀」/「三十三間堂(正式には蓮華王院)」の境内南端にある。桃山時代に豊臣秀吉が南大門と築地塀(太閤塀)を造営・寄進した。
605-0941京都市東山区三十三間堂廻り町657/075-561-0467
●「大練塀」/兵庫県の「西宮神社」にあり、室町時代に造られたとされている。境内の東から南側までめぐる 247m の土塀、東に表大門と潜門、南大門が付いている。
662-0974兵庫県西宮市社家町1-17/0798-33-0321
https://nishinomiya-ebisu.com/index.html
《生子壁/海鼠壁/なまこ壁》
土蔵などに用いられる、日本伝統の壁塗りの様式の一つで、その壁をもさす。壁面に平瓦を並べて貼り、瓦の目地(継ぎ目)に漆喰を蒲鉾形に盛り付けて塗る工法によるもので、目地の盛り上がった形がナマコ(海鼠)に似ていることからその名がある。この部分は、特に風雨が吹き付ける部分なので、写真の様に瓦を壁に張り巡らして、補強しているのです。竪目地を交互にした馬乗り目地のものもあります。しかし、斜めに張った方が目地の水はけが良くなると考えられたので、斜めに張る『四半貼り』が一般的な形として広まったそうです。
・・・「瓦」って、本当に美しい。