鬼怒鳴門 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・ドナルド・キーンさんがお亡くなりになりました。その功績をたたえつつ、合掌。

 

《NEWS》日本文学研究の第一人者として知られ、文化勲章を受章したドナルド・キーンさんが2019年2月24日朝に心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。96歳でした。ニューヨーク生まれのキーンさんは英訳された「源氏物語」から日本文学に関心を持ち、京都大学大学院に留学しました。帰国後もコロンビア大学で教鞭(きょうべん)を執る傍ら、ノーベル文学賞を受賞した川端康成や、三島由紀夫らと親交を持ち、数多くの日本の作家の翻訳も手がけたほか、「源氏物語」や★「奥の細道」など古典文学の魅力を海外に伝えた。2008年には文化勲章を受章し、東日本大震災の後に被災地の人たちの懸命に生きる姿に感銘を受け、日本永住を決意し翌年に「鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)」という名前で日本国籍を取得し、注目されていた。キーンさんの自宅がある東京・北区の区立中央図書館には特設コーナーがあり、寄贈された直筆原稿や書籍が展示されています。北区立中央図書館・堀田哲二館長「もうお会いできなくなるっていうのが残念ですね。地元の商店街に行かれている姿とかそういったところを見ると、(日本の)魅力を感じてこられたのかなと思います」キーンさんの養子のキーン誠己さんは「日本文学に生涯を捧げ、日本人として日本の土となることが父の長年の夢でしたから、このうえなく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしました。キーンさんは去年秋頃に体調を崩し、3週間ほど前から入院していたということで、葬儀は親族のみで行われ、来月に「お別れ会」が開かれる予定になっています。

 

 

【Donald Keene】(1922~2019)

アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、本名を出生名の「Donald Lawrence Keene」から、カタカナ表記の「キーン ドナルド」へと改めた。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。称号は東京都北区名誉区民、新潟県柏崎市名誉市民、ケンブリッジ大学、東北大学、杏林大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。また、日本ペンクラブの名誉会員であり、2012年11月26日の日本ペンクラブ創立記念懇談会では演説を行った。

1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年(昭和17年)に学士号を取得。コロンビア大学当時はフランス文学も研究していたが、ともに日本語を学習したポール・ブルームから、「フランスに比べて日本は研究者が少ない」という理由で日本を研究することを薦められたという。1941年12月の日米間の開戦に伴ってアメリカ海軍の日本語学校に入学し、長沼直兄の『標準日本語讀本』などで日本語教育の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。1943年(昭和18年)4月、通訳官として訊問した最初の捕虜が、のちに作家となった豊田穣であった。

ドナルド・キーン氏は東京外国語大学の名誉教授でもあるが、『東京外語会会報』への寄稿では「実は東日大震災が起こる前から日本への永住を希望していた」とのことである。第二世界大戦中、軍国主義の日本と浮世絵文化の美しい日本に戸惑っていたが、捕虜の日記の中に「ふるさとに帰りたい」という文章を見つけ日本人の葛藤する心が分かったそうである。3月10日の空襲の翌朝、家を焼かれ家族を失った人々が上野駅で整然と疎開列車を待つ姿を見て「私はこの人々と生きこの人々と共に死にたい」という若い作家の文章に感銘を受けたそうである。

 

 

【ドナルド・キーンの東京下町日記】重なる大震災と空襲/2015.3.8東京新聞より

また三月が来た。二万人近い死者・行方不明者を出した東日本大震災から四年。被災地から離れていると忘れがちだが、震災前の生活を取り戻せていない被災者は少なくない。原発事故はいまだに現在進行形で、郷里に戻ることすらできない人々も大勢いる。震災発生の日、まだ米国人だった私はニューヨークの自宅でテレビにくぎ付けだった。真っ黒い津波が街を襲い、家屋をなぎ倒す。津波が引くと街は跡形もないがれきの山。私は太平洋戦争の終戦直後に訪問した東京を思い出した。米海軍の通訳士官だった私は、派遣先の上海から空路で東京郊外の厚木基地に到着した。軍用車で都心に向かうと、一面の焼け野原。何もない大平原に立っているかのようで、地平線が見えた。多くの犠牲者が出たことを想像し、暗たんたる気持ちになった。当時の東京を日記に残した人気作家がいた。★高見順である。終戦の前年から東京は断続的に空襲を受けた。そして小笠原諸島南端の硫黄島で日米が激戦中だった七十年前の今月十日、歴史に残る大空襲はあった。鎌倉で暮らしていた高見は大空襲を知らなかった。その翌々日に浅草を訪ねてぼうぜんとした。「浅草は一朝にして消え失(う)せた」「(浅草寺の)本堂の焼失と共に随分沢山(たくさん)焼け死んだという。その死体らしいのが、裏手にごろごろと積み上げてあった」と記した。そして、子どもと思われる小さな遺体を見て「胸が苦しくなった」。一方、鎌倉では「米軍の上陸が近い」とのうわさが広まっていた。ある日、高見は母親を疎開させようと上野駅に向かった。すると駅には列車を待つ被災者の長い列。家を焼かれ、家族を失い、打ちひしがれていたはずなのに、静かに辛抱強く待っていた。その様子に高見は心を打たれた。「私の眼に、いつか涙が湧いていた」★「私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」彼が愛した、そんな日本人は今も生き続けている。四年前の震災直後、被災地では暴動が起こるでもなく秩序は保たれ、避難所では少ない食料を分け合い、子どもが高齢者の手を取って支え合った。その光景に世界は涙した。私も高見と同じ心境だった。「日本人と一緒に生きたい」と。高見が戦時中に身辺雑記を事細かに書き留めた日記は、もはや文学である。戦後、私は高見と知り合い、よく著書を送ってもらった。一九六五年に食道がんで五十八歳で早世した彼を最後に見たのは地下鉄の車内だった。白いスーツを着た好男子の高見は六、七人の若い女性と一緒だった。三三年に共産主義者との嫌疑で摘発された高見は、拷問を受けて転向を宣言した。その体験もあって「表現の自由」には思い入れがあった。空襲被害を報じなかった新聞に「いいようのない憤りを覚えた。何のための新聞か」。戦後、言論統制が解かれ「(占領軍によって)自由が束縛されたというのなら分かるが、逆に自由を保障された」と書き残している。時は流れて現代。大震災の被災地と空襲後の東京が重なって見えた私は、高見に共感するところがある。人心は移ろいやすいが、大震災と原発事故の被害が続いている限り、何年でも報じ続けてほしい。(日本文学研究者)

 

【高見順】(1907~1965)青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/001823/files/57024_58173.html

『高見順日記』は、作家高見順の代表的な著書で、昭和20年前後は今日まで重版されている。1941年(昭和16年)1月から書き始められた。初版単行本は生前の1959年に『完本・高見順日記 昭和二十一年篇』(凡書房新社)で出版された。文庫判は、1945年分をまとめた『敗戦日記』(文春文庫、1981年、新装版1991年、中公文庫、2005年)、続編(1946年分)の『終戦日記』(文春文庫、1992年)がある。作者は戦後しばらくし、再び丹念な日記を残している。1960年から1963年8月26日までの日記が、没後に『高見順日記・わが文壇生活』として、『世界』1967年1月号から1968年1月号に連載された。のち知人の作家中村真一郎の編集により、1990-91年に新版で『高見順 闘病日記』(上・下。岩波書店同時代ライブラリー)と、続編『高見順文壇日記』(全1巻。同)が出版された。病没する前年の1964-66年に、『高見順日記』(勁草書房、1941-1951年分)が、1975-77年に続編が、初期の日記・断章や戦後分も入れ出版されている(正+続併せ全17巻、勁草書房)。日本文学研究者★ドナルド・キーンは、戦時中の文学者の日記を分析した『日本人の戦争 作家の日記を読む』(文藝春秋、2009年、のち文春文庫)で研究対象としている。

 

 

《ドナルド・キーン・センター柏崎》

945-0063新潟県柏崎市諏訪町10-17/0257-28-5755

http://www.donaldkeenecenter.jp/

2011年8月末、設立に向けて始動したドナルド・キーン・センター柏崎。2013年9月21日、新潟県柏崎市に開館いたしました。70年を超える歳月、日本文学や日本文化を一筋に研究し、海外に伝えてきたドナルド・キーン先生の「人となり(Chronicle)」や「作品・仕事(The works)」を、先生の日本への思いを、さまざまな展示や映像で紹介しております。

ドナルド・キーンさんについては、いまさらのべるまでもなく、芭蕉研究の第一人者であり、英訳などによって、芭蕉の俳句を世界にひろめた功労者である。とても短い芭蕉の「おくのほそ道」を英訳された人として知られている。

「百代の過客」――

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老(おい)を迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、――

“The travelers of eternity”

The months and days are the travelers of eternity. The years that come and go are also votagers. Those who float away their lives on ships or who grow old leading horses are forever journeying, and their homes are wherever their travels take them. Many of the men of old died on the road, and I too for years past have been stirred by the sight of a solitary cloud drifting with the wind to ceaseless thoughts of roaming.

とてもやさしく、無駄のない、きりりとしまった英文に書き起こされた。もとよりドナルド・キーンさんは、俳句の英訳もなさり、松尾芭蕉の呼吸まで知り尽くしている方である。たとえば「閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声」の「iwani shimiiru semi no koe」というとき、「i、i、i」とつづくのは、ここでは「蝉の声」であるといっている。キーンさんの俳句を勉強なさっていたころのエピソード「草の戸も住み替る代(よ)ぞ雛(ひな)の家」の「草の戸も」の部分がわからなくて困ったという。これは、草でできたドアのことだろうか、そんなドアなんてあるのだろうか?とおもわれた。コロンビア大学大学院で、角田柳作という人から芭蕉の「おくのほそ道」を学んだ。もしも角田先生に出会わなかったら、日本文学の古典を知らずにいただろうと。そういう意味で、キーンさんは、「おくのほそ道」には格別のおもい入れがあり、知らないことがわかったときの喜びようは、まるで少年のようだ。

 

 

★「芭蕉終焉の地」/ガスビル食堂物語より

https://www.osakagas.co.jp/gasbuil/leaflet2/hito10.htm

もうずいぶん昔のことですが、大阪の適塾で★司馬遼太郎さんと対談した後に、二人で御堂筋を歩きました。南御堂の前では、芭蕉翁終焉の地の石碑の傍らに立ち、松尾芭蕉がこの地で生涯を閉じたことやその後の時代の移り変わりについて語りました。私が、長年の夢がかなって日本にやって来たのは、★昭和28(1953)年のことです。京都に2年間留学し、近松門左衛門について博士論文を書きましたが、同じ元禄時代に生きた井原西鶴や松尾芭蕉にも、やはり深い関心をもっていました。だからその後コロンビア大学で日本文学を講義するようになった際には、私は教材として芭蕉の『奥の細道』を用いました。その理由は、芭蕉は私にとって、時代や文化を超えて共感できる非常に近しい人間であるからです。

 

 

・・・多くの「外国人」が日本に来られています。観光地だけでなく、日本の文化や自然に興味をもって来日されています。キーンさんが世界に「日本」の素晴らしさを発信してくださり、そして今オリンピックや万博など、今後ますます「日本」が注目されていくことでしょう。だからこそ、「日本」「日本人」そして私たちの「伝統文化」について真剣に考え直さなければならない時代が来たのではないでしょうか。