・・・芭蕉に「縞」という言葉が含まれた句はありませんでしたが、「甍(いらか)」がありました。
《くわんをん(観音)のいらか見やりつ花の雲》/はせを
貞享三年(1686)43歳の作。深川★芭蕉庵から★浅草寺の方を遠く眺めた句である。はるかに遠く浅草観音の方角に目をやると、遠近一面雲と見まがうばかりの桜が咲き連なって、その中に観音の大屋根だけが黒く小さく眺められる。「花の雲」は一面の桜を雲に見立てる古来の表現法である。其角によれば、この句は芭蕉が深川の草庵で病気で寝ていた時に作ったらしい。この時代、深川芭蕉庵から浅草の観音様の屋根がみえたという。この間、真北に3.5km程度の距離。「花の雲鐘は上野か浅草か」はこの翌年の句。上野と浅草の時の鐘は芭蕉の句にもある通り有名ですが、芭蕉が聞いたのは、上野の時の鐘だったと言われています。芭蕉の句碑が「時の鐘」のそばにあります。この句碑は、寛政8年(1796)、芭蕉の103回忌に、浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くに建てられたものが、戦後この地に移建されたそうです。
俳号「芭蕉」の由来は、江戸深川に構えた庵の号を、当初は「草庵」といったが、そこに植えた★芭蕉の木が立派に生長して名物となったことから弟子達がこの庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになると、これを受けて、天和2年(1682年)、師匠は戯れに自らを「芭蕉」と号するようにもなった。このように、「芭蕉」は戯号(戯れに使う号)であるがゆえ、改まった場面で使われることはなく、そのような場面で使う主たる俳号は「桃青」であった。つまり、元来は桃青が主たる俳号で、芭蕉は別号の一つであった。桃青は、憧れの詩人であった唐の「李白」を元にした俳号であり、「梨」と「白」で「李白」と号すなら、(未熟な)自分は「桃」と「青」で「桃青」と号す、というもじりである。「はせお」は当時の仮名表記(本人の仮名表記は「はせを」)であり、発音は現代表記の「ばしょう」と変わらないか、もしくは「はしょう」。
《浅草寺》
111-0032東京都台東区浅草2-3-1/03-3842-0181
時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。大化元年(645)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法(でんぼう)の掟は厳守されている。
★松尾芭蕉句碑:弁天山石段の左方。寛政8年(1796年)建立。
★『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑:浅草神社鳥居脇。平成17年(2005年)に秋本治の漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の単行本の発行部数が1億3,000万部を突破したことを記念するため建立された。同作品の主人公である「両さん」こと警察官両津勘吉は浅草育ちという設定になっており、両津の少年時代のエピソードを題材にした「浅草物語」の巻に浅草神社が登場した縁により建立されたものである。
《参考》「小名木川五本松と芭蕉の句」
https://koto-kanko.jp/theme/detail.php?id=TH00003
松尾芭蕉は延宝年(1680)冬より小名木川と隅田川が合流する辺りにあった深川★芭蕉庵に住んでいました。「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は元禄6年(1680)、50歳の秋に小名木川五本松のほとりに舟を浮かべ、「深川の末、五本松といふところに船をさして」の前書きで「川上とこの川下や月の友」の一句を吟じました。この句は、「今宵名月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」の意で、老境に入った芭蕉が名月を賞しながら友の事を想う心が淡々と詠まれています。
「五本松旧跡」(猿江二丁目16番 小名木川沿い)とは、江戸時代、丹波綾部藩九鬼家の下屋敷の庭にあった五本の松の大木のことで、徳川三代将軍家光公がその小名木川の川面に張り出した立派な老松を激賞したことから、「小名木川五本松」として、また、月見の名所として一躍江戸市民の人気を博しました。この芭蕉句碑は、その地にあった住友セメントシステム開発株式会社が創立20周年を祝して平成20年12月4日に社屋の敷地に建立したものです。今回同社屋の移転に伴いご寄付をいただきここに再建立しました。 平成24年3月吉日
なお風雅の心を同じゅうする友とは、芭蕉の友人として親しく交流していた山口素堂であろうと言われているそうです。山口素堂は芭蕉とは2才違いの葛飾派の俳人で有名な句に”目には青葉山ほととぎす初鰹”があります。
《参考》「瓦屋根設計コンクール」(甍賞)
http://www.kawara.gr.jp/10_iraka/
「瓦」(かわら)が歴史上、初めて登場したのは約2,800年前の中国といわれ、日本にはおよそ1,420年前の西暦588年に百済から仏教とともに伝来し、飛鳥寺で使われたのが初めてとされています。 その後、日本において「粘土瓦」は優れた特性と造形美により受け継がれ、屋根材料として広く普及し、長い間、日本の美しい風景をつくりだす重要な要素の一つとして、必要不可欠な存在として歴史を刻んできました。瓦葺き屋根の並ぶ光景は、まさに伝統的な日本ならではの美しい街並みを特徴づけるものであります。私どもは、この素晴らしい素材「粘土瓦」が生むさらなる建築美を求め、数年に一度、「粘土瓦」を使用した建築物や構造物の優れた実施例を表彰、また次世代の建築を担う学生の方々を対象に、これまでの「瓦」にとらわれない新しい「瓦」の使い方に関するアイディアを募集する「甍賞」を開催しております。
《天平の甍》著:井上靖/1957中央公論社/装釘:橋本明治
http://inoue-yasushi-museum.jp/
天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら―在唐二十年、放浪の果て、高僧鑒真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ…。鑒真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。
●文学碑「天平の甍」
平成8年5月25日、唐招提寺境内にある鑑真和上の御廟の横に、文学碑『天平の甍』が建立された。重量感のある生駒石の表には、井上靖氏の直筆『天平の甍』の文字が、裏には現長老 遠藤證圓大僧正の揮毫の一文が刻まれている。
千載の昔 淡海三船元開撰述の「唐大和上東征傳」あり
早稲田大学教授 安藤更正博士 「鑑真大和上傳之研究」著す
作家 井上靖氏 その教示を得て小説「天平の甍」を世に贈る
大和上の行實 巷間に広まるは両氏の功大なり
一九九六年五月吉日 唐招提寺 第八十二世長老 證圓
《鯉のぼり》作詞:不詳/作曲:弘田龍太郎
1913年(大正2)に刊行された『尋常小学唱歌 第五学年用』が初出。文語調であるため、最近は口語調の「♪屋根より高い…」で始まる『こいのぼり』のほうがよく歌われ、この歌はあまり歌われなくなっている。
1
甍(いらか)の波と雲の波 重なる波の中空(なかぞら)を
橘(たちばな)かおる朝風に 高く泳ぐや、鯉のぼり
2
開ける広き其(そ)の口に 舟をも呑(の)まん様(さま)見えて
ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には 物に動ぜぬ姿あり
3
百瀬(ももせ)の滝を登りなば 忽(たちま)ち竜になりぬべき
わが身に似よや男子(おのこご)と 空に躍るや鯉のぼり
【福田平八郎】(1892~1974)
大分県出身の日本画家。号は素僊(そせん)、九州。印に「馬安」を用いるが、父・母の名前にちなむ。鋭い観察眼を基にした、対象がもつ雰囲気、美しさを抽出した表現が特徴とされる。生涯「水」の動き、感覚を追究していたとされ、「漣」は昭和天皇と一緒に魚釣りに行ったときの、池面に映る水面の模様を描写した作品(大阪市立近代美術館建設準備室所蔵/重要文化財)である。
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/gallery_05.html
1932年(昭和7)絹本白金地着色/156.6×185.8cm
福田平八郎は若い頃から水辺の光景を画題にしていますが、40歳で描いた《漣》は水鳥や草木などは描かず、水面に揺れる波だけを絵にしたことで、それまでの日本画の常識を覆す新しさを示しました。釣りをしていた画家は、湖の表面で肌にも感ぜぬ微風が美しいさざなみを作っているのを見て絵の着想を得ます。瞬間の動きで変化する波の形をつかむため、スケッチや下図で構図を練り、陽を浴びてさざめく波が揺らぎを静かに遠くまで運ぶ様子を簡潔に表現しました。発表時の第13回帝展では賛否両論ありましたが、近代日本画が新境地を開いた先駆的な試みとして高く評価されています。プラチナ箔の上に群青の顔料が置かれた画面の、プラチナ箔の下に金箔が重ねられていたことが、近年の修復で判明しています。
★雨(東京国立近代美術館所蔵)
1953年(昭和28)/彩色・紙本・額・1面/108.7×86.5
http://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=2213
《甍公園》
656-0314兵庫県南あわじ市松帆(西淡三原インターチェンジ前)
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/soshiki/shoukou/awaji-kawara.html
淡路島の地場産業である淡路瓦の良さを伝えるため、地元の西淡町も事業に参加し、★山田脩二氏の監修により「太陽の光をあびて、銀色に輝く瓦の丘公園」を基本コンセプトに、公園入口には、甍(いらか)公園の顔となるジャンボモニュメントの「青海波ピラミッド」を配置し、駐車場前のトイレ棟は建物全体を本葺瓦で葺いて覆い、のり面部分もいぶし桟瓦を引掛桟瓦葺工法で施工し、遊歩道の壁には、 敷き瓦を貼り、トイレ棟下の壁には、のし瓦を積み重ね、遠くから見ると、瓦の丘、又は波打つ瓦の古墳に見えるよう設計してあります。又、遊歩道には瓦をリサイクルした煉瓦「淡路クレイブリック」を使用し、ベンチ周辺は、敷き瓦を使用するなど、まさに甍(いらか)公園の名にふさわしい、瓦づくしの公園になっています。