模様(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「立涌」から「縞」へ。「藍染」(色)について調べている頃、「松阪縞」(柄)と出会いました。今でも大切にしている「ハンカチ」があります。

 

 

《松阪縞》

http://matsusakamomen.com/

伊勢の隣町、松阪で生まれた木綿の生地。江戸時代には粋な江戸っ子の普段着として大流行。百貨店の三越、松阪屋の基礎は、どちらも呉服屋であったことはご存じの方も多いと思います。松阪もめんが江戸や日本全国に知られることになったのは江戸に店を構えた松阪の商人たちが、「松阪もめん」を売り広めたからで、その商人の中心となった人物は三井高利という三井財閥=三井銀行・三越百貨店などの生みの親です。粋を誇りとした江戸の庶民にとって、倹約令でお仕着せだった着物の中で、最大限のオシャレは★「松阪ジマ」。粋とは、飾り立てず派手に目立たぬこと。少し離れると地味な無地に見えるが、よく見れば繊細なすっきりとした縦縞が走る「松阪もめん」は、粋の感覚にピッタリでした。当時の江戸の人口100万人に対し、なんと年間50数万反もの売り上げがありました。その昔より松阪の近郊では神宮に納める布を織る「機殿」があり、その歴史は古く、大陸より渡来した「呉織」が布を織る技術を伝えたと言われます。室町時代に綿の栽培が普及し、木綿織が定着しますと、農家の主婦が盛んに織り、その後、南方と交易していた角屋七郎兵衛が★ベトナムより持ち込んだ縞柄が、今の松阪木綿の縞柄のもとになっていると言われています。“松阪縞”のルーツは、安南国[今のベトナム]中央部、むかし交趾(コーチ)といって日本人町も残っているホイアンあたりで織られていた★「柳条布」と言われています。この「柳条布」とは、文字通り柳の葉の葉脈のような細い筋模様で、「千筋」や「万筋」などと呼ばれ、松阪もめんでは最も古典的な柄です。そして、貿易風を頼りに嶋伝いに渡ってきた舶来(嶋渡り)が由来となり、「シマ」という発音となって現在に至っているのです。

歌舞伎役者がたて縞の着物を着ることを「松阪を着る」と言うほど、たて縞といえば松阪木綿!とされているとか。“粋な着物”の象徴として語り継がれているのだそうです。正藍染と呼ばれる江戸時代から伝承されている技法で、天然藍で染めた生地は肌さわりがよく、保温、防虫、殺菌の効果もあるといわれています。洗うほどに肌に馴染み、味わいが出てくる魅力的な生地なのです。

 

 

《松阪もめん手織センター》

515-0081 三重県松阪市本町2176 松阪市産業振興センター1F/0598-26-6355

1984年に三井家跡地に開設され、現在織られている全柄(機械織り)と、手織りのオリジナル柄の反物販売をしている松阪もめん専門店。着物や作務衣、シャツ類などを販売している。「松阪もめん一日織姫体験」として、機織りを実際に体験し、織った布は持ち帰ることができる。

安土桃山時代の名将、蒲生氏郷によって開かれた「松阪」、松阪城を中心とした城下町には、越後屋の名で知られる三井家を筆頭に、小津家、長谷川家などの豪商が店を構え、東海随一のの商都として繁栄。その礎となったのが、鮮やかな藍色が縞模様に映える松阪木綿だった。江戸時代の最盛期に出荷された木綿はは50数万反という、当時の50%にも及ぶシェアを誇り一世を風靡した松阪木綿も、時代の趨勢とともにその勢いは衰え、1980年代にはわずか1件の織布業者を残すのみとなっていく。その松阪木綿を復興させようと有志が集まって立ち上げたのが現在の「松阪木綿振興会」の前身、『あいの会「松坂」』。この「あい」には、藍色の「あい」、郷土愛の「あい」、出会いの「あい」の三つが含まれているとのこと。40数名によって始まった草の根運動が実を結び、1984年7月7日、松阪城址のほど近くに「松阪木綿手織センター」がオープン。このセンターでは機織り機を使った松阪木綿の手作り体験も行っており、最近ではカップルでの来店も多いそうだ。最初に興味を持つのは女性が多いが、木綿作りは意外と男性の方が丁寧な仕事ぶりだという。松阪木綿のこだわりは?と伺ったところ「カラフルなデザインなどにはこだわらず、伝統的な藍染を守ること」という答え。昔ながらの手仕事とその心意気、自然の恵みを活かした藍色の縞には数百年の物語が織り込まれている。

★松阪もめん縞柄帳

http://matsusakamomen.com/shimagara

 

《縞》(しま)日本大百科全書(ニッポニカ)より

直線または曲線を平行もしくは交差状に並べた線条文。おそらく織物の創始とともに自然偶成的に発生した模様で、あらゆる民族が用い、また各国において古代からそれぞれ独立した形で発達した。平行線の間隔の微妙な割り振りと、線の太細、色彩の組合せ方によって、この模様は実に変化に富んだ効果をもたらす。逆にこれらの微妙な関係を無視してしまえば、もともと単純な模様だけに、よけいにその単調さが目だつ結果となる。いわば平凡さと、洗練された美とが隣り合わせにある、単純にして複雑な模様であるといえよう。「縞」ということばはわが国では「島」の文字から転化したもので、16世紀の中ごろに始まった南蛮貿易を通じて、東南アジアの島々から舶来した布を「島もの」とよんでいた。ところが、この「島もの」には線条文がきわめて多くあったため、いつしかこの模様を「島」、のちには「縞」とよぶようになったといわれている。もっとも、縞ということばが生まれる以前から、「筋(すじ)」とか「間道(かんどう)」という名称があって、それに対応する遺品も、古いところでは法隆寺や正倉院などにみられる。また、これをもっと広義に解釈すれば、弥生(やよい)時代の土器や銅鐸(どうたく)の線条文をも含めることができよう。しかし、縞が織物の技法に従属した模様から、高度な美意識でもってその微妙な味わいが鑑賞されるようになったのは桃山時代以後のことである。『守貞漫稿』に「昔ノ織筋(おりすじ)(縞)ハ横ヲ専トシテ又大筋多シ」と記されているように、桃山時代から江戸初期の縞は大柄の横縞が多かったようである。織縞では、縦縞は織り始めから準備されていなければならないのに対して、横縞は製作中に自由に色糸を挿入すればよいので、縞織りの技法からいえば、横縞のほうが容易である。横縞が最初流行した理由もこうした技術的な問題が関係しているのであろう。その後、江戸後期になると縦縞が流行する。そして織物のほか染物、ことに粋な小紋(こもん)柄として広く庶民に愛用された。その代表的なものとして、かつお縞(藍(あい)の濃淡で色分けした太い縦縞模様)、金通(きんとお)し縞(2本の縦筋を並行させ、次に1筋間を置いてふたたび2本筋を繰り返したもの)、子持ち縞(太い筋に細い筋を配した縞模様)、碁盤縞(碁盤の目のように縦横の筋が等間隔に置かれている細かな格子縞)、千筋(せんすじ)・万筋(細い縦縞模様、千筋は万筋よりやや間隔が広い)、滝縞(かつお縞と同種、白の部分の多いものをいう)、三筋縞、よろけ縞などがある。また、洋風の縞はストライプとよばれ、個々の名称をもつ多くの縞柄がある。

 

 

《NEWS》2016.8.30夕刊三重新聞社より

松阪縞ルーツはラオス国境付近か、訪越し布の写真に「そっくり」ベトナム説で小林副市長

松阪木綿の縞柄のルーツをベトナム奥地の村の布とする説について松阪市は、松阪縞にさらにストーリー性を持たせてPRする要素にしたいと模索している。中心になっている小林益久副市長は今月、市と観光協定を結ぶ同国の★ホイアン市を訪問するのに合わせ現地入り。ルーツとされる現物を手にするまでには至らなかったが「そっくりだった」と今後の展開に期待を膨らませている。松阪縞のルーツについては、松阪市出身で海運業を営んだ江戸時代初期の商人・角屋七郎兵衛(1610~72)がホイアンの日本人街の頭領だったことなどから、ベトナムの布「柳条布」に求める説が以前からあった。それに加え最近、松阪木綿とベトナムの関係を研究するハノイ国家大学のファン・ハイ・リン教授が、同国山岳地帯★少数民族の衣装の柄との共通性を唱え、研究している。学術的な研究が行われていることを受け、小林副市長はホイアン市で開催の日本祭出席のための訪越(15〜17日)を利用し、リン教授らと同国中央部のクァンナム省西部のナムザン郡ザラ村をめざすことに。16日にザラ村に。小林副市長によると、状態の悪い舗装道路をホイアン市から車で西に約3時間。観光客向けに織物の実演をしている村だが入口に大きな門があり、許可を得て入る形だった。人口や広さは分からなかったが小学生が15人いると説明を聞いた。そこで、ビンテージ(年代物)として販売されていた布を、ポケットマネーの約1万5千円で購入した。松阪木綿のような紺色の地に赤色などの縞があり「少なくとも50年以上昔のもので、100年近い物ではないか」と(以下略)

 

《NEWS》2018.2.1ganasより

「カトゥー族であることは誇り」、格差に負けないベトナム少数民族の苦悩と挑戦

ベトナム中部クァンナム省ナムザン郡、ラオスとの国境付近の山岳地帯で生活する少数民族がいる。カトゥー族だ。今でも狩猟採集の半自給自足の生活をし、民族特有の織物「カトゥー織り」で有名だ。53あるといわれるベトナム少数民族の中で、カトゥー族は近年次第に注目を集めるようになった。2017年からはベトナム随一の観光地ホイアンで年に数回、カトゥー族が伝統ダンスや伝統品を披露するお祭り「カトゥーナイト」が開かれるほどの人気ぶりだ。しかしその人気の裏には、少数民族がゆえにどうしても広がってしまう格差や、他の少数民族にも見られるように誇りの喪失などの苦悩があった。その逆境に立ち向かったのは、伝統を守り、発展させようと挑戦し続けたカトゥー族の女性たち、そしてその活動に触発されたカトゥー族の男性たちだった。ベトナムの多数派民族であるキン族と少数民族との格差は広がるばかりだ。カトゥー族もその例外ではなかった。最近まで、カトゥー語を主に使うカトゥー族にはベトナム語を話す人は少なかった。カトゥー族の子どもたちは近年、キン族とともに地元の学校に通うことも多くなったが、「野蛮だ」「ベトナム語が下手だ」などと差別を受けることもあった。キン族よりも暗い肌の色や大きな目などの見た目の特徴でカトゥー族だとわかってしまうため、少数民族であることがバレれば歓迎されない。若者はカトゥー族の伝統衣装を着たがらなくなり、次第にカトゥー族であることに誇りを持つことができなくなっていったという。伝統文化は消えかけていた。1986年にドイモイ(刷新)政策がスタートし、急激な経済成長を果たしているベトナムの貧困率は現在3.1%。しかし人口の約15%を占める少数民族の貧困率は46.6%にも上る。これは、人口の大多数を占めるキン族がビジネスなどを成功させているのに対し、狩猟・採集などの伝統的な生き方を必要とする少数民族の生活が厳しいものになっていることを示す。厳しくなる少数民族の生活に危機感を抱き始めたのが、カトゥー族のひとつの村、ザラ村の女性たちだった。ザラ村は伝統★「カトゥー織り」いわゆるビーズ織りを作ることで有名な村。現在では数多くの女性たちにとって、ビーズを使ったカトゥー織りは大切な日々の生業のひとつだ。だが2001年の時点では村でカトゥー織りの織り方を知っている女性はたった7人しかいなかった。そのうちの一人、グエン・ティー・キムランさん(48)は現在、カトゥー織りを教え、広めるリーダーを務める。「だんだんカトゥー織りを織る人が減り、伝統衣装を着る人も減っていった。私も上手に織れたわけではなく、とても下手だった」と振り返る。なんとしてもカトゥー織りを途絶えさせてはいけない。カトゥー族の誇りをもう一度取り戻したい。「そこで私たちはカトゥー織りをベトナム各地のお祭りに持って行くことにしたわ」首都ハノイ、ベトナム最大の都市ホーチミン、急成長を遂げるダナン、観光客で日々にぎわうホイアンなど、さまざまな街のお祭りへ自分たちの「カトゥー織り」を持って行き、出店した。ところが少数民族の織物はまだ知られていないことも多く、一向に売れない日々が続く。ザラ村の女性たちの中からも「売れないのであれば続けることはない。辛い思いをするなら辞めよう」という声が上がるようになった。しかしキムランさんは諦めなかった。なぜなら、カトゥー織りを広げるキムランさんのブースの前で足を止める人が少なからずいたからだ。収入にはつながらなかったが、自分たちのカトゥー織りが一部のキン族や外国人の興味を引くシーンを何度も目の当たりにしていた。キムランさんは「カトゥー織りには評価されるだけの価値がある」と確信し始めていた。それからはカトゥー織りをする女性たちを祭りまで連れて行き、彼女たちに外の人にカトゥー織りを評価してもらう体験をさせた。ザラ村の女性たちは根気強くカトゥー織りを街に持って行き、売り続けた。ある時、World Wide Fund (WWF)のサポートを受け、世界遺産の街ホイアンで販売できることが決まった。2004年から試行販売を始めることになった。街にカトゥー織りを売りに行くというキムランさんの努力がようやく実りつつあった。(以下略)

 

 

《参考》ベトナム「サパ」

ベトナムのラオカイ省(老街省)サパ県に属する市鎮(日本の町に該当)。中国との国境に近い。標高1,600mに位置し、夏の気温は適度だが雨が多く、冬はやや冷たく霧が多い。モン族やザオ族などの少数民族が暮らしており、また一帯の峡谷の景観を求め観光客が訪れる。サパに最初に定住したのは、タイ族やGiay族と共に、高地少数民族のミャオ族とヤオ族の可能性が高い。これらは現在もサパ地域に住む少数四種族である。低地に住むベトナム人は、元々は、ベトナムで最も標高の高い谷であるこのエリアを占領していなかった。サパ地域は国内で最も高いファンシーパン山の影に隠れる場所に位置していた。フランスによってようやく1880年代に高地トンキンのベールが剥がされ、ベトナム国内の地図に載るようになった。フランス人はその場所をSapaあるいはChapaと呼んだ。

 

 

・・・これらの豊かな「色」と「柄」は、経済的・文化的に進歩したから生まれたものではなく、日々の生活と人のつながり、自然との共生によってもたらされたものであろう。理屈や単なる技術で伝承できる類のものではない。そういう意味で、まさしく「たからもの」である。