風(4) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「風」で欠かすことができないのは、

 

【宮沢賢治】(1896~1933)

仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者がおり、出身地である岩手県花巻市は彼の故郷として有名である。

 

 

『雨ニモマケズ』/青空文庫より

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html

宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモである。一般には詩として受容されている。広く知られており、賢治の代表作のひとつともされるものである。「雨ニモマケズ★風ニモマケズ」より始まり、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」で終わる漢字交じりのカタカナ書きである。対句のような表現が全編にわたって用いられ、最後のセンテンスになるまで主語(私)が明かされない。

「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」のように労をいとわず手助けをし、「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ」とあるのは、★『法華経』の常不軽菩薩の精神を表していると指摘されている。賢治の大甥が主宰する出版社「林風舎」では、賢治の研究資料の一つとして手帳のレプリカを製作し宮澤賢治記念館などで販売している。これは本作が賢治の筆跡でそのまま印刷されている他、鉛筆入れの短歌も再現されている。

 

 

★『風の又三郎』/青空文庫より

https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/462_15405.html

どっどど どどうど どどうど どどう

青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ

どっどど どどうど どどうど どどう

 

 

賢治の死の翌年(1934年)に発表された作品である。谷川の岸の小さな小学校に、ある風の強い日、不思議な少年が転校してくる。少年は地元の子どもたちに★風の神の子ではないかという疑念とともに受け入れられ、さまざまな刺激的行動の末に去っていく。その間の村の子どもたちの心象風景を現実と幻想の交錯として描いた物語。

1931年~1933年(昭和6~8年)に、自身により既に大正年中に書かれていたいくつかの先駆作品をコラージュしながら書き上げられたもの。まず風の精のSF的冒険談である「風野又三郎」をもとに、主人公が現実の人間に変更された上で、村の子供たちを描いた「種山ヶ原」、「さいかち淵」などが挿話として取り入れられ、より現実的な物語に変貌している。

なお、1931年に書かれた本人の書簡から、賢治が北守将軍と三人兄弟の医者、グスコーブドリの伝記に続いて本作を雑誌に発表する構想を抱いていたことがわかっている。しかしこれは雑誌の廃刊により実現しなかった。 賢治自身が書き残した創作メモや、発表の意思を伝えた上記の書簡でもタイトルは先駆作品と同じ「風野又三郎」であり、自ら「風の又三郎」と書いたものは現存しない。しかし、作中の表現はほぼすべて「風の又三郎」に書き改められていることや「風野又三郎」とは明らかに内容が異なることから、最初の出版(1934年の最初の全集)以来「風の又三郎」が用いられて今日に至っている。

風の旧字は鳳である。賢治存命の時代、鳳の略字は「かぜがまえ」中に「又」と書かれていた。岩手県や新潟県など複数の地方において、風の神を「風の三郎様」と呼んで祭礼を行う風習がある。しかし、「風の又三郎」という名前で呼んでいるケースは報告されておらず、「風の三郎」を元に賢治が造語したものであると考えられている。

 

 

《参考》「風」と「鳳」

昔の人は風と虫、鳥はとても密接な関係があると考えました。そのため、「風」と「鳳」の起源は同じで、その後、分けられ違う形になったと言われています。暖かくなると虫たちは冬眠をやめ、外にでてきます。昔の人は、東風が吹くと虫たちがでてきて、北風が吹くと虫たちがどこへいってしまうと感じていました。それから北風が吹くと大きな鳥がやってきて、東風が吹くと、その鳥は北へ飛んでいってしまうといわれており、彼らは虫と鳥がどこからやってきて、どこへ帰っていくのか考えた末、出てきた答えは、辺境の地から来て、帰って行く。というものでした。そのため、「風」は、虫と鳥を連れてくる使者と考えられていました。

 

★注文の多い版画展「宮澤賢治、銀河へ」畑中純

http://www.comicbox.co.jp/gallery/hatanaka/work-t.html

http://www.comicbox.co.jp/gallery/hatanaka/work.html

2012年に急逝した、漫画家の畑中純。代表作『まんだら屋の良太』や『百八の恋』などで知られるが、漫画だけでなく版画も数多く発表している。本作は、畑中純が最も影響を受けた作家・宮澤賢治の作品を彫ったもの。「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」など八十点もの代表作が入った待望の版画集。「原作モノの作画を頑なに拒否してきたボクが唯一、この人ならしょうがない、と、自発的に絵にしたのが賢治さんでした。三十三歳の時でした。賢治さんのドリームランド作りは、ボクがマンガ家を志したころからのお手本のひとつでしたし、苛立ちすさんだ貧しき青年時代に、賢治さんの描く心象風景は、最良の慰めであり憧れでもありました」

(目次) 注文の多い料理店 序/どんぐりと山猫/狼森と笊森、盗森/注文の多い料理店/烏の北斗七星/水仙月の四日/山男の四月/かしわばやしの夜/月夜のでんしんばしら/鹿踊りのはじまり/セロ弾きのゴーシュ/風の又三郎/猫の事務所/ツェねずみ/クねずみ/よだかの星/氷河鼠の毛皮/飢餓陣営/洞熊学校を卒業した三人/月夜のけだもの/土神と狐/蛙のゴム靴/雪渡り/やまなし/オッペルと象/詩──報告/小岩井農場 パート1/春/永訣の朝/雨ニモマケズ/銀河銀道の夜/あとがき/作品リスト

 

 

【畑中純】(1950~2012)

1950年3月20日福岡県小倉の生まれ。1977年「月夜」でデビュー。1979年『漫画サンデー』「まんだら屋の良太」で連載開始。10年以上連載の続いた同作品で1981年漫画家協会優秀賞授賞。「私の村」「理想宮」「玄海遊侠伝 三郎丸」、版画集に「増水警報」「吉兆」などがある。★版画集「宮沢賢治、銀河へ」(ネスコ/文藝春秋社刊)に続いて1996年秋「どんぐりと山猫」版画集も上梓の予定。2012年6月13日、腹部大動脈瘤破裂のために死去。62歳没。

 

・・・2012年の春、河内長野市「南天苑」で作品展があり、ご本人にお会いし版画★「風の又三郎」が大好きだとお話をさせていただきました。後日、2点ほど作品を送ってくださいましたが、6月に亡くなられて驚きました。現在、遺品でもある版画は「京都国際漫画ミュージアム」に寄贈しました。合掌

https://www.kyotomm.jp/