・・・「道草」のしめくくり、やっぱり司馬遼太郎さんです。
《街道をゆく》著:司馬遼太郎
https://publications.asahi.com/kaidou/
「街道をゆく」には司馬さんの人生そのものが語られており、自然や風景や歴史を実際に見ての感動が論旨の中心です。生前、ご本人も「私の作品で最後まで残るのは街道をゆくだろう」と語っておられました。街道をゆく35「オランダ紀行」に、次のような一文があります。
https://publications.asahi.com/kaidou/35/index.shtml
『この「街道をゆく」の装画を20年にわたって描いてきてくださった★須田剋太画伯が、入院先の社会保険神戸中央病院で亡くなられた。(1990年7月14日)青葉のころにお見舞いした時、病床の画伯に、ゴッホの絵を始めて見たのはいつだったですかときいてみた。須田さんは、しばらく考えていた。この人は、志功よりも3つ下の明治39年(1906)生まれである。大正10年の「白樺」が最初ですか、と問いかさねると、「それより前に、すでに見ていたような気がします。」そのあとゴッホの話になった。須田さんは仰臥したまま、虚空を二本の指でつまみ続けるしぐさをして、「線が―――」と言い、ゴッホの線、すばらしいですね。とふたたび虚空を触るようなしぐさをした。』
《挿絵原画展「街道をゆく」》作:須田剋太/蔵:大阪府
http://www.enokojima-art.jp/i-museum/suda/about_kaido.html
『街道をゆく』は、司馬遼太郎氏が、1971年から1996年まで、25年以上にわたって週刊朝日に連載し、単行本にもなっている歴史紀行文学です。内各地はもちろん、中国やモンゴル、さらには遠く南蛮(スペイン、ポルトガル)やオランダ、アイルランドをはじめ世界各地の街道も訪ね、司馬氏の洞察力に富んだ味わい深い文章により、その国や地域の歴史と風土を描いています。須田剋太は連載開始から1990年までの約20年間、司馬氏に同行してスケッチを重ね、「街道をゆく」の挿絵を制作しました。それらの作品は、挿絵として各地の雰囲気を伝え読者を楽しませるだけでなく独特の画風で色彩豊かに描かれ、絵画作品としても優れたものとなっています。大阪府は、この挿絵原画1861点を1990年に須田氏本人よりご寄贈いただき、これまで所蔵作品展や常設展示・現代美術の回廊COCOAなどでご紹介してまいりましたが、このたび、より広く作品をご覧頂くことを目的に、インターネット美術館特別企画展としてインターネット上でも作品を鑑賞していただけることになりました。
《街道をゆく10「羽州街道、佐渡のみち」》
https://publications.asahi.com/kaidou/10/index.shtml
「五月雨をあつめて早し最上川」。――芭蕉の名句に誘われた司馬遼太郎は、現実の最上川の情景を確かめるべく、山形へ旅立つ。
《街道をゆく24「近江散歩・奈良散歩」》
https://publications.asahi.com/kaidou/24/index.shtml
<どうにも近江が好きである。>司馬遼太郎は、その理由を民家のたたずまいや、近江門徒という精神的な土壌、風土から語る。琵琶湖は別名「鳰の海(にほのうみ)」で、この周辺は、鳰=カイツブリの名所。司馬さんは、カイツブリの姿を探し、松尾芭蕉が近江で詠んだ鳰の句を思い出しています。
「かくれけり師走の海のかいつぶり」(冬)
「四方より 花吹き入れて 鳰の湖」(春)
「五月雨に鳰の浮巣を見にゆかん」(夏)
芭蕉には、近江でつくった句が多い。そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑(さるみの)』にある一句である。
行春を近江の人とおしみける
この句でいう近江の人は、むろん複数である。その中に、当然、菅沼曲翠もまじっているはずで、そうあらねばならない。近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩(たいとう)たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈(やまなみ)はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情があう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝(こ)って人に化(な)ったようでさえある。この句を味わうには「近江」を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである。
・・・司馬さんの「近江好き」は、芭蕉が大きく影響しているようです。
「死後もここで過ごしたい」芭蕉はそのことを遺言した。芭蕉の生涯の作品は980句確認されているらしいが、そのうち1割近くの89句が大津湖南地方で詠まれているという。奥の細道の52句に比しても、近江の密度の高さがわかる。36俳仙とよばれる弟子の国別分布をみても、近江12、江戸5、美濃・尾張各4、伊賀3、等で近江が群を抜いている。芭蕉の近江好きは「行く春を 近江の人と 惜しみける」という句に代表される。その句は司馬遼太郎をいたく刺激して、彼を芭蕉に劣らぬ近江ファンにしてしまったようである。
《司馬遼太郎と詩歌句を歩く》著:新海均/潮出版社2015
司馬は詩人になりたかったのかもしれない。詩歌句への深い造詣は、小説を躍動させ、リズミカルに彩る。国民的文学の魅力を再発見。
目次/
•『燃えよ剣』にみる俳句の旅•『空海の風景』と漢詩の旅•『義経』と和歌、今様の旅•『箱根の坂』の中世歌謡•『国盗り物語』、その謡と連歌•『馬上少年過ぐ』の詩歌•芭蕉をめぐる旅•蕪村を愛して•『世に棲む日日』の革命と詩•『竜馬がゆく』にみる詩歌•『酔って候』の酒と詩•『幕末』、志士たちの詩歌•『峠』の中の詩歌句•『坂の上の雲』の子規の俳句・短歌革新
《参考》「司馬遼太郎文庫」/上宮学園
https://uenomiya.com/ts/shiba/index.html
《司馬遼太郎 旅のことば》編:朝日新聞社2002
司馬遼太郎の文章には詩がある。箴言がある。『街道をゆく』から編んだ、美しいものへのまなざし、人を見つめる目、風景の見かた、文明への洞察……。この詩篇は、全43巻に出会うきっかけに、あらためて立ち戻る機会にもなるだろう。
《ひとびとの跫音》著:司馬遼太郎/1984
1979年から1980年にかけて、月刊誌『中央公論』に連載された。1981年に、中央公論社より単行本上下2冊が刊行され、同年度の第33回読売文学賞小説賞を受賞した。正岡子規の詩心と情趣を受け継いだひとびと。その豊饒にして清々しい人生に深い共感と哀惜をこめた、司馬文学の核心をなす画期的長篇。詩人、革命家など鮮烈な個性に慕われつつ、自らは無名の市井人として生きた正岡家の養子忠三郎と周囲の人々の境涯を「人間が生まれて死んでゆくという情趣」を織りなして、香気ただうが如く描く名作。
★ふりむけば 又咲いている 花三千仏三千/司馬遼太郎(昭和六十一年春)
司馬遼太郎さんの命日2月12日は「菜の花忌」、司馬遼太郎自身、黄色系は勿論、花や樹木が好きだったそうで書斎の窓から見る外観は雑木林をイメージしているそうです。司馬遼太郎自筆の歌碑は、リゾート施設にあったものを移設。
《NEWS》2006.3.22四国新聞より
作家・司馬遼太郎さん自筆の句を刻んだ石碑が、閉鎖された大阪府河内長野市の施設から、司馬遼太郎記念館(同府東大阪市)に隣接する公園に移設されたと22日、同記念館が発表した。司馬さんが1986年に書いた碑文で、記念館は「20年を経て筆者の元に戻ってきた」としている。石碑があった施設は、河内長野市の造園業・岩辻勝さん(73)が1983年に開園した★「茶花の里」。3年後、岩辻さんが「花供養碑」の碑文を司馬さんに依頼。司馬さんが「ふりむけば 又咲いている 花三千 仏三千」という句を贈り、高さ1・2メートルの石碑が完成した。
・・・主題派出品作「道草」にまつわる、様々な思いを綴りました。お付き合いありがとうございました。