村野藤吾(19) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「元・新歌舞伎座」の建築進捗状況が気にはなりますが、「新歌舞伎座」がもどってくるわけではありません。やっぱり、現存する村野建築で一番好きなものを最後に紹介しておきたいと思います。

 

《輸出繊維会館》竣工:1960

541-0051大阪市中央区★備後町3-4-9/06-6201-1671

大阪を拠点に数多くの名作を設計した建築家・村野藤吾の技が冴える。といっても、一見すると派手さのないビルらしい外観なので、多くの方が気にせずに通り過ぎてしまうかもしれない。しかし、眼を凝らせば、直線的なイタリア産トラバーチンの壁と、キラリと光る角を丸めたアルミサッシの取り合わせに、レトロ感と未来感が不思議に混じり合っている。西側に張り出した玄関庇や、内部の手すりも繊細な造形。内部の壁画は堂本印象によるもので、その中でも前室の壁画は“万邦交易”を表現している。こうしたアーティストとのコラボレーションも村野のお家芸だ。大阪の繊維輸出業界が生み出した、時代を超越した会館である。(倉方俊輔)

 

・・・倉方さんが書かれている通り、一見すると派手さのないビルらしい外観なので、多くの方が気にせずに通り過ぎてしまう、私もその一人でした。★「備後町」で最初に興味をひいたのはパプリックアート「地球樹」、作者がわからず調べ始めて「探偵アートスクープ」を開始した記念すべき場所でもあります。

 

 

《参考》「備後町」

http://semba-navi.com/tourism/street/page/2/

★備後国(現在の広島県東部)の商人を多く住まわせたことから命名されたと思われます。江戸時代は鳥問屋や木綿問屋が多く、明治に入り、呉服、洋反物、木綿太物店が商いを広げ、湖亀銀行、近江銀行、逸身銀行、川上銀行などが林立。野村證券、りそな銀行のルーツ、野村徳七商店もこの町です。

※ウィキより

1600年(慶長5)より★東横堀川に架かる「備後橋」が町名の由来である。大阪に立派な橋が増えたのは、豊臣秀吉の時代。天正11(1583)年に大阪城築城が開始されると、有力商人たちを中心として、堂島や曽根崎新地、堀江新地など川辺の町が開発され、東横堀川や西横堀川が完成して水運路が確保された。関ヶ原の合戦を記録した『当代記』には、★東横堀川には浜の橋、高麗橋、平野町橋、淡路町橋、★備後橋、本町筋橋、久太郎町橋、久宝寺町橋、鰻谷橋、横橋が架けられていたとある。

 

・・・これまで橋好きの私が調べた限りでは、「東横堀川」に「備後橋」は見当たらない。なんと「当代記」にまで書かれているというから、信じないわけにはいかないのだが。どう考えても「西横堀川」ではないかと探索を続けていると、

 

《相生橋(あいおい)》靭本町1丁目3

http://kamnavi.jp/utsubo/yshyaku.htm

架橋:慶長年間、大正11年改築/長さ:27.6m幅:6.7m

別名★備後橋、備後町橋

道頓堀の芝居町に★「相合橋」が架かっていた。こちらの「相生橋」の東側には弁天座の物置小屋があり、道頓堀と何らかの関係があったのかも知れない。

 

 

・・・この「相生橋」が「備後橋」であるとするのが、正解ではないかと思うわけで、ようするに「備後橋」は「西横堀川」に架かっていたのです。と、自信ありげに書いたものの、次のような資料にぶちあたりました。

 

《参考》大坂船場南部地区の町割と街区構成について/日本建築学会計画系論文集・第486号より

「船場南部地区と島之内(九之助町以北)の成立」

船場南部晦区の北久太郎町~島之内九之助町の範囲についての開発時期を史料と古地図により見ていくことにする。★「當代記」の慶長五年(1600)七月十五日の条に去七月上方衆内府公江謀叛時大坂惣構口々番手事として、

一 濱の橋 毛利民部大輔

一 高麗橋 高田河内守藤懸三河守

一 平野町橋 宮木丹後守

一 淡路町橋 早川主馬

一 ★備後橋 生駒修理同主殿

一 本町筋橋 蒔田權助

一 久太郎町橋 蜂須賀阿波守

一 久法寺町橋 竹中伊豆守

一 か(あ)んとうし町橋 服部土佐守

一 うなき谷町橋横橋共に 小野木縫殿助

 

・・・平野橋と本町橋との間に「淡路町橋」と「備後橋」があったことになります。現在は★「大手橋」が架かっています。

 

《大手橋》

http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000021750.html

古くは「思案橋」と呼ばれていた。大阪城の大手門に通じる大手通にあたるが、なぜか橋の西側で行き止りになっている。橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったとされる。また、豊臣秀吉が五奉行の一人、増田長盛に橋の名前を付けるよう命じたが、思案してもなかなか決められなかったため思案橋といわれるようになったともいう。ただ豊臣時代からこの橋があったとする確証はない。大手通という町名が付いたのは明治以降のことで、大手橋と名付けられたのは大正時代になってからである。大手橋が近代橋になったのは大正15年、第一次都市計画事業によってである。三径間のコンクリートアーチが採用されている。東横堀川の橋はアーチが多く、鋼とコンクリート製がほぼ交互に並んでいる。デザインもそれぞれ違っていて、独自の景観を作り出している。偶然こうなったのではなく、設計担当者の意図が働いていたはずである。建設後60年以上経ち、床版や橋面の損傷が著しくなっていたため、平成元年度に改修工事を行い、これに合わせて顕彰碑を設置した。

 

・・・結論、備後町の東西の「端」に設置されていたであろう「橋」は、備後町の橋ということで「備後橋」と呼ばれていた、ということでしょう。もうこれくらいで本題にもどります。「地球樹」について、再掲しておきます。

 

 

■建物名:フジイビル(現サンビル備後町)

541-0051大阪市中央区★備後町3-3-3

作品名「GLOBE TREE(地球樹)」作★坂根進/所有又は管理者:藤井毛織

第1回「大阪市都市環境アメニティ賞」1990(平成2年10月)受賞

 

・・・さて、「輸出繊維会館」に入ります。とにかく、度肝を抜かれます。

 

 

戦後経済を牽引した繊維、それも原料やテキスタイルなどの輸出が絶好調だった1960年、商社連合によって建設されたものです。地下2階、地上8階でそれほど大きな建物ではありませんが、全体が船のイメージで構成されています。外観はもとより、建物の中や天井も随所に船を意識したレイアウト、装飾品が目を引きます。村野建築とあわせ同会館が注目されるのは、堂本印象の壁画とタペストリーです。壁画は南側エントランスから入ったロビーと地下にいたるまで、3~4センチ四方のガラス製タイルがびっしりと貼り込められており、実にカラフルです。全体を海の中のイメージで構成したといわれています。タペストリーは、地下のサロンの壁面に掛けられています。左右8メートル、天地3メートルの大作で、日本の帆船が潮風を満帆に受け止めて7つの海を快走しています。堂本印象のデザイン画を京都の美術工芸会社が織り上げたシルク製の秀作です。当時の価格で一説には3,000万円と言われています。50年にわたってタバコの煙などによりかなり汚れていますが、クリーニングするにも適当な業者がなく、しかも相当な経費がかかるので会館関係者は頭を痛めているそうです。堂本印象美術館の関係者によると、堂本作品でこれだけの大作はないとのことで、研究員など関係者が調査するとのことです。

 

 

《参考》京都府立「堂本印象美術館」(1891~1975)

603-8355京都市北区平野上柳町26-3/075-463-0007

http://insho-domoto.com/index-j.html

明治24年京都生れ。本名三之助。明治43年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、大正7年、日本画家を志して京都市立絵画専門学校に入学。翌8年、初出品した「深草」が第1回帝展に入選した。第3回展では「調鞠図」で特選、また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、昭和19年、帝室技芸員となった。戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。昭和25年、芸術院会員。さらに昭和30年以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。多くの国際展にも招かれ、昭和36年には文化勲章を受章した。昭和41年、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより設立。また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、多くの作品を残した。昭和50年9月逝去、83歳。なお、美術館は平成3年8月にその所蔵作品とともに京都府に寄贈され、平成4年月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。

 

 

・・・会議室等は、普段公開されていませんが、ビルそのものは自由に出入りできますので、ぜひ訪問してみてください。