主題派(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・道頓堀をうろうろしていて、意外なところで「えぺっさん」の「宝恵かご」を発見しましたので紹介します。

 

 

《参考》「戎橋筋商店街」

http://www.ebisubashi.or.jp/sp/ja/feature/feature66.html

戎橋から今宮戎神社まで、「ほえかご、ほえかご」と声をかけながら1時間少しで巡航します。みなさんも、十日戎に参詣しましょう。

■出発式(9時50分)道頓堀川の遊歩道にて、賑々しく行われます。

■行列がスタート(10時:宗右衛門町・太左衛門橋北詰)慣わしにより、元★南地大和屋前から出発します。出発前には芸妓をのせた宝恵かごを駕籠上げします。これも慣わし。このあと、宗右衛門町から堺筋をまわって道頓堀を進み、戎舞台へ。

【コラム】料亭・南地大和屋 明治10年に創業、やがて芸妓養成学校をつくり、昭和28年には全国花街連盟を立ち上げ、芸妓の社会的地位の向上や全国の花街の発展に尽力しました。大阪の大和屋の芸妓といえば、芸の質の高さから、全国から一目置かれる存在だったといわれます。昭和初期に南地五花街の芸妓は3,000人にのぼりました。花街の近代史の中で、南地大和屋は大きな存在であり、宝恵かご行列の発展にも大きく尽力してきました。

【コラム】宝恵かご行列の種類

◎お多福/多くの福を呼ぶ縁起物の「お多福」が先頭を進みます。大阪の昔の日本美人の象徴で、商売繁盛と招福開運の奉穰として親しまれています。

◎福みこし(鯛と山車)/起請文(きしょうもん)の矢をこの駕籠に託して、今宮戎まで持参してもらいます。福娘に預けていただいても構いません。

◎駕籠の面々/駕籠は、宰領(行列の仕切役)を先頭に、駕籠が次々に加わります。やがて行列は数百メートルに及びます。

今回駕籠に乗るのは、歌舞伎俳優の中村壱太郎さん、上方舞山村流の山本友五郎さん、国立文楽劇場から文楽人形、NHK連続テレビ小説「わろてんか」ご代表、落語家の桂春之輔さん、漫才師の宮川大助・花子さん、ザ・ぼんちさん、OSK日本歌劇団トップスターの高世麻央さん、テイチクレコードの小桜舞子さん、日本コロムビアの出光仁美さん、毎日放送テレビちちんぷいぷいの辻憲太郎さん、福娘代表の中村葵さん、山内海宇さん、鷲尾千尋さん、ミズえびすばしをはじめ商店街代表が参加を予定しています。

■えびたん/戎橋筋商店街は、えびたんが一緒に歩きます。★黒田征太郎さんがデザイン。そして、オリジナルのコスチュームはコシノヒロコさんによるデザイン。

■夜の宝恵かご/同じ日の、午後7時から、宗右衛門町~道頓堀を山車4挺が回ります。提灯の明かりで灯された山車が巡行する風景はミナミらしいあでやかさを感じます。

 

《宗右衛門町モータープール》

542-0084大阪市中央区宗右衛門町6-13/06-6213-9032

http://search.ipos-land.jp/p/detailp.aspx?id=P2700103Z

その昔、ミナミには富士、メトロ、美人座、客席1000席もあるようなマンモスキャバレーが3つあり、そのひとつが宗右衛門町にあるホステス1000人以上、芸能部あり、ビックバンド2つもかかえる「グランドキァバレー富士」です。1階はダンスホール、2階は飲んで食べれるサパークラブ(パテオ富士と言う名前でした)、3階はキャバレーになっており、いわゆる総合娯楽施設でした。

 

 

・・・なぜここに「宝恵かご」を待機させていたかというと、「元★南地大和屋」のすぐ横にあるモータープールだからです。

 

《参考》「南地」

江戸時代、大阪には新町・堀江・北新地・南地の4つの大きな花街がありました。大阪が大大阪と呼ばれた昭和の始めには隆盛を極め、北新地に五百人、堀江に五百人、新町に九百人、そして南地には二千人の芸妓が在籍していたそうです。大阪のお茶屋は宴席の提供にとどまらず、地唄舞に代表される上方芸能の伝承者でもありました。また当時の船場の旦那衆は、お茶屋を単なる遊びの場としてではなく、情報交換の場、社交の場としても活用していました。そして芸妓の着る着物は当時の流行を左右し、お茶屋で出される会席料理は食い倒れの街、大阪の名声を支えていました。当時の花街は、大阪における文化発信地としての機能を果たしていたのです。大阪のお茶屋文化にとって大きな痛手となったのは、空襲を受けたこと。南地・宗右衛門町で格式を誇った『富田屋』では、戦前までは仲居も髪を結い、裾を引いて、芝居に出てくるような雰囲気だったそうですが、焼けて再建を断念したことで、そうした伝統や文化が失われてしまいました。また再建を果たしたお茶屋でも、建物だけでなく、器、掛物、着物を一から揃え直さないと営業が再開できなかったことは、大きなハンディキャップとなりました。戦後、大阪の花街からは舞妓がいなくなりますが、これは二十歳になると芸妓に襟替えしてしまう舞妓にお金をかけるよりも、その先が長い芸妓のこしらえを優先したためだと言われています。

南地阪口楼は、昭和12年に竣工された南地花街の代表的なお茶屋「大和屋」の新館。畳屋町三ツ寺角、贅を尽くした数奇屋風の建物で、民間の迎賓館と呼ばれました。地下には洋風のサロンがあり、待合として利用されました。大掛かりなジオラマ模型による演出により、地下室であるにもかかわらず、大きな窓越しに近江八景の風光を見晴らすことが出来るという趣向でした。各階にはお座敷があり、三階にも庭園を造り、モダンなデザインの大広間、円形カウンターが特徴的な天ぷら室などもありました。

 

 

・・・今日は、「高島屋東別館」の工事進捗を観に行きます。

 

《NEWS》2018.1.30産経WESTより

大阪・ミナミの歴史建築「高島屋東別館」がホテルに/外資に運営委託

高島屋は30日、昭和初期の歴史的建築物として知られ改装中の「高島屋東別館」(大阪市浪速区)で、家電やキッチンを備えた滞在型のホテルを2019年冬に開業すると発表した。シンガポールの不動産大手の傘下企業に施設を貸し、運営を委託する。ホテルは300室以上の客室を備え、「シタディーン」のブランドで営業する。訪日外国人客に人気の黒門市場や電気街などに近く、観光客のほかビジネス客の宿泊も見込む。高島屋東別館は1937年に松坂屋大阪店として建てられ、69年に高島屋が取得した。アールデコ調の建物で、路面に沿って続くアーケード部分や、植物の葉をモチーフにした内装が特徴。改装後の建物には商業施設や休館中の★「高島屋史料館」も入居する。

 

 

・・・新装オープンが楽しみです。

 

 

・・・画廊前のウィンドウを開けて、作品の「スリッパ」部分をいじっていただきました。ありがとう。