チェス(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・日本のチェス競技人口が気になって調べてみました。

 

2012年現在、愛好者数は約7億人とされ、世界中で広く親しまれているゲームのひとつである。世界チェス連盟(FIDE)のデータベースにおける登録競技者数、つまり国際レイティングを取得したプレイヤーは2018年現在で36万人である。日本においては2017年12月の時点で★「日本チェス協会」のレイティングリストに★160名が掲載されている。将棋のトッププロ棋士・羽生善治は趣味でチェスを行いFIDEマスター位を有する、日本国内屈指の強豪である。羽生は著書「上達するヒント」の中で、「私は趣味でチェスをするのですが、日本ではプレイする人が少ないので、母国語(日本語)のチェスの本はほとんど出版されていません。ですから、海外で将棋を愛好する人達が母国語の将棋の本がとても少なく、情報が少なくて物足りない気持ちは十分理解できるつもりです。」と記している。

 

 

《参考》「レイティング」

レイティングとはプレイヤーの強さを数値化したもので、レイティングが高いプレイヤーがほぼイコールでチェスが強いプレイヤーということになります。一般的にチェスにおけるレイティングはEloレイティングと呼ばれる計算方法を用いるレイティングの事を指し、対局毎にまたは大会毎の勝敗に基づいて変化していきます。チェスの国際的な機関であるFIDEが用いているレイティングもこのEloレイティングですので、FIDEに登録されれば初心者から世界チャンピオンまで同じ計算方法で実力を算出されます。レイティング値の変化についても、簡単に言ってしまえば勝てば上がり負ければ下がります。また同じ1勝であっても実力が上の相手に勝てば上昇幅も大きく、実力が下の相手に勝っても上昇幅はあまり大きくありません。負けた場合はその逆で自分よりも強い相手に負けてもあまり下がりませんが、実力が下の相手に負けると大きく下がります。

 

《日本チェス協会》

http://www.jca-chess.com/jca-ennkaku.htm

日本チェス協会は日本のチェス界を代表し、国際チェス界の一員として参加するために1967年日本チェストーナメント協会として設立されました。1968年国際チェス連盟により、75番目の加盟国として日本の加盟が認められ、同年10月1日、日本チェス協会として正規に発足しました。

 

・・・なぜ日本で「チェス」があまり広まらないのかということについて、「知恵袋」にわかりやすいアンサーがありました。

 

インドの「チャトランガ」を源流とするゲームが、各方面に形を変えながら伝わっていき、西洋ではチェスに中国では象棋に、日本では将棋となって定着。長期にわたってそれぞれの地域の中で★文化として確立しています。そこに新たに似たようなものを導入しても、それは少数の愛好者だけのマイナーな存在にとどまり主流とはなりえないと思われます。昔からあったものが主流であり続けるでしょう。小麦粉を水で練って細くした「麺」は、中国で始まり日本ではうどんや素麺になり西洋ではマカロニ、スパゲッティ等になりましたが、当面香川県で素麺やパスタ類がうどんを押しのけてメジャーになることはないように思えます。それと同じではないでしょうか。

 

 

・・・「チェス」作品に、堺市と深い関係のある「将棋」も盛り込むことにしました。

 

【阪田三吉】

https://jinken-fureai.jp/?page_id=105

http://www.osaka-doukiren.jp/series/series02/1250

1870(明治3)年6月3日、大鳥郡舳松村(現★堺区協和町)生まれです。師匠にはつかず実戦で鍛えました。宿敵関根金次郎との名勝負は有名です。没後の1955(昭和30)年に功績が認められ、日本将棋連盟から名人位・王将位が追贈されました。

http://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000039263.html

村田英雄の歌う「王将」で有名な坂田(阪田)三吉と言えば、 関西を代表する有名な将棋の名人です。『吹けば飛ぶよな  将棋の駒に  賭けた命を  笑わば笑え』豊中服部霊園にある将棋の駒形をした墓石は、勝負師坂田にあやかろうとする心無い人が削り取ったと思われる跡が残っています。坂田三吉が堺市に生まれ(明治3)、大正時代は天王寺区伶人町で暮らしていたことはよく知られていますが、このあと吹田市に移り、昭和18年に東住吉区に転居してきたことは、あまり知られていません。ここは、三女の方の住まいに近かったようです。坂田三吉はこの場所で、終戦(昭和20)を迎えています。終戦翌年、昭和21年当時の新聞には下記の記事が掲載されています。〔坂田三吉(八段)昭和21年7月23日午後3時、大阪市東住吉区田辺東之町3丁目23の自宅で死去。77歳。〕

 

 

《NEWS》2009.10.9産経ニュースより

大阪が生んだ名棋士、阪田三吉(1870~1946)が愛用した将棋盤が、来月8日に大阪府吹田市で開かれる市民将棋大会(市将棋連盟主催)の決勝戦でおよそ半世紀ぶりに使用されることになった。王将の駒に阪田の名前が彫られた将棋盤と駒で、阪田が現在の吹田市に住んでいた昭和初期に使用していた。市将棋連盟は「阪田三吉にあやかり、名勝負を期待したい」としている。吹田市などによると、阪田は大正13年から昭和9年の約10年間、現在の吹田市に居住していた。将棋盤は、市が重要建築として保存する明治時代の庄屋の邸宅★「旧西尾家住宅」に保管されている。当時、西尾家当主だった西尾與右衛門(よえもん)は、金銭的に恵まれなかった阪田を援助しており、阪田はたびたび西尾家に将棋をさしに出向いたという。将棋盤はこの「出げいこ」の際に使われていた。将棋盤は縦約36センチ、横約33センチで、ところどころに傷があり、使い込んだ様子がみてとれる。駒は2つの王将に★「坂田好」と刻まれている。「坂田」は阪田三吉の当初の戸籍名で、市将棋連盟の高橋明義事務局長(65)は「阪田の名前が彫られた駒はめずらしく、阪田が自分で作らせて西尾家に置いた将棋盤と駒ではないか」としている。この将棋盤と駒は50年以上使われておらず、「せっかくの将棋盤を眠らせておくのはもったいない」と将棋連盟が大会での使用を保存していた市と交渉していた。

 

《参考》「坂田好」

http://8ya.net/suiki/shotai/sakatagonomi/index.html

阪田に「馬」の字を教えた書家★中村眉山が書いた駒字で、記念の将棋大会の折に阪田の後援者らに贈られたものというのが、この書体の始まりであるとされている。つまり、阪田自身が使っていたわけでなく、記念贈答用としてあらためて作られた駒なのである。

【中村眉山】(1879~1955)

青森県八戸に生まれ、岡部公以前の岸和田城主中村一氏の子孫で、名は正真、字は信甫、号を眉山・黄眉山樵などと称し、年少にて上京し、初め書を柳田正齋の門人河野梅田に学び、次いで吉田晩稼に師事した。関西を主な活動の場とし、書道団体「書道作振会」を結成した。

 

 

《参考》「チェッカー(checkers)」

https://sites.google.com/site/japancheckersdraughts/

相手の駒を取り合うゲーム。色違いの丸い駒を使用する。縦横8マスの★チェスボードを用いるものと、よマス、10マスの独自のボードを用いるものがある。ドラフツ(draughts)、西洋碁とも呼ばれる。約 4000年の歴史をもつといわれ、エジプトのスフィンクスの出土品にその原形がみられる。現在世界各地で多くの変形ルールがみられ、いずれが正統であるか考証できないが、1948年に創設された世界チェッカー連盟は 10× 10路盤と白黒各 20個の駒を使う「ポーランドチェッカー」を国際ルールとして統一し、世界選手権を行なっている。ゲームは、白黒に塗り分けたチェッカー盤に駒を置き、交互に1手ずつ駒を斜め前方に1枡動かして進められる。ただし、相手の駒が自分の駒の斜め隣にきてさらにその前方の枡が空いている場合は必ずその駒を飛越して捕獲し、盤から除外する。捕獲した駒の次の駒を取れる状態のときは、同じ手のうちで連続して捕獲を続けなければならない。駒が相手陣の最終段に達すると成駒となって動き方が変る。相手の駒をすべて捕獲したほうが勝ちとなる。

 

 

《参考》「オセロ(othello)」

https://www.megahouse.co.jp/othello/

オセロは、日本で生まれた、2人対戦ボードゲームです。「オセロ石」白い面と黒い面をもつ円型の石・「オセロ盤」緑色の盤面に、8×8の黒のマス目の入った盤、この2つを用いるのが、オセロの決まりです。オセロは、日本人★長谷川五郎氏が発案したゲームです。第二次世界大戦が終わって間もないころ、当時の長谷川少年が、碁石を使って生み出した遊びが、オセロの原型です。オセロの石が黒白なのは、碁石がもとになっているからです。戦災で校舎が全焼して青空授業が行われていた学校で、10分間の休み時間内に決着がつくゲームとして生徒のあいだで人気になりました。その後、会社勤めをしていた長谷川氏でしたが、かつて生み出した遊びを思い出し、牛乳びんのフタで石をつくって試作品を玩具メーカーに持ち込みました。その企画がとおり、1973年4月29日に「オセロという登録商標で販売されたのが、ボードゲーム・オセロの正式デビューになります。発売されるやいなや、人気はみるみる広まり、空前の大ヒットを記録しました。牛乳びんのフタとほぼ同じ直径34.5mmのオセロ石は、発売当初から変わらないオセロ石の公式規格になっています。オセロという名前は、長谷川氏の父親で英文学者だった長谷川四郎氏の発案で、シェイクスピアの戯曲「オセロ」がその由来です。黒人の将軍・オセロと白人の妻・デスデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るというストーリーに、黒白の石がひっくり返りながら形勢が次々変わっていくゲーム性をなぞらえたのでした。緑の盤面は、戯曲「オセロ」の戦いの舞台、イギリスの緑の平原をイメージしてつくられたと言われます。ボードゲーム・オセロが生まれる遥か以前、明治時代に、リバーシという、石をはさんでひっくりかえすイギリスのゲームが日本に伝わったことはありましたが、現在、みなさんが認識しているオセロというゲームのルールや姿かたちをつくりだしたのは長谷川氏で、それが、日本、そして世界中に「オセロ(Othello)としてひろまっています。緑色の盤や、盤の中央のマスに黒白交互に並べてスタートするといったルールは、すべてオセロがつくったものです。ボードゲームの世界的定番となったオセロは、現在、株式会社メガハウスから発売されています。1973年にデビューした初代オセロは、これまで一度もモデルチェンジされることなく、現在も「オフィシャルオセロ」という名前で発売されています。大会などの公式試合ではこのオセロが用いられています。また、石がマグネット式で盤が折り畳み式になった「マグネットオセロ」や、盤に石がしまえる「ベストオセロ」など、さまざまなバリエーションが展開されています。特に、盤面の各マスに石が内蔵されており、盤面をくるくると指で回転させて遊ぶ「大回転オセロ」は、石をなくす心配がない、新しいタイプの「オセロ」です。

 

・・・駒として「テトラポット」を置いてみると、なかなかいい感じになりました。