・・・第123回「主題派」会員展の搬出、ご高覧いただきありがとうございました。
・・・搬出時、タイトル「道草」ならびに作品裏面「道草・寄り道・一本道」についての質問をいただきました。ブログ「ART-hike」にて解説・展開したいと思いますので、お楽しみに。さて、ギャラリーへの行き帰り、やっと「彫刻家/創造への出発」著:飯田善國を読了しました。なぜ今、飯田善國なのか?それは、平面(油絵)から半立体(造形)へと自分の制作が移行する中で、完璧に立体へと向かえない平面へのこだわりを「昇華」もしくは「アウフヘーベン(止揚)」したいとの思いからでした。
《参考》「飯田善國への旅」(日本美術作家史情報より)
http://kousin242.sakura.ne.jp/tanaka/eee/
20世紀という時代がまもなく終わりになろうとしている今日、半世紀にわたって、思索的、瞑想的な独自の視座から、人間の条件と芸術の役割について省察を深めながら旺盛な創作活動を展開してきた、この芸術家の精神の軌跡を振り返ることは、大きな意義をもつに違いない。飯田善国の芸術家としての肖像を描き出そうとするならば、★青年期の画家としての仕事に注目せざるを得ない。それはたしかに、1958年、ヴェネツィア・ビエンナーレで★ヴォルスの大回顧展を見て、「画家として自分がやろうとしていたことがすでに解決済みだった」という衝撃的な体験を受け、断念、放棄されることになる道であった。しかし、だからといって見誤ってはならないのは、画家飯田の仕事が、自己形成途上の一エピソードにとどまらない独自の世界をすでに形成していたことである。
【ヴォルスWols】(1913~1951)
http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/20170702_wols.html
20世紀前半に活動したドイツの画家。おもにフランスで活動した。本名はアルフレート・オットー・ヴォルフガング・シュルツェ(Alfred Otto Wolfgang Schulze)。20世紀の主要な前衛美術運動の1つである「アンフォルメル」の中心的画家の一人と見なされ、抽象表現主義の先駆者とも言われる。バウハウスにてパウル・クレー、モホイ=ナジの影響を受け、マックス・エルンストらシュルレアリスムにも傾倒したものの、特定の流派には属さなかった。パリ万国博覧会では公式の写真家としても作品を残しています。フランスに渡って間もなく写真家として成功するものの、その後、敵国人のため就業も許可されず、収容所にたびたび収監されるなど、住居も転々とする生活を続けます。彼の心を支えていたヴァイオリンも生活のために手放し、どさくさでカメラも失ったとき、彼はより一層、絵を描くことにのめりこんでいきました。収容所でも描き、引っ越しを続けながら描き、健康を害してからはベッドの上でも描いていたといいます。 生活力のないヴォルスを支えていたのは、年上のルーマニア人女性、グレティ・ダビジャでした。1933年に二人は出会い、グレティはヴォルスに宿泊場所と食事を与えました。1940年に結婚すると、第二次大戦中の度重なる引っ越しのなかでもグレティは彼の絵を大切に保管しました。生前は勧められても作品発表を好まず、放浪のうちに短い人生を終えました。死後、当時の美術動向のひとつ「アンフォルメル」(「不定形」の意)の代表的作家とみなされるようになります。また、ヴェネチア・ビエンナーレ(1958年)でヴォルスの特集展示が行われ、再評価が急速に進むことになりました。
飯田の画家としての歩みは、1949年、慶応大学を卒業後、東京芸術大学に入学したときに始まると、さしあたり言うことができる。物質的には恵まれた環境に育った飯田は、すでにそれ以前から油彩をてがけており、自らのロマンティックな文学的夢想を絵画的イメージに描き出すというようなことを行っていたが、芸大入学後は、少年時代以来の憧れであった★梅原龍三郎に師事、いわば印象派一白樺派の系譜に自らの出発点をおくこととなる。≪於北軽井沢望白根山≫や≪祖母の顔≫などはこの芸大時代初期の作品で梅原の影響がはっきりと現れている。しかしながら、まもなく、飯田は梅原からの脱却をめざして様々な試みを行うようになる。なかでも目を引くのは、指揮者・オーケストラをテーマとした一連の作品、および(これは芸大卒業後の仕事となるが)、絵画以外の領域での自らの精神的な師であった美学者・守屋謙二、詩人・西脇傾三郎などをモデルとした一群の肖像画である。なぜなら、おそらくそこにおいて表明されているのは、目に見える世界を描く絵画だけではなく、その絵画をも含み込んだ「芸術」と呼ばれる★精神活動の総体に関わろうとする志向、その指導者への強い憧れだからである。このいささか古風なロマン主義的理想の追求の一方で、画家飯田の精神には、「戦後」の時代の亀裂が深い影を落としていた。生の意味を不条理へと投げ込む★戦争体験という強烈な現実の衝撃、人間関係の不安、社会の混乱。それらは同時代の多くの若者と同様に、飯田を実存主義の哲学に親和させ、キェルケゴールやニーチェの著作に没入させた。そして、そこから生まれた彼の言う★「夜」の思想が、画家飯田の最大のテーマであったと言える「夜景」の絵画連作を生み出したのである。(中略)
1960年春、友人のウィーン大学地質学研究室の学生オットーの招きに応じた飯田は、アイスランドを訪れ、その帰路にミュンへンに立ち寄り、ノイエビナコテークで催されていた★ヘンリー・ムーアの大回顧展を見る。ムーアの実作を見るのは初めてのことであった。飯田は衝撃を受け捉えられた。そして彫刻家への道を本格的に歩き始める決意をしたのである。ムーアに飯田がなにを見出したのか。彼は様々な機会に様々な形でムーアの意義を説明しており、そのいずれもが飯田にとっては痛切な真実であったに相違ないが、それらに共通するのは存在の根源について問い続ける孤独な思索者=モラリストの目から見たムーアである。 飯田はいう。 「ムアの世界は、一度絶望を知った人間の眼で見直された人生の風景とも呼ぶべきもので、絶望を内に匿し持っている人間が内部の絶望と折り合いをつけながら自覚的に生きる技術を身につけようとする固い意志によって造形されている。」「ムアは、生を生の世界の中だけで捉えずに、生を生を超えたある遥かなものとの関係として捉えているという事情が、私を捉えたのである。」そうして飯田がまず没頭していったのが、紙の上に彫刻のためのエスキースを描くという作業であった。(以下略)
・・・「梅原龍三郎」とは関係ありませんが、「梅原猛」さんが亡くなられました。
《NEWS》2019.1.14産経WESTより
戦後日本を代表する哲学者で12日に93歳で死去した梅原猛さんは、約1年前に腰部を骨折し、入院生活を経て京都市内の自宅で療養を続けていた。しかし最近、肺炎を発症して容体が急変した。長男で、京都造形芸術大教授(芸術学者)賢一郎さん(65)が14日、産経新聞の取材に応じ、「自身の哲学を死においても見事に成し遂げていた。すばらしい大往生だった」と、最期の様子を明かした。梅原さんは京都市内の自宅で賢一郎さんや長女、孫ら親族に見守られながら息を引き取った。死の直前、孫たちから「いい人生だったね」「おじいちゃん、ありがとう」と言葉をかけられると、満足した表情を浮かべたという。古代史や文学、宗教などを横断し「梅原日本学」と呼ばれる独創的な分野を打ち立てた梅原さん。賢一郎さんは、学問に対する厳しい姿が印象に残るとした上で、「異端児と世間では思われているが、実は寛容でおおらかで全てを包み込む、優しさと厳しさを兼ね備えた器の大きな人だった」と偉大な父の死を悼んだ。
・・・実は、「梅原猛」さんの本も何冊か積読の中に埋もれてしまっています。すみません、合掌。
《笑いの構造―感情分析の試み》著★梅原猛/角川選書1972
梅原猛の若いころの論文を集めた論文集、最も古いのが『闇のパトス-不安と絶望-』で昭和26年雑誌に掲載された。梅原猛は仙台で学生だった父母のもとに生まれ、父母それぞれの両親、実家が結婚に総反対をしたために私生児として戸籍に記録されている。母が早くに亡くなり、二歳になる前に知多の伯父(父の兄、梅原家の本家)夫婦に引き取られて養育される。養父母が実の父母ではないことを知ったのはだいぶ後のようだ(自伝にそう書いている)。旧制第八高校(現在の名古屋大学教養部)を卒業し、京都大学の文学部で哲学を専攻する。大学でハイデッカーなどの実存哲学にのめり込んだ。そこで強い虚無感に陥り、そこから脱するきっかけがギリシャ哲学のヘラクレイトスとの出会いで、さらに虚無思想から脱出するために挑んだのが「笑い」についての哲学的研究である。笑いを中心とした感情の分析を通して、独創性にみちた梅原哲学を大胆に展開したユニークな人間論。不安と絶望から人間を捉えた実存主義に対して、笑いという明るい生の現象から人間を眺め、それを生の肯定原理として新しい人間学の確立をめざした画期的な試みである。西欧的な怒り-誇りの笑い、日本的な悲しみ-諦めの笑いを対比しつつ、世界史的な視点から新しい時代にふさわしい新しい感情パターンを追求し、危機の現代に鋭い指針を与える現代人必読の書。
《歓喜する円空》著★梅原猛/新潮社2006
岐阜で生まれた円空さんは山岳修行の後、東北、蝦夷まで乞食行脚して生涯で12万体の仏像を彫った。現在全国から約五千体が発見されている。ゴツゴツした木っ端の一刀彫。各地の子供達は円空仏を引いて遊んだり、浮き袋代わりにして泳いだりしたそうだ。そんな身近すぎる円空を研究する学者は皆無で、アカデミズムから外れた芸術家に、異端児と世間では思われている梅原先生が魅せられ虜になった「梅原生きるにあらず、円空わが内にありて生きるなり」と宣言し、80歳という高齢にして、三年にわたって全国の円空仏を訪ね歩いた。さらに手つかずの絵画と歌を分析解明し、民間愛好家による間違いだらけの研究を指摘。神仏習合の先駆けをなす白山信仰の修験者で、日本人の宗教思想を芸術表現にまで高めた文化史上の重要人物として再評価。円空の歌には笑いや遊びがいっぱいあるという。悲しい生い立ち、境遇を越え、長年の修行の末の "笑い"。空海は密教の最高の境地を「大笑」と呼んだ。円空もまた、自らを「歓喜沙門」と名乗り、木の中に元々存在する仏を喜びをもって彫り出していった。慈愛とユーモアに満ちた仏様たち。十二万体もの異形の神仏像を彫ったという江戸の仏師・円空。謎多き生涯を読み解き、早くに母を亡くした自らの人生を円空の生涯に重ね合わせつつ、新しい円空像を描き出す渾身の力作。
・・・なぜ「梅原猛」さんの著作を紹介したかというと、
とくに興味深いのは≪子供≫という作品である。彫刻のためのエスキース群を見ると、他にも「女」という文字、「男」という文字から彫刻的イメージが導き出されているが、そこからは飯田が回想するように「西洋文化のただ中で、漢字文化の意味をかえって強く意識させられたという事情」も浮かび上がって見えるし、また「ギリシャ以来連綿と続く西洋人体像の精微な体系、宗教的イコノグラフィの圧倒的な威力に日夜苦しめられている東洋の一留学生の苦しい内面も透視できる」のである。実際、生と死、官能性と榊性が沈断るウィーン、この獅な都会を覆う硬質な孤独の中で、飯田が体験したのは、解体の中にあってなお人を呪縛する西洋文明の吸引的魅惑と離脱への衝動との相剋であった。「ウィーン時代の後期には、形態の基本構造的な要素へ向かおうとした。単純な形態は美しい、という呪文がきこえていた。しかし、さらに一方では、十字架のヴィジョンから逃れることが出来なかった。ウィーンの長い暗い夜、読みふけった旧約とイエス・キリストの物語の幻像がどこかで街をかえしていたのだろう」と飯田は語っている。石彫の≪子供≫が好評でウィーン市からアトリエを提供されるという幸運に恵まれた飯田が、次に作りたいと思ったのが木彫であったことは、それゆえに、飯田の「離脱」と「治癒」の過程で大きな意味をもつものであった。遊行僧★円空の木彫仏の「おおらかさ、無垢、ひたむきな信仰」の記憶をこころに蘇らせながら、飯田が創り出した〈HITO〉の連作は、長い魂の彷捏の果てに彼が到達した救いの形象、ヒューマニズムを離脱した目から捉えなおした「人間」の像であったといえよう。彫刻家飯田にとっての「触覚」の意味は、この長い過程を経ることでその十全な姿を獲得したのである。以後、飯田は、ウィーンのアトリエで、ユーゴスラヴイアやベルリンの彫刻家シンポジオンで精力的に制作を展開、また、ミラノやヴェネツィア、ベルリンの画廊で個展を開催、ヨーロッパでの彫刻家としての評価をたしかなものとしていく。
・・・「飯田善國」と「梅原猛」が、なんと「円空」でつながっているのです。
《重要なお知らせ》「円空さん」を返してください、お願いします。
「円空連合」/岐阜県が生んだ偉人、円空上人にかかる史実および文化的遺産の顕在化、観光活用を図るために協同体制を整え、推進することを目的に結成された組織です。現在、岐阜県内の19の市町村が加盟しています。
http://enku.jp/oshirase/index.html
★岐阜県関市字鳥屋市に展示されていた円空仏21体が、平成17年6月に盗難に遭いました。関市教育委員会では円空仏の行方を捜し続けていますので、どんな些細な情報でも結構です是非ご連絡ください。
【盗難に遭った円空仏】鳥屋市不動堂所有(関市上之保鳥屋市)円空作・神仏像(木像)21体
円空仏のあった不動堂を「お不動さん」と呼んで、むかしから、鳥屋市の人たちはだいじにしており、毎日、花やごはんをそなえておがんでいました。今回の盗難に、地域の皆さんは大きなショックを受けています。
★岐阜県下呂市立小坂郷土館に展示されていた円空仏1体が、平成16年4月に盗難に遭っています。下呂市教育委員会では円空仏の行方を捜し続けていますので、どんな些細な情報でも結構です是非ご連絡ください。
【盗難に遭った円空仏】松尾八幡神社所有(下呂市小坂町門坂) 菩薩像1体(高さ36.5cm)
薬師如来像1体の左右に菩薩像2体が並んで、1対となっています。うち、菩薩像1体が盗難に遭っています。この円空仏は神社の祭礼で信仰の対象となっており、円空仏の裏側には墨で文字が書かれていて、右肩に削れたような傷があります。地元の言い伝えで、「昔々、疫病がはやり村人たちが苦しんでいる時に、円空さんが3体の仏を刻まれた。この円空仏を拝み念ずることにより村人たちは救われた。」とあり、3体が揃うことにより本来の姿で「また悪い事があってはいけない、早くお戻りいただきたい」と強く願っています。
《羽島円空資料館》
501-6319 岐阜県羽島市上中町中/058-398-6264
https://www.city.hashima.lg.jp/0000000216.html
円空上人生誕の地「はしま」で最も多くの円空仏が安置されている中観音堂・羽島円空資料館では、本尊の十一面観音像をはじめ17体の円空仏(県重要文化財)を間近に見ることができます。
《洞戸円空記念館》
501-2806岐阜県関市洞戸高賀1212番地/0581-58-2814
http://www.horado.com/kouka/enku.html
高賀の郷が全国からの修験者や信者を魅了した様に、円空も入定の決意を固めるほどこの地に魅せられ、価値のある多くの作品をここに残しました。円空記念館には、30体近くの円空仏が展示してあります。
《関市円空館》
501-3264 岐阜県関市池尻185/0575-24-2255
https://www.city.seki.lg.jp/0000001466.html
江戸時代(1632年)に岐阜県で生まれた僧「円空」は、近畿地方から北海道の各地を遊行し、人々の幸を願いおびただしい数の円空仏を彫りつづけました。これらの円空仏は全国に約5,000体残っています。当館では関市に数多く残されている円空仏のうち約30体をご覧いただくことができます。円空の自刻像と対面するとその微笑の中に漂泊の生涯を送りながらも慈愛を施し続けた彼の人柄を感じられる気がします。晩年は関市池尻弥勒寺の地に自坊をかまえ、ここを本拠地として活躍し、長良川河畔で入定し(1695年)その64年にわたる生涯を終えました。関市円空館では、このように関市とゆかりが深く郷土の誇りである円空を広く紹介しています。周辺には円空入定塚や円空の墓もあります。また、この地は円空の時代より1000年前、武儀郡の中心地として栄えた地域で、弥勒寺跡・弥勒寺東遺跡・弥勒寺西遺跡などからなる武儀郡の役所があったところでもあり、これらも紹介しています。
《円空美術館》
500-8003岐阜市大宮町2-17/058-266-4556
https://itp.ne.jp/info/216907930300000899/
建物は1階が円空美術館、2階は古美術品が展示してあり、古美術など骨董品を扱う松栄堂が管理運営を行っている。本物の円空仏を見学できる。説明は音声テープが流される。