・・・デュシャンのオマージュとして「玉手箱プロジェクト」してきましたが、そもそもデュシャンは様々な「Box」を制作しています。年代順に観ていきましょう。
■1913《3つの停止原理》
メディウム:キャンバス、ひも、ガラス板、曲線定規など
サイズ:28.2 x 129.2 x 22.7 cm/蔵:ニューヨーク近代美術館
オブジェ作品。紺で塗られた3つのキャンバスそれぞれにひも、3枚のガラス板、3本曲線定規。《大ガラス》の上部、花嫁の一部。デュシャンは、1メートルの長さのひもを、1メートルの高さから水平に落とし、それを3回繰り返した。そして、そのときにできた曲線にゆがんだ状態のまま、3本のひもをそれぞれキャンバスにニスで固定した。このキャンバスに貼り付けた1メートルのひもは、横から水平に眺めると、縮んだ1メートルになってしまう。この3本の固定されたひもから、そのゆがんだ線にそって切り取られた3本の木製の曲線定規が作られた。この木製定規は、★クロケットのスティックを入れる箱に収められた。これをデュシャンは「缶詰にされた偶然」と呼んだが、「論理的な現実」に対するものとして「純粋な偶然」を選び出そうと考えたという。
■1914《1914年のボックス》
デュシャンは自筆のメモ類を写真によって複製し、★ボール紙の箱に入れたものを3部だけ作り、パリで《出版》した。二十年後の『グリーン.・ボックス』の試作品とも言うべきこのメモ集は、-般に『-九一四年のボックス』La boîte de 1914(S210,Ph,P90)と呼ばれる。このボックスには十六のメモと一枚のスケッチ(「太揚のなかに徒弟をもつ」)が収められ、それらはすべて十五枚のボール紙の台紙(25×18.5cm)に貼られている。このボックスには十六のメモと一枚のスケッチ(「太揚のなかに徒弟をもつ」)が収められ、それらはすべて十五枚のボール紙の台紙(25×18.5cm)に貼られている。容器の箱はコダックの写真乾板の空箱が使われている。なお、オリジナルのメモは、のちにウォルター・アナレンズバーグに与えられ、現在はフィラデルフィア美術館のアレンズバーグ・コレクションに所蔵されているが、それもほぼ同様の体裁をとっている。これらのメモは《停止原基》に関するものを除けば、《大ガラス》あるいはデュシャンのその他の作品に対する直接的なレフェランスを持たない。とすれば、このボックスは、いわば『グリーン・ボックス』の余白に書かれている、と言うこともできるだろう(メモが書かれた年代そのものは「グリーン・ボックス」とほとんど変わらない)。容器の《箱》は写真乾板用のまさに《レディ・メイド》である。『カバンヌとの対話』でデュシャンは、こうしたボックスについて、はじめから箱のイメージがあったわけではなく、むしろアルバムのような形にすることを考えていたと語っている。なお、このボックスの「三」という製作部数にも、彼の原型的なオブセッションを認めることができよう。この《ボックス》には、英訳としてHamilton.《The Bride Stripped Bared by Her Bachelors, Even》, Schwarz《Notes and Projectes for The Large Glass》,があり、日本語にも瀧口修造(《デュシャン語録》、粟津則堆(《みづゑ》1968年12月号)、東野芳明(《マルセル・デュシャン》)の諸氏によって部分的に訳されている。
■1916《With Hidden Noise or A Bruit Secret》
■1916《櫛(Comb)》
《参考》1937季刊誌「Transition」No.26
執筆者:ジェイムズ・ジョイス、フランツ・カフカ、その他
マルセル・デュシャンによりデザインされたオリジナルカバー
デュシャンは、自身のレディ・メイド作品「櫛(Comb)」を使って、この表紙カバーをデザインしている。文学的な雑誌で、超現実主義者、表現主義者、およびダダイズムアートとアーティストを特徴とした実験的雑誌でもあった。もともとのレディ・メイド作品の「櫛(Comb)」は、1916年にオリジナルが、その後レプリカとして、1963年、1964年に作られ、12個のレプリカが存在している。鉄製の犬用櫛で、「3 OU 4 GOUTTES DE HAUTEUR N'ONT RIEN A FAIRE AVEC LA SAUVAGERIE M.D. FEB 17 1916 11AM」の印字が施されている。和訳は「高さ三、四滴は野生とはなんの関係もない」。デュシャンは、この作品について、美しくも醜くも無い理想的レディ・メイド と発言。
■1921《ローズ・セラヴィ、何故くしゃみをしない?》
メディウム:修正レディ・メイド(★鳥かご、大理石、温度計、イカの甲など)
サイズ:11.4 x 22 x 16 cm/蔵:フィラデルフィア美術館
修正レディメイドの1つ。デュシャンのコレクターであるキャサリン・ドライヤーによる依頼で、妹のプレゼント用に制作された。フィラデルフィア美術館所蔵。1963年と1964年にレプリカが制作されている。角砂糖のようなたくさんの大理石の立方体、温度計、そしてイカの甲が、手ごろな大きさの古い長方形の鳥篭の中に詰まっている。この作品に残されたデュシャンのサインはデュシャンの女装用のペンネーム「ローズ・セラヴィ」(RoseSelavy)。それが《ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?》である。デュシャン自身は、次のような解説を残している。「この小さな鳥篭は角砂糖で一杯だ…しかし角砂糖は大理石でできていて、鳥篭を持ち上げた時には予測できなかった重さに驚かされる。温度計は大理石の温度を示すためのものだ。」詳細な解説は残されていないが、さまざまな憶測がされている。たとえば、制作依頼者であるキャサリン・ドライヤーはキュビズムのパトロンとして有名だった。そのため、大理石の立方体はキュビズム=ヨーロッパ芸術=キャサリン・ドライヤーの好みのことを指しているという。また、152個の大理石には「Made in France」の刻印が押してあるが、152とは英知的な意味があるという。ずっしりと重い大理石は、同時に角砂糖にも見え甘そうである。その甘さは快楽や女性を暗示し、また女性とは、女装したローズ・セラヴィであり、デュシャン自身のことでもある。そして鳥篭から半分はみだしたイカの甲は大理石と同じ石灰質。しかし鳥篭から脱出しようとしているところから、角砂糖と似て非なるものであることを主張している。そのイカの甲はたデュシャン自身でもある。つまり、ヨーロッパ美術の世界からニューヨークの新しい美術の世界へ脱出しようとしているデュシャン自身を表現した作品だとされている。また、イカの甲はフランス語では「Os de Seiche」で、甲=「Os」は発音は[O]であり、[O]はゼロともいえる。温度計には普通、摂氏と華氏の目盛りが付いているが、摂氏0度とは華氏32度。0度か32度か分からない、評価(温度)の分からない私はくしゃみができない。くしゃみをするという観念とくしゃみをしない?という観念との間には、はっきりした隔たりがある。なぜなら、人は結局のところ、自分の意思でくしゃみをすることはできないからである。くしゃみという行為は、たいてい意に反して勝手にしてしまうものである。ローズ・セラヴィ(マルセル・デュシャン)は、ヨーロッパで不遇扱いされている。この鳥篭から飛び出しニューヨークへ向かうことかもしれない。この作品は300ドルでキャサリン・ドライヤーの妹に販売したが、彼女はこの作品が気にいらず姉のキャサリンに転売する。キャサリンも短い間しか所有せず、同じ値段でアレンズバーグに譲った。
■1932《オポジションと対応するマスは和解する》
マルセル・デュシャン、ヴィタリー・ハルバーシュタット/ブリュッセル、レシキエ/エドモン・ランセル 革製特装版/草稿、注記・書き込み:マルセル・デュシャン
■《1932年のボックス》
マルセル・デュシャン 1932年 箱、『オポジションと対応するマスは和解する』のタイプ原稿・手書きの草稿・校正刷り・ダイアグラム、素描《クイーンにチェックされるキング》
■1934《グリーンボックス/The Green Box》
メディウム:印刷
サイズ:33 x 28.3 x 2.5 cm/蔵:メトロポリタン美術館
メモ集作品。緑色のスウェードを貼った1つの箱の中に、1923年の作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)の制作に関係するスケッチ、メモ類、写真などが整理されず、綴じられずに、ばらばらに保存された形式となっている。1911−20年に書き溜めたもので全部で94点ある。デュシャンは《大ガラス》について、出来上がった視覚美術だけで終わらず、完了にいたるまでの★「思考のプロセス」も美術だと主張した。そのため《大ガラス》の制作期間(パリとニューヨーク滞在中)におけるデュシャンの創造的思考のプロセスがメモから分かるようになっている。デュシャンは、制作メモがただのバラバラな状態で終わらず、それぞれが同じ表現概念の異なるパーツのようにして関係していることを《グリーンボックス》で表現したかったという。それらバラバラのアイデアを一所に集めて全体に共通するコンセプトが浮かびあがるように見せることがこの作品のポイントである。読者は自由に94点のメモを選び、配列して、自分自身のストーリーを作ることができる。グリーンボックスは通常版とメモの原本を一点ずつ添えた特装版10部をくわえて1934年9月に最初の箱が出版された。その年に、特装版10部と通常版35部が売れて、印刷費はほぼ回収できたという。グリーンボックスのメモを誰よりも読みふけったのはアンドレ・ブルトンでした。「ミノトール」1934年12月号で、ブルトンは「花嫁の燈台」というタイトルのエッセイで、グリーンボックスのメモを参照に《大ガラス》を解読し、現代美術の最高峰に位置づけた。
■1935 《Rotoreliefs》
Disks to be placed on gramophone turntable
■1941《トランクの箱/Box in a Valise》
メディウム:写真、革製トランク、20部限定
サイズ:40.7 x 38.1 x 10.2 cm/蔵:ニューヨーク近代美術館
1941年にマルセル・デュシャンによって制作され、出版された複製芸術作品。「大ガラス」をはじめデュシャンのさまざまな作品のミニチュア・レプリカ、写真、複製をおさめた革製のトランク。1から20までの番号と署名入りの20部限定豪華版と、番号なしの300部未満の普通版がある。デュシャンは何か新しいものを描くかわりに、自分の好きな絵やオブジェを複製して、それらを集めてできるかぎり小さな1つのスペースに★凝縮させる表現を考えていた。また持ち運び可能な★「ポータブル性」を意識した芸術を制作しようとしたため、当初は★本にすることを考えたが、思う通りにいかなかったので★箱に変えたという。つまりポータブル美術館なのである。「グリーン・ボックス」や「ホワイト・ボックス」が紙の上の観念の領域での活動に対して、「トランクの箱」は、デュシャンが現実の世界で産みだした作品の数々が、あるいはミニチュアで、写真やカラー複製の形で集積されている。実質上このトランクの箱にはデュシャンの主要作品がすべて網羅されている。このデュシャンの実際作品の集積の《トランクの箱》と観念上の集積作品《大ガラス》の延長にあるのが最後の作品《遺作》である。なお、制作にはジョセフ・コーネル、クセニア・ケージ、ジャクリーヌ・マティスなどの長期的な協力があったという。
《参考》「ブック・アート/Book Art」
本の形式をとった美術作品のこと。日本では、10世紀ごろから「絵巻物」という、絵と詞が組み合わされたアート・ブックが親しまれている。それより先に生まれた「経典」「古筆切」や、江戸時代後期に親しまれた「豆本」など、さまざまな形態の「本かつ美術品であるもの」が現在にも伝わっている。西洋では装飾写本がつくられていたが、19世紀後半にパルプ紙が大量生産されるようになると、印刷技術が急速に発達していった。これにより、世紀末美術やアール・ヌーヴォーの図版を取り入れた美術雑誌や作品集が出版されるようになり、工芸品のようなアール・デコの装丁本が流行した。その後、未来派、ダダ、シュルレアリスムといった美術運動の作家たちが、積極的に本の形式を取り入れた作品を制作した。また、第二次世界大戦前のフランスでは、ヴォラールやカーンワイラーら画商たちが、ボナール、ドラン、ピカソ、ダリといった当時の画家による版画を用いた挿絵本を出版していた。60年代に入ると、フルクサスがグループの活動記録やその宣伝のため、本や雑誌をつくるようになった。彼らは★デュシャンの《グリーン・ボックス》や《ホワイト・ボックス》など、一連のボックス作品に影響を受け、箱状の本も残している。それらは「開いて、見る」という本来の本の形態だけでなく、「美術作品として置く」というオブジェとしての機能も果たした。そうした流れを受けて、70年代に加納光於や若林奮らが「ブック・オブジェ」として発表するようになった。80年代から大竹伸朗は、自身のドローイングと身近な印刷物やゴミなどを組み合わせた「スクラップ・ブック」をつくり続けている。
■1959《torture-morte(still torture)》
■1959《警報ポスト:1959-60年国際シュルレアリスム展カタログ》
アンドレ・ブルトン、マルセル・デュシャン共編
BOITE ALERTE: EXPOSITION INTERNATIONALE DU SURREALISME 1959-1960
郵便ポスト型のケースに版画、手紙、レコード、葉書、展覧会カタログなど
28.5×18.0×6.5
1920年代から30年代にかけて世界を席巻したシュルレアリスムも、第二次世界大戦が始まり1940年代になると、急速にその勢いが衰え始める。それは、パリでは革命よりもレジスタンス運動が若者の関心を引き、そして多くのモダン・アーティストたちがアメリカに亡命していった時期と符合する。一九四二年、ニューヨークで、亡命シュルレアリストたちを総動員し、大富豪ペギー・グッゲンハイムの援助で開かれた大規模なシュルレアリスムの展覧会「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展において、すでにその兆候は見えている。同時代的に先鋭的なアート・シーンを牽引したシュルレアリスムは、すでに回顧され、評価される時期が始まっていた。そんな中、戦争が終わりパリに戻ったアンドレ・ブルトンは、アメリカにとどまっていたデュシャンの協力を得て一九四七年にパリのマーグ画廊で「国際シュルレアリスム展」を開催する。これは大盛況であったが、シュルレアリスムがその時代に生きていることを示した、ほとんど最後の大イベントであった。その後、1959年、61年、65年などにも国際展が開かれたが、66年のブルトンの死によって、その激しい道のりは求心力を持つ芸術運動としての終焉を迎える。ここに出品するのは、1947年と59年の国際シュルレアリスム展のカタログである。いずれもデュシャンの気の利いたアイデアが見どころである。
・・・つづく