・・・2018年「大晦日」、露香さんの最終回を掲載します。大阪歴史博物館での「平瀬露香展」パンフレットに、露香さんの葬送写真が掲載されていましたが、心なしか寂しい感じがします。
《参考》「春愛君葬式一件控」1908年(明治41)個人蔵
露香の死と葬儀の記録。明治41年2月8日、露香は京都の別邸で逝去した。訃報はまず大阪の親類や親近者に、続いて山崎・千草の両平瀬家、菩提寺天満「妙福寺」に知らされた。遺骸は十日には大阪の本宅へ運ばれ、十六日に神式で葬送が行われた。謚号「稚桜春愛命」法号「正俊院春愛日和信士」。
★画像は、「露香葬送行列」香翁雅帖天より。
【松原三五郎】(1864~1946)
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2007/naniwajinbutsu/naniwajinbutsu_item1.html
露香肖像画の作者。晩年の露香の姿を写したものであり、豪商・平瀬家の当主でありながら、多くの趣味に生きた露香という人物の人間像を映し出すような見事な肖像である。松原三五郎は岡山市出身の洋画家で、岡山県師範学校変則中学科を経て上京し、初代五姓田芳柳、ワーグマン、渡辺文三郎らに洋画を学ぶ。1884年より岡山県師範学校と岡山県尋常中学校の図画教師を務めたのち、1890年には大阪師範学校に転任した。画塾「天彩学舎」(阿倍野区松崎町3松崎町公園内)を開き、池田遙邨ら優れた画家を育てたことでも知られる。
http://www.city.osaka.lg.jp/abeno/page/0000001570.html
https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/bunka/sakaicollection/matsubara.html
http://jmapps.ne.jp/okayamakenbi/sakka_det.html?list_count=10&person_id=264
http://asahikou.sakura.ne.jp/Dataroom/Person/matubara_sangorou/matubara_sangorou.html
《参考》「老媼夜業の図」作★松原三五郎/1892年(明治25)頃/水彩、紙48.7×70.8cm
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu120/artrip/pickup/
世の中を照らすことの進歩は目覚ましく、青色LEDがノーベル賞を受賞したのも記憶に新しいところです。しかし人類の歴史を振り返ってみると、長い間、闇は私たちの身近にあり続けました。建物の中は薄暗く、光よりも闇が多くの空間を占めており、そのような環境で絵画や彫刻も人々の眼に触れてきたのです。闇を表現すること――これもまた、画家たちが魅せられたテーマでした。17世紀、イタリアのカラヴァッジョ、フランスのラ・トゥール、オランダのレンブラントらによる、光と闇のコントラストを際立たせたドラマティックな絵画において、闇の表現は1つの頂点に達し、“テネブリズム(暗闇主義)”として流行しました。それは、時を経て19世紀に、西洋絵画に初めて触れた日本人の眼に新鮮な衝撃を与えたのです。大阪洋画界の草創期を牽引した画家・松原三五郎が、西洋のテネブリズムにどの程度影響を受けたのかはよくわかっていません。しかし、江戸以前の日本にはなかった光と闇の対比的表現に強い興味を引かれていたことは、本作からも明らかです。畳に障子の日本家屋の一室に、女性が二人、それぞれの時を静かに過ごす様子が描かれる《老媼夜業の図》。中央におかれたランプがほのかに明るく室内を照らし、女性の顔には強い陰影が浮かび上がっています。この見事な明暗のコントラストは、油絵ではなく水彩で描かれているのも驚きです。一見旧き良き時代を描いたように見える女性の姿も、当時の最先端を示しているといえるかもしれません。画中の光源は蝋燭でなくランプであり、右側の婦人が手にするのは針仕事ではなく編み物です。また、左の女性はこたつに当たりながら新聞を読んでいます。女性の識字率が当時どの程度だったか正確にはわかりませんが、文明開化後のモダンな生活が表現されているのです。本作品は、★1892年(明治25)に「大阪府立博物場」で開催された大阪で最初の洋画展に出品されたと推定されています。発表当時は、絵の後ろになにかしかけがあるのではと、額の裏をのぞこうとする人まであったといいます。
・・・調べてみるものですねえ。「松原三五郎」(1864~1946)がなぜ露香さん(1839~1908)の肖像を描いたのか不思議に思っていたら、「博物場」つながりだったことがわかりました。露香さんは1892~1894「博物場長」でした。さて露香さんが唯一、胸襟を開いて語り合えたという町田久成さん、さらに継続して調べていますと興味深い資料や論文が見つかりました。
【町田久成】(1838~1897)
https://www.kagoshima-yokanavi.jp/rekishi/ijin/036.html
明治時代の日本の官僚、僧侶。旧薩摩藩士(島津氏庶流)。通称・民部、号は石谷。慶応元年(1865)、他の18名と共にイギリスへ留学。国家的に文化財を保護するために博物館の建設を提唱し続け、東京国立博物館の初代館長を勤めた人物である。彼は大英博物館を見て感銘を受け、また日本の文化財保護の現状に危機感を感じ、日本にも国家的な大規模博物館を建設するために奔走し、東京国立博物館の初代館長となる。後に出家して三井寺光浄院の住職となり、僧正となる。実弟に小松清緝(改名前は町田申四郎実種)。小松清廉の妻の千賀は叔母にあたる。
https://camp-fire.jp/projects/view/11794
2016年11月14日の博物館の日に、東京上野の東京国立博物館(東博)の本館と平成館の間の中庭に設置・除幕された「町田久成」胸像。製作は文化勲章受勲者であり日本の彫刻界の第一人者である中村晋也さん。銅像は★「湯島聖堂博覧会」での記念写真を参考にされたそうです。台座正面の碑銘「初代 町田久成館長像」は安倍晋三内閣総理大臣の書です。
《参考》史跡「湯島聖堂」
113-0034 東京都文京区湯島1-4-25/03-3251-4606
★「湯島聖堂博覧会」
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=144
https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1582
明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれた。博覧会の会期は20日間、午前9時から午後4時までの開館時間が設けられた。この博覧会の陳列品は、前年の大学南校(文部省の前身)物産会の資料を引継ぎ、さらに翌年オーストリアで開催される★ウィーン万国博覧会の参加準備も兼ね、広く全国に出品を呼びかけ収集している。博覧会出品目録草稿によると陳列品は、御物はじめとする古器旧物(文化財)と剥製、標本などの天産物を中心に600件余りをかぞえ、広汎な種類の展示であったことがうかがえる。特に、大成殿中庭のガラスケースに陳列された名古屋の★金鯱は観覧者の注目を集め、博覧会の人気に拍車をかけた。当事者の1人である田中芳男が後に述べているように、この博覧会は観覧者が多く混雑したため入場を制限し、対応策として会期を4月末日まで延長せざるをえなかった。博覧会の入場者総数15万人、1日平均約3,000人の観覧者が大成殿に足を運んだことになる。明治5年の博覧会は、恒久的な展示を行なう博物館の誕生でもあった。ガラスの陳列ケースの並ぶ室内、さらにケース内の陳列品は、当時の観覧者に新鮮な印象を与えたことだろう。政府によるわが国最初の博覧会の開催、東京国立博物館はこれをもって★創立・開館の時としている。
《参考》博物局書籍館長、町田久成一その宗教観を中心として/日本大学教育学会「教育学雑誌」第10号/文★後藤純郎
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/nihondaigakukyouikugakkai/10/0/_contents/-char/ja
(前略)町田久成の諸意見について、世人が誤解しやすいのは、彼が★奇人なるが故に、彼の説は信ずべからずとする考え方である。「大日本人名辞書」は、町田久成を「鑑識家、また畸人」とし、さらにくわしく「人となり廉直にして、小事に区々たらず、古書画古器物の鑑定に精しく、其の所蔵も極めて尠なからず、深く感ずる所あり、悉く売却して仏門に入る、近世の一奇人なり」とダメおしをして結んでいる。さらにまた大植四郎編「明治過去帳」には、「……資性廉直、畸人を以て知られ、頗る古美術の鑑識に長じ……」とある。奇人とよばれる理由のひとつは、博物館の上野の新館完成をみると、突然退官を申し出たことであり、また翌16年5 月、俗に三井寺と呼ばれる園城寺法明院の桜井敬徳師に請うて、奈良東大寺戒壇院において円頓菩薩戒を授けられたことであろう。さらに16年10月には農商務省御用掛に任ぜられ、博物局勤務となり、また18年3 月には元老院議官になったが、22年末にこれを辞して再び仏門に入ってしまった。そのまま元老院議官として在任すれば、翌年には、新に開設される貴族院議員になれたのにとするのが、世俗の入の卒直な感想であり、それを捨てて顧みない町田久成を奇なりとするわけである。(略)明治維新と同時に全国に吹き荒れた廃仏毀釈のあらしが、久成に大きな衝撃を与えたことは否定できない。この場合に展開された神道派の「神武創業の始めに」かえるという強い主張と、新におかれた神祗官の急激な革命的行政の実力は、たちまち全国に大きな影響をおよぼした。特に寺院、僧侶に対する迫圧は、江戸時代を通じて寺院に屈伏していた神社側の人々の、報復行為とも見えるほど激しいものであった。(略)そしてまた★廃仏毀釈の最大の、そして取り返しのつかぬ被害は、古器物、古美術、古文献の破壊であった。古美術に対して造詣の深い久成が、いかに心を痛めたかは察するにあまりある。このために久成は、生涯をかけ、名誉も富もなげうって、博物館の充実に献身したものであろう。
【後藤純郎】(1924~2002)
https://ci.nii.ac.jp/author?q=%E5%BE%8C%E8%97%A4+%E7%B4%94%E9%83%8E
東大文学部卒、東洋史専攻。日大名誉教授、図書館学が専門。昭和51年に発表した論文★「市川清流の生涯~『尾蠅欧行漫録』と書籍館の創立~」は、清流に関する情報がほとんどなく、インターネットも存在しない時代に、こつこつと史実を調べて積み上げ完成した。「後にも先にも(後藤)先生を越える論文を見ない」と評されている。後藤教授は学会活動も精力的にこなし、日本図書館学会(現日本図書館情報学会)では評議員や理事、監事などを歴任。また、日本図書館協会(東京都中央区)によると、協会の評議委員や出版委員を10年ほど、その他に整理技術委員なども務めた。2002年11月逝去、享年78。
《参考》市川清流(1822~1879)
江戸時代から明治時代初期の官吏・漢学者・国学者。日本における近代図書館創設の功労者の一人。★「博物館」という訳語の創作者。
・・・明治初期の混乱、とりわけ「廃仏毀釈」。町田久成さんの考えや生活は、露香さんに重なるところがあります。この論文を書かれた後藤純郎さんの研究や調査も、感心させられます。「明治150年」にあたり様々なイベントも開催されていますが、じっくり考え(学び)直さなければならないと痛感しています。
《小説「日本博物館事始め」》著:西山ガラシャ/日本経済新聞出版社 (2017/3/23)
https://www.nikkeibook.com/item-detail/17142
明治15年、現在の東京国立博物館が竣工した。外交官の道を断たれた男の、もうひとつの夢の実現でもあった。御一新とともに、寺や城は壊され、仏像や書画骨董が海外に流出していく。「日本が生き残る道は西洋の物真似しかない」と多くの人は信じているが、文明開化の時勢に流されて、日本の美と技をうち捨ててはおけぬ。自分ひとりでもミュージアムを創る。留学中に観た大英博物館のようなミュージアムを。旧物破壊★廃仏毀釈の嵐に抗い、大久保利通、島津久光、岩倉具視など新政府の錚々たる面々が相見え火花を散らす政争に巻き込まれながらも、粘り強く夢を形にした官僚★町田久成。幕末には薩摩国主の命で英国に留学した経験も持つ男を主人公として、維新の知られざる側面に光を当てたユニークな歴史小説です。
《参考1》流出した日本美術の至宝、なぜ国宝級の作品が海を渡ったのか(筑摩選書)/著:中野明
明治の廃仏毀釈の嵐の中で、大量の日本の古美術品が海外に流出した。本書はその?末を描いたものだが、事実は小説より奇なりを地で行く面白さだ。シャミセンガイなどのブラキオポッド(腕足類)を採取しに日本にやってきた大森貝塚の発見者、モースが、予期せずして東大の教師となり、モースの仲介でフェノロサが東大の哲学教師として来日する。モースの知人で資産家のビゲローも来日し、収集家3人は、ボストンを世界一の日本美術コレクションの拠点にするという明確な意図のもとに収集を始める。全ての始まりはブラキオポッドだったのだ。フェノロサは、また、離婚の慰謝料を支払うために鉄道王フリーアのコンサルタントの役割を果たす。こうして琳派のフリーア・コレクションが誕生したのである。流出には日本人も加担していた。山中定次郎と林忠正の2人の美術商。醜聞で野に下った岡倉天心もボストンに美術品を持ち出す。欧州にもキヨッソーネとケルンの東洋美術館がある。面白いのは帝国ホテルを設計した建築家、ライトが浮世絵ディーラーでもあったことだ。ライトは家族を残して駆け落ちしたためお金が必要だったのだ。著者は、美術品の海外流出を極力抑えるべきだとの声に対して、美術品の流通を開放する方が得策だという。美術品は日本のソフト・パワーの中核で、たとえ嫌日ムードが漂う時でも多くの外国人を日本贔屓にすることができるという。また、開放によって日本人が見過ごしていた新たな価値が加われば、それは日本文化がより豊かになることを意味していると主張する。加えて、経済の弱体化は、文化の衰退や貧しさを招き、ひいては国民の美術への鑑賞力や無関心につながることを肝に銘じなければならない、すなわち、ソフト・パワーの向上には確固たる経済基盤が欠かせないと主張する。その通りであろう。
《参考2》「廃仏毀釈百年」/著:佐伯恵達
〝明治維新における「神仏分離」(しんぶつぶんり)と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)ないしは「神仏並存」(しんぶつへいぞん)という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。…中略…そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。その神仏習合を鉈で割るように「神と仏」に分断して、制度においても神仏分離した。これは過誤である。〟
《参考3》「明治維新という過ち―日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」/著:原田伊織
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52221
《NEWS》2015.2.7産経WESTより
書名からはスキャンダラスな印象を受ける読者もおられるかもしれないが、底流にあるものは史実を重んじる精神と、倫理観を重視して歴史を読み直そうとする著者独特の視座である。日本の近代を開いた明治維新-著者は、日本近代史の大前提となっているこの視点に異議を申し立てる。そして、明治維新を成し遂げたとされている著名な事件、事象の実相を詳しく整理し、幕末動乱の一連のムーブメントを狂信的原理主義によるテロリズムであったと説く。そのテロ行為の実態をもつぶさに列挙し、これまで語られてきた麗しい「明治維新物語」を明快に否定する。たとえば、「吉田松陰」は長州軍閥・山県有朋が創作した虚像だった、といったように…。この視点は、明らかに現代の公教育と真っ向から対立するが、それについても「我々は薩長がでっち上げた官軍教育のウソにいい加減気づくべきであろう」と舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。特筆すべき点は、歴史解釈に長い時間軸を引く必要性を強調し、明治維新を、その後の昭和、平成に至る歴史と同じ時間軸に乗せて、「薩長のテロ革命さえなかったならば、日本が大東亜戦争に突入することはなかったであろう」と断じている点である。長州勢力の東北列藩に対する残虐行為にまで詳細に触れ、倫理観を殊更重視して語る著者のいちずともいえる筆致は、曖昧さの支配する現代社会に生きる私たちには鮮烈なインパクトを与える。著者の執念を感じさせる力作である。
・・・「歴史観」、進歩的史観・司馬史観・自由主義史観など、つい惹き込まれて右へ左へと揺れてしまう自分がいることは否めない。しかし、日本における伝統文化・芸術状況を観るにつけ、とりわけ「廃仏毀釈」という問題について、新年を迎えるにあたっての課題としたい。
★良い年をお迎えください。