・・・数えきれないくらい「四天王寺」さんにはお参りしてますが、その周囲にも多くのお寺があります。ただ、この東側にはめったに来ないので興味津々です。もう少し、お付き合いください。
《竹林寺》
543-0043大阪市天王寺区勝山1-11-19/06-6779-5541
「竹林寺」は千日前にありましたが、この地に引っ越してきたので以前も訪問させていただきました。(再掲)
《小儀宮跡》
543-0043大阪市天王寺区勝山2-19-20
四天王寺七宮(大江・上之宮・小儀・土塔・河掘・堀越・久保の7社)のひとつに小儀宮があります。聖徳太子が四天王寺建立の際、回りを取り囲むように建てた七つの神社のうちの一つです。「北地村社小儀ノ跡地ナリ、明治四十一年九月二十五日官許ヲ得テ神社ヲ 郷社大江神社境内ニ移シ以テ祭祀ヲ嚴ニス将来奢地ノ湮滅ヲ憂イ地ノ隅ヲトシ 牌ヲ建テ之ヲ表ス/大正三年八月一日」現在は大江神社に合祀されています。
《天正寺》
543-0043 大阪市天王寺区勝山1-11-31/06-6771-4161
http://www.geocities.jp/tensho_ji/index.html
大阪市天王寺区にある小さな禅寺です。住職の佐々木奘堂は、京都の相国寺専門道場で修行し、2010年12 月に住職として入寺した禅僧です。天正寺は、宗派としては臨済宗(相国寺派)に属しています。(「宗派」は、後の時代に誰かが作ったものが、たまたま固定化されたものですので、一切こだわりはありません。「禅」は、一切の宗派を超えています。)唐の時代に中国で起こった「禅」は、人類史上で見ても、実に画期的な大転換です。天正寺で実践していく「坐禅」は、「禅」が起こる以前の、狭い意味での「坐禅」(何らかの坐り方や呼吸法・瞑想法)ではなく、通常の仏教が根底から大転換された「禅」を学び実践していくことです。天正寺での坐禅会 では、具体的には、次のような(生きる)姿勢を実践していきます。
1.「持前・自性を信じ、養い修し、活溌溌(活き活き溌剌)に発揮していく姿勢」
2.「腰を据えた姿勢(やる気・元気が全身に充ちた姿勢)」
3.「『あれこれ無し』を常に主体的に実践していく姿勢」
ここに記した言葉でわかるように、「坐禅」といっても、特別な理屈や方法は何もなくて、私たち各自が、その「持前」、つまり本来備えている自性、あるいは天性(天賦の神性)を、最大限に発揮していくだけです。誰でも、どのような状況にあっても、実践していける道です。さらに言えば、「腰が据えられた姿勢」は、「腰痛」や「ぎっくり腰」で苦しんでいる人にとっても、最も腰に良い姿勢です。ですから、腰痛や肩こりで苦しんでおられる方でも、その改善にベストの姿勢を学び修していきますので、喜んでご参加お待ちしています。(膝が悪い方でも全く大丈夫です。)ご関心をもたれた方は、ぜひ一度、天正寺にお越しください。また天正寺では、坐禅会以外にも、書道教室や論語読書会、英語勉強会や、落語会やその他の企画がありますので、ご関心ある方、ぜひご参加お待ちしてます。
《蒼龍寺》
543-0043大阪市天王寺区勝山1-11-33
当山は、京都小松谷正林寺住職を退いた慈光大和尚が、浪花における浄土宗の学寮として、1738年(元文3)に創建された。その後、1791年(寛政3)第五世法眞和尚が清水観世音を信仰し、大和壺坂の子島寺へ度々参詣するようになる。その縁により子島寺の鎮守荒神である歓喜天を授かり安置された。明治になり寺禄がなくなり廃寺に等しくなる。1882年(明治15)本山の名により、本阿上人が住職となる。念仏三昧を行い、弥陀一佛主義を専らとし、夢告によって密教を習得。以来、天尊を本尊とし一万座浴油供養をされる。その後十七世恭聞上人に至り、現在の本堂が1919年(大正8)に建立された。本尊、鎮守の他、十一面観世音菩薩(南北朝時代)不動明王を安置する。本堂北側の近代的な建物は、建築家でもある一心寺の★高口恭行長老の設計である。
※蒼龍寺書院・庫裏/設計:(株)★造家建築研究所
http://www.hayashikensetsu.com/works/w6-001
【高口恭行】(1940~)
http://www.o-bay.or.jp/page/magazine8_1.html
兵庫県神戸市出身。浄土宗寺院一心寺の長老。工学博士。大阪を代表する建築家の一人であったが、現在は引退。元奈良女子大学教授。長男は現住職の高口恭典(元獣医)。次男は早稲田大学教授の高口洋人。三男は俳優の高口真寤。 大倉酒造研究所(現・月桂冠総合研究所)の初代所長を務めた濱崎秀は母方の祖父に当たる。商社に勤める父親に伴い5歳までを上海で過ごす、終戦と共に引き揚げ。中高は甲陽学院中学校・高等学校。京都大学工学部建築学科入学。西山卯三研究室に配属。1966年京都大学助手、1975年奈良女子大学家政学部住居学科助教授に就任。1987年同学部教授。1980年より設計事務所、★「造家建築研究所」543-0051大阪市天王寺区四天王寺1-12-10天王ビル/を主宰。2003年関西建築家大賞を受賞。
《NEWS》2017.2.11産経WESTより
住職設計、現代の要請に応えた「開かれた寺院」一心寺
大阪は奈良や京都と並ぶ仏教都市でもある。四天王寺から北へ、上町台地の西崖に沿って延びる一帯は、豊臣秀吉の時代から整備の始まった寺町で、甍(いらか)と坂道の織りなす風情ある街並みを形成している。その南端、天王寺公園に接する一心寺は、遺骨を集めて造られた仏像と、ユニークな建築群で知られた浄土宗の寺院だ。創建は1185(文治元)年に遡り、開祖法然上人がこの地を訪れて、上町台地の高台から西に沈む夕日を眺め、南無阿弥陀仏と唱(とな)えたことに由来するという。由緒ある寺院は第二次世界大戦の空襲でその殆どを焼失し、戦後徐々に再興されていくが、他の寺とは異なり、総檜造りの大本堂などに交じって、鉄とコンクリート、ガラスでできた現代建築が建てられていった。設計したのは前住職で、現在は長老の職にある★高口恭行氏。大学で建築を学んだ後、仏に仕えながら自ら設計事務所を設立、奈良女子大学で長らく教鞭(きょうべん)も執った異色の存在だ。現在、設計活動からは身を引いているが、大阪を代表する建築家の一人である。1977(昭和52)年に建設された大広間のあるコンクリート打放しの日想殿は、六角形の変わった形をした大屋根が、むき出しの鉄骨トラス構造で空中に持ち上げられている。参詣者を迎え入れる山門は1997(平成9)年の完成で、全面ガラスの屋根を通して、5メートルの高さをもつ青銅製の仁王像に陽光が注ぐ。一般的な寺のイメージからほど遠いその建築群は、一見奇抜に見えるかもしれないが、それは寺院に求められる現代的な要請に応え、境内の調和に配慮しようと考え抜いた結果の形でもある。山門は緊急車両が通れる高さと幅を確保するため鉄骨造とし、境内のオープンスペースを残すため共同トイレを地下に埋め、休憩所としての機能も果たす複合建築として設計された。日想殿の大屋根も、奥行きの長い広間に合わせて屋根を架けると隣の本堂より目立ってしまうところを、六角形に折り畳むことで高さを抑え、境内全体のバランスを取ったものだ。その他にも、仏教に通じた建築家だからこそ設計可能な、現代寺院のための工夫が凝らされた建築が並ぶ。さらに一心寺の建築は境内にとどまらない。2002(平成14)年、東の道路を挟んだ位置に三千佛堂が再建された。千体の仏像を未来に渡って奉安するため、500年もつ建築を目指したという。寺の施設が境内を越え出て、道路から直接金色の仏像を拝むことのできる街との近さは、高口氏が掲げる「開かれた寺」のありようを象徴している。(高岡伸一/建築家)
・・・お待たせしました、「上野製作所」に到着です。