村野藤吾(10) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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《上野製作所》 

543-0051大阪市天王寺区四天王寺2-4-4/06-6771-0407 

http://ueno-seisakusho.co.jp/index.htm

1904初代★上野重吉が、伊勢にて★伊勢神宮のギボシ、ランカン、カラン等の金具製品を納品。その後京都にて、それらの銅製品を薬品により青銅色にする技術を会得する。 

1913★伊勢神宮第57回式年遷宮「御橋擬宝珠金物」製作 

 

《参考》伊勢神宮「宇治橋の擬宝珠」 

宇治橋の西詰北側二本目の擬宝珠の中には、橋の安全を祈って饗土橋姫神社の萬度麻が収められています。この擬宝珠に触れて帰ると、また参拝に訪れる事ができると言われています。右側通行で帰る際には、最後から二本目となります。色が違っていますし、文字が刻まれていますのですぐにわかります。

 

 

1918現本社所在地において銅合金の鋳造・加工業務を開始。プレス加工による建具金物、蝶番錠前などを製造し゛サンゴ印″製品として製造販売  

1934合名会社上野製作所を設立。上野重吉が社長に就任。 

1935南満州鉄道株式会社(当時)に車輌金具の製造・納入。大連、新京(長春)各地に建築用金具を直接販売。また特殊装飾金物を製造、台湾に出荷。旧台北駅舎他を施工。国内においては、海軍軍需品を製造し、各軍需部工廠に納入。のちに軍需工場として指定される。  

1947株式会社上野製作所に改組、★上野誠次郎が代表取締役社長に就任。 

1950日本芸術院会員★故村野藤吾先生の製作指導のもと、先生の代表作のひとつ、そごう百貨店大阪店を始め、京都都ホテル(グラビティーヒンジ)、日比谷日生ビル、近鉄百貨店、新大ビル、新歌舞伎座、千代田生命本社ビル、日本興業銀行本店等に、当時としては画期的なステンレスを素材とした装飾金具を納入。その後、各諸官庁営繕部、各設計事務所、各建築業者のご指導のもとにステンレス、真鍮、アルミ、非鉄金属を主とした各種装飾金物を製作。 

1962尼崎市庁舎階段手摺に、日本で初めてビニアンハンドレールを使用。 

1963自社製品として「ハードアルミマット」(PAT.No580549他) 

1976トイレットペーパーホルダー(PAT.No1150460他) 

1981大阪芸術大学において、第一工房、高橋先生の御指導によりバイブレーション仕上による扉(把手部銅)を発案。 

1992関連会社コーラルウエノ設立 

1993新社屋完成 

1994上野誠市が代表取締役社長に就任。 

1999トイレ介助用手摺「おいてらくらく」(意登No,105659) 

2007ステンレス仕上材として、夢窓仕上 白川を考案。

 

 

・・・社員の方に訪問の趣旨をお伝えしましたら、昔はそういうことをしていたようですが、社長でないと詳細はわからないということでした。仕方なく、ビルの裏側に抜けてすごすご帰ろうとしましたら、非常階段?の手摺が只者ではないことに気づきました。

 

 

・・・まさしく「ムラノ」です。ビルの周囲を探しましたが、それらしい痕跡はありませんでした。後ろ髪ひかれる思いでビルを振り返りますと、屋上に銀色に輝く鳥居が見えました。あれも「上野製作所」の仕事だなと、前を見ますと「五條宮」の鳥居がありました。

 

 

・・・やっぱり「上野製作所」謹製でした。屋上の鳥居は観に行くことはできませんでしたが、ここにデンと据えられていて大満足です。

 

 

《五條宮》

543-0041 大阪市天王寺区真法院町24-9/06-6771-5444 

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000343189.html

天王寺七社の一。創建時期は1400年前と云われるが、実際は不詳。四天王寺建立の折、医療病院の鎮護として医道の祖神五条大神・少彦名命を祀る。後、敏達天皇社と改められ、東成郡五条村の鎮守となり、鬼門・火災除けの神としても信仰された。五条村は、江戸時代前期の元禄4年(1691年)に北平野町村と南平野町村に分村。現在の中央区東平・上汐、天王寺区上汐・四天王寺の一部などにあたる。五條の名は古代難波宮の五條筋に当たることから起こり、大阪における條坊制を唯一伝えている。神木・公孫樹は樹齢約500年。敏達天皇が皇太子のときに居住した邸跡という。敏達天皇の皇子に難波皇子がおり、その子に粟隈王、その子の美奴王が橘三千代を娶り、橘諸兄を生んでいる。それを以て橘氏の祖神とする。1872年(明治5)、村社に列し、1915年(大正4)6月、神饌幣帛料供進社に指定される。