・・・年明け、「主題派」第123回会員展の案内ができあがりました。
・・・主題派メンバーが先般「独立展」に出品されていましたので、観に行ってきました。
・・・独立と言えば、「靉光」を思い出します。
・・・しっかり描きこまれた大画面に、圧倒されます。
《第85回独立展》大阪展
2017年11月21日(火)- 11月26日(日)於:大阪市立美術館
大阪市天王寺区茶臼山町1-82(天王寺公園内)
http://www.dokuritsuten.com/85/index.html
【靉光】(1907~1946)
昭和前期(戦前・戦中期)に活動した。本名は石村日郎。靉光はシュールレアリズム風や宋元画風など特異な画風で知られるが、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。将来性を大いに嘱望されていたが敗戦後に戦地からの復員を待たず、★38歳で病死した。戦時下の状況から、靉光は戦争画を描く事を当局より迫られ「わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい」と泣くようにいったという。
1924大阪に出て★「天彩画塾」に学び画家を志す。このころから靉川光郎と名乗る。靉光の名は、これを略したものであった。
1925上京、谷中へ居住し太平洋画会研究所に学んだ。フランス近代絵画の影響を受け、作風がめまぐるしく変化した。
1926二科展に初入選。以降「池袋モンパルナス」と呼ばれた界隈で、独自の画風を追求していった。
1930年頃から画風が変化し、次第に前衛的作品が増える。二科展他、中央美術展、独立展などに出品し多くの賞を得た。
1936第6回独立美術展に『ライオン』を発表。2年間ライオンの連作を制作した。
1938第8回独立美術展へ代表作となる★『眼のある風景』を出品し、独立美術協会賞を受賞した。画風が次第にシュールレアリズムに傾く一方、「宋元画」の影響も現れる。
1939福沢一郎ら40名のシュルレアリスム運動家と共に「美術文化協会」を設立する。
《眼のある風景》作:靉光 (1907~1946)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/51838/1
昭和13年/1938Landscape with an Eye油彩・麻布102.0×193.5㎝
戦時体制へと傾斜していく昭和10年代、時代の非常時性が喧伝(けんでん)されるなかで自分の存在を割りきり、あらたな状況を先取りする社会の尖兵たらんとする人々の生活感情にはアクセルがかかっていた。第二の活況期といわれる新興美術運動の盛りあがりも、一面ではあおられた生活感情の現れであった。上京後しばらく、靉光もその波にのみこまれ、精力的にモダニスムを吸収したが、処世に不器用な彼は、非人間化していく社会に合わせて、自分を画家として割りきれず、制作も行きづまって、しだいに自らの存在のうちに沈潜していった。やがて、自虐的なほどの自己否定のなかから、近代化のうちに圧殺されてきた民衆的生活感情に連なるライオンが、存在のシンボルとして連作されたのち、意識的存在を批判する独自のシュルレアリスムに到達したのがこの作品であるといえよう。ここでは、もはや、あらかじめ意識にのぼったシンボルが描写されるのではなく、おそらくはライオン時代の古カンヴァスを塗りつぶしていったのであろうが、自己中心的な解釈を停止した行為のうちに存在者が解体され、むしろ、粘着的な摩擦感をはらんだマティエールに、むきだしの存在そのもののリアリティが現れている。意識的存在を批判する意識下の眼には、それゆえに、観念的な批判にはないリアリティがある。
http://kousin242.sakura.ne.jp/tanaka/eee/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8F%B2/1734-2/
《参考》Video work「眼のある風景が視る光景」byオル太
http://www.olta.jp/past-exhibition/2015_02.html
・・・時を経ても、「存在感」のある作品です。