キリンさん | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「芭蕉」さんについては今後もいろいろ調べていきますが、今回は「キリン」さんについて、 

 

《NEWS》2018.11.29朝日新聞より 

死ぬこと、誰かの心の中で生きること 樹木希林さん、友と語り到達した心境 

「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」――。独特の死生観で多くの共感を呼び、9月に75歳で亡くなった俳優樹木希林さんには、本名の「内田啓子」で私信を交わしてきた37年来の友人がいた。ふたりのやり取りからは、晩年の希林さんがたどり着いた境地の一端が浮かび上がる。 

「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」 

江戸時代後期の僧★良寛の辞世の句だ。希林さんと長年の友人で、★何必館(かひつかん)・京都現代美術館長の梶川芳友さん(77)はしばしばこの句について語り合ったという。希林さんはこう語った。「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」 

ふたりは別の良寛の句「散る桜 残る桜も 散る桜」も好んだ。だれにも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。「そう考えると、心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」 

 

【良寛】(1758~1831) 

江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。 越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。父・以南はこの地区の名主・橘屋であり、石井神社の祠職を務め、俳人でもあった。 

《良寛記念館》 

949-4342新潟県三島郡出雲崎町米田1番地/0258-78-2370 

http://www.ryokan-kinenkan.jp/

《燕市分水良寛史料館》 

959-0181新潟県燕市上諏訪9番9号/0256-97-2428 

http://www.city.tsubame.niigata.jp/school/029000030.html

《良寛の里美術館》 

949-4525新潟県長岡市島崎3938番地/0258-74-3700  

http://www.motenashiya.com/index.html

 

 

良寛は出雲崎の名主であった父の後を継ぐ名主見習いを初めて2年目の18歳の時、突如出家し、子どもの頃に勉学を積んだ曹洞宗光照寺にて修行をする。この時全国各地に★米騒動が頻発した。越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出した。村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であった。両親の説得にも関わらず、良寛は頑なに修行を続けた。出家後、安永8年(1779年)22歳の時、良寛の人生は一変する。備中玉島(現・岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。良寛は故郷を捨てたが、この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう、と誓った。円通寺の格式は高く、その入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。そして経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与える。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接する。しかし帰郷は許されるはずもなく円通寺の修行は12年も重ねた。寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受ける。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山国上寺の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ。 

https://kokujouji.com/garan.html 

『秋萩帖』はその手本として自ら選んだ。五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活だった。良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子ども達から「凧に文字を書いて欲しい」と頼まれた時には喜んで『天上大風』の字を書いた。  

《参考》「山田杜皐宛て手紙」 

1828年11月12日に起きた「三条大地震」の後に出されたもので、良寛が山田杜皐に無事を伝える内容となっています。 

地しんは信(まこと)に大変に候 野僧草庵ハ何事なく親るい中 死人もなく めで度存候 うちつけにしなば しなずてながらへて かゝるうきめを見るがわびしさ 

しかし災難に逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是ハこれ災難をのがるゝ妙法にて候 かしこ 良寛 

臘八 山田杜皐老  良寛 与板 

 

・・・何必館館長★梶川芳友さんは、「全国良寛会」の顧問もされているそうです。

 

 

ふたりは、1981年に希林さんが「何必館」を訪れたのを機に出会った。定説を「何ぞ 必ずしも」と疑う自由な精神を持ちたいとの願いから名付け、希林さんはこの精神に共鳴し、梶川さんと人生を語るようになったという。「死への恐れ、定説から自由でいることの難しさも感じる。だからここに通い続ける。ほっとするの」 

 

◆【何必館・京都現代美術館】◆ 

605-0073京都市東山区祇園町北側271/075-525-1311 

http://www.kahitsukan.or.jp/

1981年11月祇園に開館した美術館。陶芸家、書家、美食家としても知られる★北大路魯山人をはじめ、★村上華岳、山口薫のコレクションを中心に、近現代の日本画、洋画、工芸、写真、書を展示している。年間を通じて、多くの企画展を開催するほか、北大路魯山人の作品を常設展示する。 

 

何必館には、近代日本画家★村上華岳(1888~1939)の「太子樹下禅那」がある。51歳で早世した華岳がぜんそくの発作の中で描いた遺作で、若き日の釈迦が座禅修行する姿が描かれている。絵には「官能性」「遊び心」と同時に「死への不安や葛藤」が同居している。希林さんは京都に来るたびにこの仏画に向き合い、「孤独」について語り合った。「独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る」梶川さんが仏教の教えを語ると、希林さんはこう返した。「絆も信じ過ぎるとお互い苦しくなる。孤の意識が人を育てる」 

 

 

【村上華岳】(1888~1939) 

日本画家。出身は★大阪(北区松ヶ枝町)。本名を武田震一(のち村上震一)。幼いころに家庭の事情により実父母のもとを離れた。その後は叔母が嫁いだ先の神戸にある村上家に預けられ、神戸にある小学校へ通った。1901年(明治34)に震一が13歳の時、実父が死亡した。その後、実母は再婚して行方が分からなくなった。このことから、当時少年であった震一が武田家の家督を継ぐこととなった。3年後の1904年(明治37)に武田家の廃家が許可されたため、震一は養父母の姓である「村上」を名乗ることとなった。これより村上震一となる。1903年(明治36)から1907年(明治40)まで京都市立美術工芸学校で学び、1909年(明治42)には上級学校の京都市立絵画専門学校(現在は京都市立芸術大学)に入学。1911年(明治44)に卒業した。また、卒業と同時に同専門学校研究科に進学し、1913年(大正2)に修了した。華岳こと村上震一は1908年(明治41)から文展に出品を始めた。京都市立絵画専門学校にて行った卒業制作『早春』(後に『二月の頃』と改題)は京都の吉田山から銀閣寺方面を展望した田園風景を遠近法を用いることで俯瞰的に描写したものである。この作品は1911年(明治44)の第5回文展において褒状を受けた。その後1916年(大正5)に華岳にとって初の仏画となる『阿弥陀之図』が第10回文展特選となった。1918年(大正7)には京都市立絵画専門学校の同窓にてあった華岳、小野竹喬、榊原紫峰、野長瀬晩花、土田麦僊の若手日本画家5人で国画創作協会を設立した。国画創作協会での活動は、文展の審査のあり方に疑問を持った画家たちが、東洋美術と西洋美術の融合による新たな絵画の創造をめざして旗揚げしたものであり、近代日本画革新運動の代表的なものとされ、美術史上に重んじられている。国画創作協会、第2回展にて出品した『日高河清姫図』は華岳の代表作の一つに数えられる。また、国画創作協会、第1回展に出品した、涅槃をテーマにした作品『聖者の死』は焼失した。1920年(大正9)の同協会第3回展にて出品した『裸婦図』に描かれた女性は、単なる「裸婦」というより菩薩のように捉えることが出来る。生身の女性の官能美と菩薩の聖性といった、本来相反する要素であるにもかかわらず、画面では自然と同居している。1921年(大正10)に国画創作協会の他の仲間たちは渡欧したが、華岳は持病の喘息が悪化したため渡欧を見合わせた。1923年(大正12)に京都から今の兵庫県芦屋市に転居した。さらに1927年(昭和2)に神戸市花隈に転居している。 

《参考》「花隈自治会館」/神戸市中央区花隈町17-17 

その後の華岳は京都の画壇とは距離を置き、個性的な牡丹図や水墨にプラチナ泥、山水図、を併用した仏画などの制作に取り組んだ。華岳の作品で昭和期に入ってからのものは、小品が多い。また色彩もモノクロームに近いものが多く存在する。華岳の描く仏や菩薩については1920年(大正9)の『裸婦図』の系譜を引いている。それは、妖艶さと聖性、世俗性と精神性、官能美と悟りの境地という相反した要素が不思議と調和している。1939年(昭和14)に喘息のため51歳で死去した。

 

 

ふたりは60歳を迎える頃に大病を患った。希林さんは61歳で乳がんになり、梶川さんも60歳のとき心筋梗塞で1カ月間入院した。病を経て、ふたりは別々のものだと思ってきた「生」と「死」が一体のものだと気づいた。希林さんはこう言った。「病が不幸だけなんて。もったいない。がんは特に残り時間が読めるからありがたいわよ」希林さんはがんを機に、「所有しない生き方」を選び、名刺一枚受け取らなかった。それなのに、2年ほど前、梶川さんは希林さんから「太子樹下禅那」の小さいサイズの複製画を求められた。9月16日。訃報を受け、梶川さんは東京の自宅に駆けつけた。希林さんの枕元には、あの仏画がかけられていた。梶川さんは「どんなに覚悟を固めていても死はどこか恐ろしい。その時に、希林さんはすべてを心得た慈愛に見守られながら旅立ちたかったのかもしれない」と語った。 

夫★内田裕也さんに触れた言葉もあった。「共演者と合わなくて。あー疲れた」晩年は丸くなったという希林さんだが、物事や人に対して厳しい人でもあり、電話でこうこぼすこともあった。そんな時、梶川さんは釈迦の弟子の一人、★提婆達多の話をした。釈迦にたてつき、困らせる、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいのではない。困らせる人は己を磨く上で必要だ」と説いた。すると、希林さんは「くっくっ」と笑いながら言ったという。「そういえば提婆達多は、私にとっての裕也ね」 

 

・・・「キリン」さんにまつわる「エピソード」はつきない。あまり芸能界やテレビに興味をもたない私ですが、「キリン」さんの「個性」が深く刻み込まれたのは何故だろう。様々な苦労や努力はされてきたのだろうけれど、それを感じさせない「素(ス)」のまんまが抵抗なく忍び込んでくる。「キリン」さんの人生は、それこそ「大河ドラマ」だろうけれど、理屈や説明を必要としない「hike(俳句)」のさわやかさに近いものを感じる。そして、この新聞記事に接して妙に納得させられた。 

 

【樹木希林】(1943~2018) 

女優。戸籍名、内田啓子、旧姓:中谷。また、旧芸名は悠木千帆。東京府東京市神田区(現・東京都千代田区 )出身。夫はロック歌手の内田裕也。間に娘・内田也哉子(エッセイスト、本木雅弘夫人)がいる。夫の内田とは長く別居を続けていた。父は薩摩琵琶奏者・錦心流の中谷襄水(辰治。妹も薩摩琵琶奏者の荒井姿水(昌子)。その息子も薩摩琵琶奏者の荒井靖水で、妻の荒井美帆(箏・二十五絃箏奏者)とDuoで活動している。 

1961年に文学座付属演劇研究所に入り、「悠木千帆」名義で女優活動をスタートする[2]。この芸名は「芸能界では“勇気”が必要」として父親が考案し(最初は、勇気凜々という言葉から『悠木凜子』という名を提案された)、千帆は版画家★前川千帆から採られた。当時は後年のイメージからは想像しづらい若者ファッションで街を闊歩していた。1964年に★森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した。1965年に文学座の正座員となるが、1966年に文学座を退団した後も、個性派女優として多くのテレビドラマ、映画、舞台に出演する。20代の頃から老人の役を演じ、出演するドラマ、映画などでは老け役が当たり役だった。 

1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』で、★小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた。実年齢は小林より10歳以上若く、頭髪を脱色し「老けメイク」を施し、当時30代前半のまだまだ若い手との不自然さを隠すため、劇中は指ぬき手袋を外さなかった。本作品の劇中において、寺内家の母屋でドタバタ騒ぎが始まると、自分の住む離れに駆け込み、仏壇の横に貼られた★沢田研二のポスターを眺めて「ジュリーィィィ!!」と腰を振りながら悶えるシーンが話題となる。  

1977年4月1日、『日本教育テレビ』(NETテレビ)から『全国朝日放送』(テレビ朝日)への局名・会社名称変更を記念して放送された、特別番組『テレビ朝日誕生記念番組・わが家の友だち10チャンネル・徹子のナマナマ10時間半完全生中継』の中のオークションコーナー「にんげん縁日」で、「売る物がない」との理由で、特に思い入れが無かったという自身の芸名「悠木千帆」を競売にかけた。このことは、この放送前にスポーツ紙で報道されたこともあって、つかこうへいから「200万円で売って」と持ち掛けられたこともあったが、これを断った。結局、名前は40万円で通りすがりだったという東京・青山のブティック店主が落札し、その40万円はチャリティ-として寄付した。落札した旧名はこの店主から無償で2004年に女優の山田和葉に譲渡された。 

芸名の売却後、芸名を本名の内田啓子にすることも考えていたが、内田裕也が「(内田を芸名にすると)俺の個性が君の芸にからむようでまずい」と反対し、TBSプロデューサーの久世光彦からも「そんなイージーな役者は死ね」と叱られたほどだった。その久世からは「芸名が変わると誰だかわからなくなるから、買い戻してくれないか」とも、「『母啓子』(ははけいこ)という芸名はどうだ。年をとったら、母に濁点付けて『母゛(ババ)啓子』だ」とも言われたことがあった。仕方なく、辞書を引いて文字を拾いながら決めることにし、この4文字から「樹や木が集まり希(まれ)な林を作る=みんなが集まり何かを生み育てる」ということを連想し、自ら樹木希林に決めた。本人は、音が重なるのが好きだったということで「『ちゃちゃちゃりん』とかでも良かったが、これでは漢字が当てられなかった」とも話している。 

ドラマ『ムー』『ムー一族』で共演した郷ひろみとのデュエットで「お化けのロック」「林檎殺人事件」をリリース、大ヒットした。(以下略) 

 

《NEWS》2016.10.15朝日新聞より 

樹木希林が通い続ける「何必館」 

祇園・四条通沿いのビルの5階に、その坪庭はある。エレベーターの扉が開くと、モミジの葉が風に揺れ、柔らかな陽光が注いでいた・天井には楕円の穴。その奥には茶室。外の騒がしさとは対照的な静寂に包まれた。「こんな場所に本物の美。常識にとらわれない遊び心。私の好きな京都です」案内をしてくれた女優の樹木希林(73)は、ほほ笑んだ。坪庭と茶室は「何必館・京都現代美術館」の最上階にある。この美術館の館長の梶川芳友(75)が近代日本画家の村上華岳の作品を鑑賞するために、自ら設計し1981年に建てた。人は定説にしぱられる。定説を「何ぞ必ずしも」と疑う自由な精神を持ち続けたい。こう願った梶川は、美術館を「何必館」と名づけた。最上層は、梶川が美術の世界に入る契機になった村上の晩年の作品「太子樹禅那」のためだけにつくった空間だ。樹木は、35年前にテレビ番組の収録でこの坪庭を訪れた。「何ぞ必ずしも」の精神に共鳴し、折に触れ、梶川と美術を通して人生を語るようになった。折に触れと書いたが、2人は会う約束はしない。「足を運び、出会えた時が、その時」。会うことも「何ぞ 必ずしも」。そんな樹木の人生に大きな影響を与えたのは病だ。60代で左目を失明し、今、全身に転移したがんとも向き合う日々だ。死を意識したとき、「所有しない生き方」を選ぶようになった。靴は3足、洋服も買わない。名刺1枚受け取らない。「そぎ落とされ、感性を磨くことに集中できるので、表現者としてもプラスに働いている気もする」頂き物のショールも自らズボンに縫い直す。受賞トロフィーも、自分の死後に家族が使えるようにと、電気スタンドに変えた。そのことを梶川に話すと、「北大路參聡程廃品利用の名手・失敗作は捨てるのが常識だったのに、二度焼きして生かした」と教えてくれ、2人で笑った。樹木は19歳から京都に通い続けてきたが、年を重ねるごとに一層ひかれるようになった。「京都には、自由な発想で生活に根ざした美がある。そこに析りも加わった風土や生き方がすぱらしい」だが同時にこの間ずっと、死への恐れ、所有や定説から自由でいることの難しさも感じてきた。「だからここに通い続ける。ほっとするの」

 

 

 

《日曜美術館「北大路魯山人×樹木希林」》 

NHKEテレ2017年8月放送/2018年9月23日再放送 

https://blog.kenfru.xyz/entry/2017/08/05/%E6%97%A5%E6%9B%9C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E3%80%8C%E5%8C%97%E5%A4%A7%E8%B7%AF%E9%AD%AF%E5%B1%B1%E4%BA%BA%C3%97%E6%A8%B9%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E6%9E%97%E3%80%8

女優の樹木希林さんが日曜美術館に初登場。食通として知られる一方、生涯料理に合う器を作り続けた北大路魯山人。型破りで斬新なデザインから時には「焼き物知らず」と言われながら独自の美意識を貫いた。そんな魯山人に心を引かれているのが日本を代表する女優の樹木希林さん。傲慢と言われ人と衝突することの多かった魯山人の生きざまをどう読み解くのか?そしてどんなところに魅力を感じているのか?たっぷりと語り尽くします。 

 

・・・いいもの、美しいもの、スゴイ人って不思議なくらい繋がっていくから、凡人は到底ついていけないなあ。でも、せめて「hike(俳句)」なアートをめざしていきたいと、またまた思うのでした。